猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

子どもを「洗脳ビジネス者」の手に渡してはならない、福岡の虐待事件

2022-07-21 23:01:46 | 教育を考える

きょうの朝日新聞に、『中学生に袋かぶせて殴り監禁か NPO法人理事長・小学校教員を逮捕』という記事が載っていた。毎日新聞には、同じ事件に『障害児ら拘束の福岡のNPO法人 3日間の療育報酬は100万円』という見出しがついていた。

事件は子どもに対する虐待事件であり、また、詐欺事件である。福岡県警が、虐待と詐欺を行ったNPO法人「さるく」の理事長の坂上慎一と共犯者の小学校教諭の松原宏を逮捕したという記事である。

福岡県警が逮捕に踏み切ったことを評価するとともに、いまだに、このような虐待と詐欺が日本で行われているのか、と唖然とする。

いまから約40年前、戸塚ヨットスクール事件というのが起きた。ひきこもりや家庭内暴力を振るう子どもを有料で引き受け、「教育的体罰」と言う名目で預かった子どもたちを日常的に暴力を振るい、2名が死亡することで、組織的虐待の実態が明るみに出た。

今回の虐待の対象になった子どもたちは、朝日新聞によれば「発達障害児」であり、毎日新聞によれば「知的障害児」「自閉症」である。私の経験からすると、これらの子どもたちが、矯正施設に監禁され、「教育的体罰」という名の虐待を受けるというのが、私には不可解である。新聞は本当のことを語っていないと感ずる。

対象になっていたのは、不登校、ひきこもり、親に暴言暴力を振るう子どもたちであったと思われる。というのは、「発達障害児」「知的障害児」「自閉症スペクトラム症児」はみんな優しい子で、そんな子に暴力を振るう理由なんて、考えられないことだからである。

親は自分の思い通りにならない子どもたちを、お金を払って外部の暴力の導入によって、子どもを支配しようとしたのだと思われる。親はとても愚かしいことをしたのだ。暴力を使って、子どもの考え方を変えるなんてことは、絶対にしてはならないことである。

暴力をふるって考え方を変えさす行為を「洗脳」という。暴力の恐怖感から条件反射的に行動を変えるまで、洗脳対象の人間を徹底的に虐待するのである。当然、抵抗する人間は死に至ることもある。また、虐待する側は、虐待することに快感を覚えるようになり、過度の虐待をするようになる。

不登校、ひきこもり、親に暴言暴力は理由があるはずである。不登校や引きこもりには学校に問題があるからである。教師や他の児童に問題があるのかもしれない。隠れたいじめが結構ある。学校ぐるみでオカシイ場合がある。親に暴言暴力を振るうのは、それを理解してくれない親に対する抗議である。

子どもの訴えを暴力で抑え込み、親の思うように行動させるというのは、根本的な誤りである。不可能である。

私がいるNPOでの経験からすると、通常、小学校の不登校は、学校に行かさず、愛に満ちた環境に置けば、半年で自然に解決する。学校ぐるみでおかしいときは、まともな学校に転校すればよい。

家庭内暴力が生じた場合、私は、親子の和解に重点を置く。親子が対話できるようになることを目指す。

今回の福岡の事件が、社会に広く知れ渡り、子を持つ親が「洗脳ビジネス」に騙されないことを願う。

人は記憶にもとづいて動く「からくり人形」のようなものである。記憶は神経細胞のつながりによって実装される。この記憶に自ら逆らうのが知性であり、自由意志だと、私は思っている。団体や国家の暴力によって、この記憶が書き換えられるなんて、あってはならない。


朝日新聞『人生のための性教育』、性は生きるための原動力

2022-06-14 22:45:34 | 教育を考える

きょうの朝日新聞に、性教育の重要性を訴えるインタビュー記事『人生のための性教育』がのっていた。語るのは助産師の桜井裕子である。

彼女は「性についての情報は、学校で子どもたちがみんなで学ぶことが必要」と考える。性について伝えることをタブー視していると、子どもたちが「SNSやアダルトビデオ」で危険な偏見を持つことになりかねないと言う。

彼女は「体の仕組み、ネット情報の見方、水着で隠れる場所と口は大切な『プライべートゾーン』であること、性暴力、性的同意、妊娠、避妊、性の多様性なと様々な話をします。年齢に合わせた形で伝えています」と言う。

ところが、「学習指導要領には学習内容を制限する『はどめ規定』と呼ばれる規定があり、1998年の改定で『妊娠の経過は取り扱わない』と明記されました」と言う。この「妊娠の経緯」が何を意味するのか、すぐには、私はわからなかったが、「性交」や「避妊」などのことで、それらを話すなと言うことであった。

それだけではない。2003年に東京都の養護学校の生徒同士が性交をした事件が起きたので、教員が知的障害者向けの独自の性教育プログラムを作ったところ、「都議会議員が『不適切』と批判、教育委員会が校長や教員を降格や厳重処分にしました」という。「以降、性教育のが一気に委縮した。私もある学校で校長から『バッシングされたらどう責任をとるのか』と性交の話を避けるよう言われました」と言う。

