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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

政府の教科書検定は 「歴史総合」という新必修科目の狙いと矛盾する

2022-03-30 23:15:48 | 教育を考える

不思議なんだが、子どもたちを見ていると、「地理」より「歴史」が好きなようである。どうも、世の中が固定したものではなく、どんどん変わっていくのが面白いらしい。歴史は子どもたちにとって、思いもつかない展開をしていく物語の連続らしい。

いっぽう、私自身は歴史が嫌いだった。高校の日本史のテストでは、わざと白紙の答案をだして反抗をしていた。不幸なことに、歴史は暗記ものだったからだ。

朝日新聞によると、この4月から、「歴史総合」という新科目が、高校の必修となる。高校生が抱きがちな「重要な出来事の暗記」というイメージを覆す狙いが込められているという。これは良いことだと思う。

歴史学者の成田龍一によると、「これまで世界史と日本史に分かれていた歴史科目を、18世紀以降の近現代史として『総合』した形で学ぶ新科目」だそうだ。

一国だけの歴史ではなく、「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」の3つのテーマで、「世界的な相互作用のダイナミズム」から歴史をとらえるという。すごい新科目だ。

「歴史は事実を暗記する科目ではない。生徒が『なぜなのか』と問いを立てるよう導くことが重視されています」と成田龍一はいう。

「暗記ではない」に賛成するが、『なぜなのか』という意味がわからない。歴史は必然ではないはずだ。このあとの「フランス革命は・・・7月に始まった」か「8月の人権宣言」かの議論を見ると、単なる時代区分の議論のように思える。

以前、放送大学で本郷和人が、武家の時代はいつ始まるのか、鎌倉幕府はいつ始まるか、もう「イイクニツクロウ」は通用しないというという話しをしていた。

しかし、もし、時代区分でなく、歴史をどう見るか、の問題であるとすると、人、それぞれの物語ができる。価値観の問題となる。思想の問題となる。

すると、教科書で1つの物語を押しつけるのは間違っている。政府が教科書検定をするのでは、洗脳教育となる。各自の価値観、思想に点数をつけるのでは、洗脳教育そのものになる。

「歴史」は、あくまで、ある1つの「物語」であって、子どもが自由に選べるものでなければならない。いくつもの異なった物語があってよい。そうでなければ、私がまた高校生になったら、「思想の自由」という理由で、白紙の答案を出し、「洗脳教育反対」のこぶしを挙げるだろう。


受験する生徒の内申書を中学校は高校に送る必要があるのか

2022-03-07 22:36:02 | 教育を考える

3日前、朝日新聞の耕論は『内申書と「態度」の評価』であった。3人の論者とも内申書は要らない、子どものこころを抑え込むだけであると論じていた。

内申書に学業成績だけでなく、生徒の態度の評価が書かれるというのを、私は知らなかった。確かに、子どもを受けいれる高校側とすれば、面倒な子どもを受けいれるのは嫌だろう。内申書にこの子は先生の言うことを聞かない、と書いてあれば、高校側も二の足を踏むだろう。しかし、書かれていることは、本当に信頼に値するものだろうか。

私はNPOで不登校の子どもたちや個別級にいる「発達障害」の子どもたちのこころのケアと学習を担当している。これらの子どもたちには成績自体が中学校でつかないので、横浜市では、内申書に学業成績がつかず、普通の公立高校には、事実上、進学できない。お金があれば、私立高校にいく。お金がなければ、希望者の少ない、公立の定時制にいく。

幸いなことに、私のNPOから定時制に進学した子どもたちは、みんな勉強が好きになって、楽しい高校生活を送っている。定時制高校の先生が熱心に教えてくれるからのようだ。昔と違い、必要な単位が取れれば、3年で卒業でき、さらに大学に進学できる。

3人の論者と同じく、私も内申書はいらないと思う。高校側は内申書がなくても、入試と面接で選抜できる。内申書がなければ、不登校や個別級の生徒が、普通の公立高校に進学できる。

