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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

大学入学共通テストは廃止が望ましい、英語の試験問題は公平でない

2021-02-14 23:08:00 | 教育を考える


学校教育と大学共通テストは区別して論ずるべきである。大学共通テストは学校教育に影響を与えるが、学校教育は大学共通テストから本来独立してあるべきである。多様性があってしかるべき社会で、共通テストがあること自体がおかしいのであって、大学共通テストで、高校や大学の教育が均一化されることを避けるべきである。

学校教育に関しては、誰もがこうあるべきという権利がある。そして、それらの意見が互いに戦わされ、学校教育に反映していく道筋があるのが、民主主義社会の教育のあり方だと思う。さもなければ、学校教育は、政府主導の洗脳教育の場となる。

共通テストがなぜあるのか、私にはわからない。国民の学力レベルの底上げを狙うものなのなら、問題は易しくて、かつ、大学入学と結び付けないようにすべきである。

大学入学共通テストの英語テストを批判する投稿が数日前に朝日新聞にあった。批判のポイントがどこにあるか、具体的には わからなかったので、語学嫌いの私も、テスト問題文を分析してみた。

英語のテスト問題は、パターン化、形式化している。そのため、問題のパターンになれた受験者は高得点がとれる。予備校に通うか、学校で同じパターンのテストを受けている者が有利である。

問題文は、主文のテキストと、それを補う図表と、選択で回答を選ばす質問文からなる。

問題文に出てくる英語の9割がたは基本的語彙といえる。残りの1割は、問題文を読めば、意味が推測できる。単語によっては、問題文の中に直接説明されている。わからない単語が出てきても気にせずに読む訓練を受けている者には有利である。

私は英語が嫌いだから、中学、高校を通して予習、復習したことはない。したがって、辞書を引かずに、英語圏の新聞、雑誌、論文を読む習慣がついている。ときたま、ある日突然、単語の意味をまったく誤解していたことに気づき、冷や汗をかく。

私がそうだからと言って、生徒が辞書を引かずに英文を読むことを、高校の英語教師は受け入れることができるだろうか。

辞書を引かずに英文を読めるには、その英文が何を対象に書いているか、わからないといけない。これは、受験者がどんな文化圏で育ったかに依存する。問題文を読んで感じたのは、都会生活の経験がある者やインターネットを日常的に使う者に有利にできている。たぶん、問題文の作成者の多くが、都会育ちであるからではないか。

問題文の理解には上記の不公平があるが、主文のテキストは単語も構文も易しいものからなる。図表の英語も易しく、主文の理解を助ける。

それに対し、各質問は、主文のテキストの高度の理解を求めるようにできている。すなわち、主文のテキストから、書かれていないことを推測して、注意深く回答を選択する必要がある。これは難しいのだ。ここで要求されていることは、自分の考えを育てることではなく、問題の作成者が意図する回答を選択する能力である。

この問題作成者の傲慢さは英語でだけでなく、国語のテストでも見受けられる。かつてNHKテレビで、東進ゼミの林修は、東大の先生というものは自分の本音の明示を避けて遠回しの表現をするが、その表現パターンを習得すると国語の試験問題が簡単に解けると言っていた。

こういう能力を大学入学共通テストで要求するとなると、トップの意図を忖度して行動する官僚や社員が社会で多くなる。こんなことを教育するのに、学校教師は我慢できるであろうか。

NPOで私の指導している子どもたちの多くは、神経発達症か神経症の傾向がある。彼らがこの共通テストをクリアして希望する大学に行くのは、非常に難しい。彼らは絶えず考える子どもたちで、考えずに機械的に質問を処理する子どもたちと異なる。せめて、問題の量を減らしていただけないか、と思う。