本来、都教育委員会は都議と「性教育」のあり方について議論をし、「性交」を避けた性教育はマンガやSNSやアダルトビデオになんの対抗もできない、と答えるべきである。

私は、約1年ほど前、ブログ「『(耕論)再考、共学と別学』で言及されない本当の問題」で性の問題を論じたが、性教育は(1)男女の文化的社会的違い、(2)男女の生物的性の違い、(3)性交などの性的行為をバランスをとって扱わないといけないと思っている。

彼女は言う。「健康、パートナーとの関係、出産。性に関することは、その人の人生そのものです。性教育は、子どもに正しい情報を伝え、自分で選んで行動するためのもの。」

私もそう思う。性交とは本来喜びを伴うもので、人の生きる原動力を生むものでなければならない。性には人と人を結びつける力がある。性は喜びに満ちたものであるはずだ。

性交は汚いものであるなら、子どもを持つことは恥になる。そんなことはない。また、子どもを持つためにだけ成功するのではない。18歳未満の女性と性交したら犯罪で、それ以上なら犯罪でないとか言うのも、見当違いである。妻以外の女性と性交したら一律に道徳に反するというのも、愚かしい。性交への偏見を政争に使うのも見苦しい。最近の岸田派吉川議員事件もハニートラップではないかと思う。

[補足]

吉川議員事件が6月15日のTBS『ひるおび!』に取り上げられた。コメンテーターの多数は、吉川議員は女性との「不祥事」の責任をとって辞めるべきだという意見であった。しかし、政治評論家の田崎史郎は、ポスト記者以外の誰も事実の確認ができていない、と指摘する。私もポストが写真をとっていることからは、誰かの事前の情報があったと思う。田崎の情報では、吉川議員は斡旋を受けた飲食店経由で女性に連絡をとろうとしたが、その女性はすでに飲食店をやめていて連絡が取れない状態であるという。現時点では、ホテルでお酒を飲んだという事実しか確認できていない。また、吉川議員と会う前から、その女性はお酒を飲んでいたという。田崎は、「不祥事」で議員を強制的にやめさせるのは、将来に禍根の残ることで、本人の釈明と判断に任すべきだという。ハニートラップにひっかかるのも軽率かもしれないが、ハニートラップが横行するような低レベルな政治家どうしの闇討ちはやめるべきである。

しかし、誰が本当にハニートラップを仕掛けたのだろう。


ETV『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』の再放送にふたたび泣く

2022-05-07 21:51:06 | 教育を考える

きょう、、ETV〈こころの時代〜宗教・人生〜〉で何年かぶりに『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』の再放送を見た。前回と同じくおろおろと泣いてしまった。戦後、長崎で孤児施設「向陽寮」の初代寮母になった餅田千代の物語である。

今回、泣きながら記憶に残ったのは、1つは施設に孤児60人がいたことである。もう一つ記憶に残ったのは、彼女が12歳になる孤児の男の子たちとお風呂にはいったことである。

私の子ども時代の1教室の定員は同じく60名だった。それにもかかわらず、先生たちに私はすごく愛されたと思っている。

私のいる放課後デイサービスの教室責任者(彼女)は小学校教師を25年務めた。務め始めたときは、お金をもらって大好きな子どもたちと接することができると感激したと言う。ところが彼女は3年目に仕事を続けることが苦しくなったという。それは、クラスのみんなに愛情を平等にいっぱい注ぐことができないということに気づいたからだ。彼女は苦しさから逃れるためにピアノの練習などに打ち込んだという。

私より約20歳若いから、当時のクラスの定員は40人ほどだと思う。現在、放デイサービスの法定定員は1教室1日10人である。そして、ふたたび、お金をもらって大好きな子どもたちと接することができると言い、張り切っている。

餅田千代は、子どもが好きだから寮母になったのではなく、親のいない子どもを社会人と育てることが、自分の「使命」だと受け入れたからではないかと思う。長崎県がGHQの指示で孤児施設「向陽寮」を開くとき、英語が少し話せるという理由で、未亡人の彼女を選んだ。

社会から見捨てられたともいえる孤児を社会人として育てることは並大抵のことではない。彼女は「子どもに負けない」ということを誓い、施設の職員にも そう言い伝える。人のものをとってはいけないと教える。自分の働きで食べていくことのだいじさを教える。だれかのボスになってはいけないと教える。

しかし、これを子どもたちが受け入れたのは、自分が彼女にすごく愛されていると感じたからだと私は思う。

彼女が孤児といっしょにお風呂にはいったというエピソードは、肌感覚の愛情を与えるための1つの選択だったと思う。抱きしめられるとか手を握られるとか、肌と肌との接触は、幼児が親からうけるだいじな愛情表現である。新型コロナで、このような接触は失われているのではないか、と気になる。