平川理恵が指摘するように、もともと、生徒の人格を忙しい先生が評価できるはずがない。そんな内申書の記述を高校側は信用するのだろうか。じっさいには、先生と生徒の保護者と高校との間に疑心暗鬼が生まれるだけではないか。公立高校側が内申書で選抜をしない、内申書を受け取らないと宣言すれば良いのではないか。

内申書をなくせば、塩崎義明の言うように、中学の先生の負担を減らせる。内申書は、先生が生徒を無理やり従わすための暴力であると指摘する。生徒にも先生にもよいことはない。

試験の成績だけで入学選抜を行うのが人道的でないなら、柳沢幸雄が言うように、内申書ではなく、推薦状を高校に送るのでも良いのではないか。推薦状は、内申書と違い、本人も中を読める。また、平川理恵が言うように、本人が高校側に自己アピールをするのでも良い。入学希望の本人がなかを読めない内申書って、薄気味悪い。

中学校は、入学が決まってから、高校側にその子に必要と思うケアを申し送れば、いいだけと思う。みんなが満足する落としどころではないか。


教育を理由に子どもに暴力をふるうヴィクトリア朝イギリス人

2022-02-10 22:14:45 | 教育を考える

映画『どん底作家の人生に幸あれ!』を見て、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』(新潮文庫)の第1巻と第2巻とを図書館から借りてきたが、読み進まない。あと、第3巻と第4巻があるのだが。

別に中野好夫の訳が悪いのではなく、小説に書かれている約200年前のヴィクトリア朝のイギリス人があまりに粗暴であるからだ。胸糞が悪くなる。

主人公デイヴィッドが生まれる前に父が死に、彼がものごころがつく頃に、母が再婚する。母が再婚する前にデイヴィッドを「坊っちゃん」と呼んでいた継父(ままちち)は、再婚すると、算数やラテン語の勉強を強要し、できないといってデイヴィッドを鞭うつ。鞭うつために勉強を強要しているように思える。

デイヴィッドは鞭うたないでと必死に継父にしがみついてその手を噛んでしまう。継父に殴られたあと、こんな子はおいておけないと矯正塾のようなとこに入れられる。そこの校長は、子どもたちを鞭うつのが趣味で、なんかかんかの理由をつけて、鞭うつ。子どもたちは恐怖でおびえまくっている。しかも、なんの咎がない ふっくらとした小さい子 トラドルズをいじめるために とりわけ 鞭打つ。

デイヴィッドの母親が継父にいじめられて死ぬと、もう矯正も不要だと、ロンドンの酒ビンのリサイクル工場(こうば)に放り込まれる。

明らかに子どもの虐待である。ところが、ディケンズのこの小説が、ヴィクトリア朝のイギリス人に、感動をもって読まれたのである。ということは、当時の普通のイギリス人は多かれ少なかれ虐待を受けた経験があるのではないか、と思われる。子どもの虐待はあってはならないことだと受け取られるよりも、俺もそういうときがあった、可哀そうだなと、涙を流しながら読んだのではないだろうか。

もちろん、今の日本でも、内縁の継父による子どもの虐待がメディアで報道される。しかし、あってはならないことだと報道される。子どもを鞭うつなんて聞かない。警察に捕まらないように、傷跡が目立たないように、通常虐待する。子どもを虐待してはいけないということが、社会の常識になっている。

学校でも教師による体罰は禁止されていると私は思いたい。

私の記憶によると、小学校で教師が子どもに暴力を振るうことは一度もなかった。現在はどうなんだろう。私の長男がいた公立小学校で、暴力を振るう先生がひとりいたという噂があったが、本当だったのだろうか。

私の中学時代に、暴力をふるうと脅す先生がひとりだけいた。社会科の先生で、愛の鞭だとかいって、指示棒をしならせながら、席のあいだを歩くのである。ただ、その愛の鞭を本当に使ったのは見たことがなかったが、それでも、十分に恐怖をもたらした。

