けさの朝日新聞《声》に『給食でのけが「完食主義」を懸念』の投稿があった。埼玉県朝霞市の小学校で、給食の皿うどんの麺を食べた児童6人と教諭が歯が欠けた事件のことである。
私も変な事件だと思った。硬いものは硬いものだから無理して食べることがないのに、と思った。
投稿の趣旨は、私のような普通の考えが この小学校に通用せず、完食しないといけないという「完食主義」があったのではないか、ということである。そうなら、埼玉県朝霞市はとても変なところだと思う。
「完食主義」とは何だろうと思って、ネットで調べてみると、
〈昭和にあった「残さずきれいに食べましょう」の美徳文化が時代を超え、陰湿さを増して今なお残っている。子供たちが楽しく給食を食べられる空間は、大きく歪められようとしている。〉
そんなことが、昭和の「美徳文化」だなんて知らなかった。
第1次ベビーブーマの私は好き嫌いが強く、嫌いのものは食べなかった。給食係がバケツをもって食べ残しを集めて回っていたから、食べ残しは別に禁止されていたわけでなかったと思う。
嫌いなものを私が食べないことを、妻や子供にいつも自慢している。
ピーナツバターの匂いが嫌いで、私は絶対に食べない。給食でピーナツバターが出て、それでみんなが食中毒になったが、私だけが食中毒にならなかった。
私は火がよく通ったものしか食べない。昔、会社の新年会でみんなが生煮えのカキ貝を食べたが、私だけは口にしなかった。それで私だけが食中毒を起こさなかった。
私は食事を個人的行為と考える。なぜ、教師が食事に口出すのか、理解しがたい。
「完食」と「会食」とは区別する必要がある。別物である。
「完食」は個人的ポリシーである。私の大学時代のクラスメイトの女子は、名大教授の父親より、「お米は農民が一所懸命働いて収穫したものだから1粒たりとも残してはいけない」と言われて、実践していた。
私から見れば、食べられるだけの量のご飯を盛ればいい。自分の体調を見誤って盛りすぎることもあろう。そのときは無理せず残せばよいと思う。
しかし、農民の苦労を思って、残さず食べようという心がけも可愛い。彼女のポリシーを否定することはできない。
しかし、「給食」の完食は、それ以前に、「会食」の問題である。出されたお酒は飲め、出された食事は食べろは、みんなで同じものを飲み食いすることに、重点が置かれている。個人の好き嫌いは許されないのだ。すると、「給食」の完食は、子どもたちを疑似「共同体」の儀式に放り込むことである。そして、教師が教壇の上から子どもたちを監視しているとなると、これは、完全に個人の否定である。民主主義社会では許されないことである。
私から見れば、食べられるだけの量のご飯を盛ればいい。自分の体調を見誤って盛りすぎることもあろう。そのときは無理せず残せばよいと思う。
しかし、農民の苦労を思って、残さず食べようという心がけも可愛い。彼女のポリシーを否定することはできない。
しかし、「給食」の完食は、それ以前に、「会食」の問題である。出されたお酒は飲め、出された食事は食べろは、みんなで同じものを飲み食いすることに、重点が置かれている。個人の好き嫌いは許されないのだ。すると、「給食」の完食は、子どもたちを疑似「共同体」の儀式に放り込むことである。そして、教師が教壇の上から子どもたちを監視しているとなると、これは、完全に個人の否定である。民主主義社会では許されないことである。
「給食」は貧困で食べることにも欠く子どもたちを救うための行為で、疑似「共同体」の儀式になってはならない。
こんなことが埼玉県朝霞市だけで行われているなら、みんなで朝霞市教育課を叩きのめせばよい。しかし、埼玉県の高校はいまだに男女共学ではないから、もしかしたら埼玉県全体がいかれているのではないか、とも思ってしまう。
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