不公平にならないように気遣う問題作成者の苦労もわかるので、一番良いのは、大学入学共通テストを廃止することだと思う。

大学入学共通テスト、英語の試験問題を批判する投稿に思う

2021-02-08 23:57:03 | 教育を考える


きょうの朝日新聞に、大学入試共通テストの英語の試験問題への批判が投稿されていた。要旨は、実用的な文章を機械的に大量に処理するテストになっており、2つの点で不適切だとしている。第1は、私大の個別試験や国公立の2次試験と趣を異なるために、テスト対策で生徒の負担をます。第2は、本当の英語教育は思考力や読解力を育てる深い読みにあり、テストはそういう教育に弊害がある。

私はもともと英語が嫌いだし、大学に入学するためにテストがあるというのに反対である。その点で、教師は、自分が正しいと思う英語教育を高校でやればいいじゃん、と思ってしまう。

しかし、現実的には、大学入試にそっぽを向いて教育すると、教師は、親や生徒からそっぽを向かれ、孤立し、場合によっては解雇されるかもしれない。そういう状況からの真剣な投稿だと思う。

私のみるところ、共通テストの特徴は、英検などの民間のテストと変わらないと思う。50年以上も前は、リーディングというと日本語への翻訳や文法問題があった。私が思うに、1つの言語で書かれた文章を別の言語に翻訳することは、不可能だと思う。その意味では、英語を日本語に直すことなく、英語のまま判断し、質問を処理せよとする現在の英語のテストは、それはそれで良いのではないか。英語が嫌いでも、文法がわからなくても、英語の文章に対処できるので、いいのだと思う。

共通テストの英語の得点が、大学入学に大きな影響を持たなければ、私大の個別試験や国公立の2次試験と趣を異なるので良いと思う。大学は、自分の欲しい学生を選ぶため、共通テストを無視すれば良いと思う。そもそも、共通テストは、多様性を認める社会の考え方と矛盾する。

今回の共通テストの英語の得点は、平均が約60点、標準偏差が約20点である。英語が嫌いなものには、標準偏差が大きすぎる気がするが、まあ、しかたがないのかもしれない。

投稿者は考える英語教育を唱えるが、その意味はわからないが、一律の英語教育をする必要がなく、イギリスやアメリカの文化に触れるための英文学や英新聞や英哲学を読む授業があってもよいと思う。日本人が教科書用に書き下ろした英文を読んでも、英語圏の文化に接したことにならない。

下記はJ. D. サリンジャーの “Catcher in the Rye”の冒頭にある一節だ。

The other reason I wasn’t down at the game because I was on my way to say good-by to old Spencer, my history teacher.

自分の先生の姓に、名前でなく、“old”をつける感覚なぞが面白い。文学は、日本とまったく違う世界があるということを知るきっかけになる。

英語を学ぶのは、英語圏のもの考え方を知るための手段でもある。決して、海外旅行をしたとき、料理を注文できるためでないはずだ。また、実用文を読むといっても、英語圏のビジネス感覚を知らないと、ビジネスレターひとつ書けないだろう。いいレターになるためには、公平な取引の主張のなかに、自分の思いやりを隠れた形で、入れ込む必要ある。

こう考えていくと、投稿者のいう本当の英語教育とは何か、もっと、持論を展開してくれると、議論が面白くなる。

どもること と ディスレクシア

2020-07-06 08:31:00 | 教育を考える

伊藤亜紗が『どもる体』(医学書院)で、どもりを直そうとすると、自分が自分でなくなるという、どもる当事者たちの率直な話を書いていた。

これは、ヒトの脳に、自分を意識する脳の部分と、意識せずに体を制御する脳の部分とがあるためだ。話すためには、肺、喉、顎、舌、唇の筋肉を動的に脳が制御しなければならない。多くの人は、これを意識せずに、行える。しかし、それでも、外国語を話すとき、意識して発音を直そうとすると、非常に苦痛であることを、発見するだろう。

どもる人が、どもらないように話すとは、そういうことである。苦痛だから、どもらない言葉を選び、リズムよく話すと、自分が自分でなくなるのだ。これを伊藤亜紗は「どもる体が自分を支配する」と言う。
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NPOで私が担当した子どものひとりに、ディスレクシアの子がいた。
ディスクレシアを日本語で読字障害というが、1文字が読めないのではない。文字が並んで単語になり、文になると、急に読むことが、苦痛になるのだ。