子どもに恐怖を与えるだけでも、私は虐待だと思う。あってはならない。

書いているうちに思い出したが、引きこもりを矯正するといって、子どもを施設に閉じ込め、暴力を振るう業者が日本にある。これも、法律で取り締まることができないか。子どもが殺されることで、表にでることがあるが、暴力で人を従わせることは、理由がなんであれ、犯罪である。


教科書を廃止すれば、中学の地理も面白くて楽しいものになる

2021-10-13 22:59:57 | 教育を考える

今日、NPOの教室で中学の地理の教科書を漫然と見ていたが、あまりにも面白くない。こんな教科書を教える学校の先生は可哀そうだと思った。

私は大学受験では地理を選択したが、その理由は勉強しなくても何も覚えなくても5割からも6割の点数をとれるからである。歴史を選択しなかった理由は、単に覚えることが多いからだ。昔は、中学高校の社会科がすべて嫌いだった。

子どもたちの話を聞くと、歴史が好きという子は多いが、地理が好きという子は少ない。私は、何のために子どもたちに地理を教えているのかわからない。戦前の地理は、世界侵略のための知識を与えるためのものだった。植民地を経営するために、地形、気候、資源、文化(言語、宗教と風習など)の基礎知識を教えたのである。

戦後の日本は世界支配の野望を捨てたのであるから、体系的に、世界のことを知る必要がない。ただ、いろんな国があって、いろんな都市があって、いろんな人が住んでいる、ことが わかれば よい。日本だけが自分のいることのできる場所でない、日本の常識は世界の非常識ということが わかれば よいだけである。それなら、体系的である必要がない。そのかわりに、面白くなければいけない。

中学校の地理の教科書には、北アメリカ州に、ロッキー山脈やアパラチア山脈が出てくるが、アメリカ合衆国の都市の名前はニューヨークしか出てこない。

それでも、子どもたちはロサンゼルスにはディズニーランドがあることを知っている。子どもによってはユニバーサルスタジオがあることを知っているかもしれない。あるいは、ドジャースやエンゼルスの本拠地であることを知っているかもしれない。ハリウッドの映画制作会社はロサンゼルスの郊外にある。町にはハリウッドスターの豪奢な邸宅が立ち並ぶ。平屋で庭が広い。ロサンゼルス空港があるサンタモニカは高層のオフィス街である。風景がまったく異なる。

私は、食費を節約するため、屋台で半身のチキンを3ドルで食べた思い出がある。

ニューヨークはもっと面白い町である。町の中央のセントラルパークにある丘とか池とか滝とかは全部20世紀の始めに人工的に作ったものである。パークの南が中流以上の人が働いている場所だ。ホテルもアパート代も高い。パークの北側は黒人の住むスラム街である。高層の建物がない。ほとんどが2階か3階である。車が走っていない。道路の中央を黒人たちが歩いている。

ニューヨークの市部に車で乗り入れるときは、橋やトンネルでお金をとられる。高速はアメリカではどこでもタダだが、市部への車の流入を抑えるために、乗り入れるとき、お金をとる。イギリスのロンドンでも このような策がとられている。

私は市部のホテル代が高いから、いつも郊外のホテルに泊まり、通勤電車でグランド・セントラル・ターミナルにでる。通勤電車は時間帯によって料金が異なる。全員が座っていける。グランド・セントラル・ターミナルには、店売りのとても美味しいピザ屋がある。息子はシカゴのピザ屋のほうがおいしいというが、グランド・セントラル・ターミナルのピザはもちもちして私は好きだ。

アメリカには懐かしい都市がいっぱいある。ヨーロッパにもいっぱいある。仕事で世界中をまわった。

中学の地理も、教科書を廃止すれば、面白くて楽しいものになる。子どもたちにインタネットの情報で世界の町の観光案内書を作成させるのがよい。


大阪市が 提言する小学校校長に答えず 訓告処分

2021-08-27 23:22:55 | 教育を考える

今日の朝日新聞〈オピニオン&フォーラム〉に大阪市の小学校校長のインタビュー『「平凡な校長」の直訴』がのっていた。今年の5月17日、大阪市長の松井一郎に提言をだし、教育委員会から訓告処分を受けた久保敬のインタビュー記事である。