彼女も、紙媒体の文章を早く読めず、とても疲れてしまう。ある日、読まないと決断して、周りにそう告げたら、毎日が疲れず、学校にも遅刻せずに行けるようになった。そして、帰宅後に、自分の時間を作って、自分から好きな勉強ができるようになった、と言う。

面白いことに、彼女は、きれいな字を書ける。iPadで文章を読むことは苦痛でない。しかも、iPadで、論理構成のととのった的確な文章を作成できる。

彼女の場合も、伊藤亜紗の『どもる体』と同じような問題が起きている。
じつは、読字とは、話すと同じく、色々な脳内処理を無意識に行っている。

私がITの会社の研究所にいたとき、まわりに、文書自動読み取りをおこなうグループがいた。まず、文字列が書かれている方向を同定する。日本語の場合は、文字列が上から下に向かう場合と、左から右に向かう場合とがある。目でみる世界は、上下、左右、斜めに広がっており、文字列の向きを選び出すのが「おお仕事」である。

次に、文字を1つ1つ切り出す。切り出された文字を記憶の文字群とマッチングする。まず、切り出しの範囲が的確でないと、認識率(正答率)が落ちる。文字は色々なフォント(字体)と大きさがある。この段階で認識率を100パーセントにできない。非常に優れたアルゴリズムでも98パーセントが飽和点である。ここで、1文字の判読をあきらめ、文字と文字の接続関係に統計データを使って、100パーセントに近づける。

コンピュータによる文書自動読み取りの場合は、意味のレベルで文章を理解する必要はないので、ここでおしまいである。しかし、ヒトは、さらに、文字列を意味ある単位、文節に切り離し、脳内でその文節に関連する語や行為やエピソードを思い浮かべる。そして、文節と文節の関係を助詞などから、理解し、書き手のメッセージを理解する。

私は、彼女の場合、文字列の方向の同定とその切り出しに、まず、負担がかかっていると思う。iPadを使った場合は、文字列が左から右に限定され、画面にはいる文字列の数が限定される。

このことから、次のことを、提案したい。

印刷媒体では、横書きに限定し、文字列と文字列との間をあけるような配慮をすべきである。
話し言葉では、文節単位で息をつくのに、現在の書き言葉では、文節の分かち書きをしない。江戸時代の草書では、文節単位で文字がつながり、文節と文節の間は空白であけられていた。現在、小学校低学年の教科書では、文節単位で、区切りの空白文字を入れ、読みやすく、している。これを見習うべきだろう。

また、漢字の使用にも配慮がいる。読字障害の視点からは、漢字の読みに訓読みと音読みがあり、それぞれにも何通りかの読みがあるのはまずい。漢字の読みをできるだけ一通りにする必要があるだろう。また、日本は翻訳文化なので、漢字を組み合わせた造語が多く、それも、専門分野によって異なる。明治以降、粗製乱造された漢字の造語を整理整頓して減らす必要がある。

それでは、どんな文章が、ディスレクシアの人たちに負担をかけないのだろうか。サンプルを作ってみた。

 印刷媒体では、よこがきに 限定し、

 文字列と 文字列との あいだを あける ように 配慮する。

 あたらしい 文が きたら そこで 改行する。

 文節が 改行で 分けられない ように する。

 文節と 文節の 間に 空白を おく。

 漢字の よみを できるだけ ひととおりに する。

文書は拾い読みもできるので、すべて音声にすればよいというものではない。これからは、ディスレクシアに配慮した文章を書くような社会風土が必要だと思う。

オンライン学習でできるもの、できないもの、新型コロナ

2020-07-04 21:21:55 | 教育を考える

きのう朝日新聞〈耕論〉『オンライン、学べるもの 新型コロナ』で、鈴木大裕が新型コロナ騒動での休校に関しての論調を批判していた。タイトルは『受験=ゴールが進む危険』だ。「議論の前提にある〈学び〉の観念が、あまりにも貧弱」「重視されているのは、受験をゴールと捉えた〈お勉強〉ばかり」と批判する。

鈴木大裕は、つぎのように書く。

〈僕は最初、休校で多くの人が学校のありがたさに気付いたことは、教育のあり方を根本から見直すチャンスだと期待していました。子どもたちが待ち望んだのは、友達と会うことだったり、学校行事だったり、部活動だったり、授業以外のことが多かったのではないでしょうか。〉

考えてみるに、戦前の公教育は、天皇の優秀な臣下を作るものだった。政府が作成した国定教科書を使い、成績の優秀なものが帝国大学や士官学校に進み、官僚や軍人になった。実態がそうかどうかに異論があっても、明治憲法上、建前はそうであった。

戦後、天皇はかざりになった。それなのに、いまだに「受験がゴール」とは一体何なのか。

官僚が最終ゴールではないだろうが、きっと、良い大学にはいって、良い会社にはいって、楽な生活をしたいのだろう。本人はそう思ってなくても、周りがそう思っているのだろう。とくに、働くところが少ない、地方では、その傾向が強いのかもしれない。

鈴木大裕は、つぎのように書く。

〈僕は、こんな学習観で進むオンライン化の議論の行き先が怖い。学校から授業だけを抽出してしまえば、教育は商品化し、合理化が進みます。〉
〈学校の目的が「点数」になったとたんに、子ども一人ひとりの違いは序列化され、競争社会にのみ込まれてしまいます。そうではなく、多様な幸福の形を示し、一人ひとりの自己実現を教育の目標ととらえる。それが「勝ち組」「負け組」という今の社会から脱却する道なのではないでしょうか。〉
〈学校は「人を育てる」場所です。授業はその一部にすぎない。オンライン学習だって、普段会えない人とつながるような、教育の可能性を広げる方法がたくさんあるはずです。そういう視点がないままに進む議論に、貧しさを感じるのです。〉

人間は記憶で動く機械である。記憶を「お勉強」ばかりにつぎ込んで、「人が育つ」はずがない。「資本主義社会だから自分のためだけを願って何が悪い」という大人になってしまう。そして、「平和ボケ」とか「社会はお花畑でない」とか言い出し、世の中を良くしようとしない自分を正当化してしまう。

政府が公教育を始める前は、親が教育をにぎっていた。親が「善悪」を教えていた。ところが、産業革命以降、科学技術の教育と、善き市民の育成を目的とした公教育がどの国でもはやった。日本では、「善き市民」が「善き臣下」と替えられた。残念ながら、戦後も、「善き臣下」が「善きロボット」に替わっただけで、「集団主義」「非個性化」は少しもかわっていない。

「オンライン教育」の問題点は、教えるものと教えられるものとに、分けられることである。学校教育は洗脳の場と言えども、生徒同士が互いに教え合う。学校は、子どもにとって、社会を学ぶ大きな場になっている。いじめが発生するとか、不登校が生じるとか、は、現在の学校教育に何か問題があることを示している。PTAは、本来、公教育を、政府のものではなく、自分たちのものにするための制度である。

政府に逆らうことを忘れた人間はロボットである。クソである。

NPOで私が担当した子どもの一人は、中学受験でチックを悪化したが、新型コロナで休校になったおかげで、チックがほとんどでなくなった。オンライン学習をすると、「聞いて聞いて」と、ハーモニカで昭和のフォークソングを吹いてくれる。

新型コロナは学校による子どもたちへの抑圧を一時的に弱めたが、いっぽうで私のNPOの放デイサービスに悪影響をもたらしている。私たちのところの問題は、集団感染の発生を恐れるあまり、子ども同士で遊ばせることをやめ、早く帰らすことである。