なぜ、現役校長が松井の教育行政を批判したら、訓告処分を受けるのかわからない。部下から提言を受けたら、それに答えるのが長の責務でないか、と思う。

いまから、40年前、帰国して、30歳を過ぎてから、日本IBMの研究所に、中途入社した。1980年代は、ジャパン・イズ・ナンバー・ワンとか言って、日本人が根拠もなく威張り始めたころだ。三井信雄副社長が、新しくできた組織を視察に来て、スピーチをし、質問があるか、と集めた社員を前にして言った。誰も手を上げないので、可哀そうに思い、私が手を挙げて質問をした。そうしたら、突然、怒りだし、「犬の遠吠え」と入社したばかりの私をなじりだした。

三井信雄は「糞(くそ)」である。人間は対等である。質問はあるかというから、優しい気持ちで、質問したのである。欧米では、質問を求めた人は、質問に誠意をもって答えるのが普通である。入社してから、アメリカの本社から色々なトップの人びとが来たが、みんな、私のつたない英語の質問に笑って答えてくれた。会社の組織上では上下があろうとも、人間として、技術者として、研究者として、対等である。

三井信雄は糞である。しかし、日本のトップは、三井信雄のように質問や提言に答えないところがある。そんなことをしているから、組織が退廃して腐ってしまう。あにはからんや、1990年に日本のバブルがはじけ、経営の失敗を日本の技術者にしわせよせし、2000年代には、日本の技術水準は、韓国、台湾、中国の後を行くようになった。日本のトップは人の言うことを聞けない。

日本の経営者も行政の長も政治家も糞である。自由な発想は、率直で対等な対話から生まれる。質問や提言に答えなければならない。

松井一郎は糞である。日本維新の会は糞である。

久保の提言は、公教育(義務教育)はなんであるべきかである。いまの公教育は、あれやこれやの何でもを子どもたちに求め、そんなに多くのことを、子どもたちがこなせるのか、ということが考えられていない。そして、その無理な注文は教師にも大きな負担をかけている。

私は教師の免許制や検定教科書にも反対である。何を教えるか、を丁寧に議論していかなければならない。それがわかるのは教育の現場を担当している教師である。教師の意見を聞かずにどうして、誰が教育者の資格を認定し、教科内容を決めることができるのだろうか。

提言のなかで久保はつぎのように述べる。

《学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。》

私は、「学力」に劣等感をもった経営者や政治家が、子どもに無理な要求をしているだけだ、と思う。こんな教育で「グローバル経済を支える人材」になると思えない。それに、権力のおべっかをしている大学の先生たちが審議会で権威付けをしているだけと思う。新型コロナ感染対策専門家会議のように、政治家にNOをいうべきである。

久保は提言でつぎのように言う。

文科省は《グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言う。》

しかし、《 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。》

何を学ぶのか、何を教えるのか、の議論を抜きに、学力テストをして、子どもたちを競争させ、教師を学校間で競わせ、意味のない疲れと無気力に引き落とす。「グローバルな人材」をつくっているのではなく、助け合わず、権力に従順な、創造性のない大人をつくっているだけだ。

数日前、テレビで、たまたま、放送大学の教育心理学でパソコンのソフトを使っての、理科教育の成功例を紹介していた。いろいろな角度から浮力について質問するから、深く学習できるのだと言う。

そんなことはウソだ。科学は自分の目で観察し、手作りで何かをつくり、何かを発見することだ。教育者は子どもの好奇心を刺激し、見守り、自由な発想を壊さない範囲で、質問に答えたり、行き詰まりから抜けるよう手助けしたりする。決して、枠に当てはめない。私は物理を専攻したが、大学の物理実験は少しも面白くなかった。時間内に決められた結論に行き着くように設計されていたからである。教育とは、予測不可能の、不確実性のなかの可能性を秘めているべきである。

競争と上からのコントロールは、教育にあってはならない。