私のNPOは、良い対人関係を築けない子どもたちを集めている。子ども同士で遊ぶことが他人と共感する心を育てる。これは、オンライン学習でできないことである。

そういえば、ハーモニカを吹いてくれた子どもは男の子だが、対面教育のときは、終わると先生と言って抱きついてくる子だった。

『鉄筆とビラ』 「自己否定」を突きつけるな、多数派は少数派を排除するな

2020-06-07 21:28:48 | 教育を考える


6月6日の朝日新聞に、本田由紀が『鉄筆とビラ』(同時代社)の書評を書いていた。

鉄筆とは、昔、同人雑誌やビラなどを謄写版印刷するとき、その原紙に文章や絵を書くときに使う道具である。ロウの塗った原紙を「やすり」状の鉄板の上に置いて、鉄筆で線を書くと、やすり目に合わせて原紙に小さい穴があき、インクをつけたローラーを押しつけると、その穴からインクがにじみだし、文章や絵が印刷できるという、仕組みだ。

本書の『鉄筆とビラ』の副題は『「立髙紛争」の記録 1969-1970』である。だから、「ビラ」は、政治的主張を煽るための「アジビラ」である。「立髙紛争」は「都立立川高校扮装」の略である。「教育秩序に総反乱を!」と要求する一部の生徒によってバリゲード封鎖され、収束するまでに、書かれた膨大なビラをまとめたものであるらしい。

本田は書く。

〈この紛争の克明な再現からは、当時の高校生らの、荒々しいが賢明でかつ幼さもある思考と感情が、むせ返るように伝わってくる。〉

「教育秩序」に疑問を持ち、逆らうことは、人として当然のことで、支持する。一生、その思いを持ち続けて欲しい。

しかし、続くつぎの文には、ひっかかる。

〈「自己否定」を突きつけるバリ派により打ちのめされながらも、署名や話し合いを通じて民主的に学校生活を立て直そうとする生徒らの様子が胸に迫る。〉

「自己否定」が気にいらない。精神医学の立場からすると、「自己否定」は心を病む引き金となる。私は、NPOに来る子どもや自分の子どもに、「なにも悪くない、悪くない」と言い続けている。

他者に「自己否定」を突きつけることはいけないことである。

「自己否定」は「東大闘争」で出てきた言葉と言われる。たしかに、同時代に生きた若者として、私は「自己否定」という言葉を聞いている。「自己否定」とは、自分が「被害者」であるだけではなく、「加害者」でもあることを意識しろ、ということである。だから、それなりに、「自己否定」にも理がある。

しかし、「東大闘争」での「自己否定」は、それを超えて他者の「人格否定」になっている。人間は過去の記憶で動く機械にすぎない。他者との接触を通じて、新たな記憶を加えることができる。しかし、過去の記憶をすべて否定することは、自己を失うことであって、自分の脳を破壊する。

だから、「自己否定」は危険であり、人に しいては いけないことである。

いっぽう、バリケードを実行した「一部の生徒」はどのように扱われたのか。「バリ派の主導者の処分」は妥当だったのか。「一部」と書いてあるから、「先鋭集団」はもともと孤立していたのだと思われる。「先鋭集団」の孤立は、バリケードで解消したのか。多数派の生徒は「バリ派により打ちのめされる」だけでなく、バリ派との意思疎通をとったのか。「先鋭集団」も心が傷ついたのではないか。

「署名や話し合いを通じて民主的に学校生活を立て直そうとする」という表現に、多数派による少数派の排除が起きたのではという疑問が生じる。「民主的」という名のもとに、多数派が少数派に暴力をふるったのではないか。多数派はバリケードのなかにはいり、少数派とともに新しい日常を創りだし、「教育とはなにか」を考えることをしたのか、の疑問を私はもつ。

相手と共に体験することをempathyというが、empathyがなければ、多数派は署名や話し合いという形の暴力を少数派に ふるっただけである。

私の疑問が「取り越し苦労」であることを望む。