本当は、親子だけでなく、一般に、子どもが大人からの愛を受け入れるうえで、この接触が重要なのではないか、と私は思う。

私は小学校1年のとき運動場で転んだとき、膝の傷口をとっさに担任の先生(女)になめられた。私はこのことを今でもありありと覚えている。

日本では、親以外から肌接触は、性行為だけである。ヨーロッパやロシアとは大きく異なる。公衆衛生の観点からは日本の慣習のほうが優れているが、新型コロナの感染が収まったら、少なくとも、手を握る、肩をだくという行為を再開したほうが良いと思う。

3年前に放デイサービスで、小学1年の子と机を挟んで互いに椅子に座って学習指導しているとき、その子は、毎回、足を延ばしてきて、私の足に接触しようとした。日本では、大人と子供の肌接触は、親以外ではロリコンと誤解される。それで、私は気づいていないふりをした。

これが、女の子だともっと困る。いじめられて泣いている子は、誰かの胸に頭をつけて慰められたいのである。しかし、小心な私はどの子も抱いて慰めたことはない。日本でそういうことをすると性的虐待とみなされる。

情緒不安定になる子には、親から抱かれて慰められたことがない子が多い。理由は、子どもを甘やかしていけないという教育方針を信じていたり、親自身が情緒不安定で子どもに愛情を与えることができなかったりするからだ。

現在、日本社会が、肌接触をなんでもかんでも性行為の一部とみなし、性的虐待と大騒ぎするのは考え直すべきだと思う。肌接触の重要さに気づくべきだ。


「ギフテッド教育」は子どもと対等の立場で好奇心や論理的思考に寄り添うこと

2022-04-09 23:43:47 | 教育を考える

きょうの朝日新聞33面に『89歳 憂える「ギフテッド教育」 戦争のため 選ばれた「特別科学教育」』の記事があった。伊藤和生の署名入り記事である。

記事そのものは、日米戦争末期、理数系のできる子どもたち(小学校4~6年と中学校1~4年)を集めて、英才教育を行ったということである。この記事を読んだだけでは、その意図はわかりにくかったので、朝日新聞のギフテッド教育の記事をこの1年にさかのぼってネット上で調べた。ほとんどの記事で伊藤和生の署名がみえる。ただ、有料会員記事に分類されているので、途中までしか読めない。その範囲で、私は、つぎのようなことが言いたいのではないか、と推量する。

政府は、日本の科学技術の遅れを取り戻すため、「ギフテッド教育」の名のもとに、選抜された子どもたちに、科学技術の英才教育を行いたい。文科省が有識者会議を組織したところ、「ギフテッドとは定義できるのか」「選抜は子どもたちの間に差別を生む」との声が出た。

今回の伊藤の記事も、戦争末期の「英才教育」を例に出し、政府の安易な英才教育をたしなめるものだと思う。ただし、ちょっと力不足の記事かなとも思う。

文科省の有識者会議は、昨年12月17日に、「何らかの特定の基準によって才能を定義し、定義にあてはまる児童生徒のみを『特異な才能のある』と扱うことは行わない」「選抜した子に特定のプログラムを提供することは子どもをラベル付けすることになりかねない」と論点整理をし、今後「才能があっても学校になじめず困っている子への支援を中心に議論する」ことになったという。

非常にまともな論点整理で私も賛成する。

今年1月20日の小林香織の記事『「ギフテッド・チルドレン」突出した能力と複雑な個性 寄り添い伸ばす支援とは』は、論点がわかりやすい。

小林の記事は、「ギフテッド」とされる子どもたちに、

  • 論理的な説明を求め、理由に納得できないと指示に従うことができない
  • 同年代の友達と話が合わず、友達ができにくく、孤独感を抱えている

という共通の特徴があると、指摘している。学校の教師たちや親たちはこれをキチンと受けとめて、寄り添った対応をして欲しいと私は思う。

「ギフテッド」は、平均的な子どもたちと違って、単に能力に凸凹があるということにすぎない。個性があるということだから、いいことである。ところが、困ったことに、能力に凸凹があると、現在、「発達障害」と診断される。親たちはその診断名に動揺してしまう。

そういう親たちを「ギフテッド」の名のもとに商売の糧にする人たちが出てきている。そして、学校まで作って、テレビで宣伝しまくる。朝日新聞の伊藤に、その実態を暴いて欲しい。「ギフテッド」の子どもたちは英才教育を求めているのではなく、共感して欲しいのである。

私はNPOで、学校教育で救いきれない、あるいは、救いきれなかった子どもたちの相手を、している。

日本の現状では、多くの大人や子どもは、権威に逆らうと生きていくのが困難になると思いこんでいる。そのためか、親や教師は、論理的に考える子どもに暴力を振るうか無視するかである。周りの子どもたちもそういう大人たちをみて、その子をいじめるようになる。

私が思うに、みんな同じだと、同じものを食べよようとして一部の食べ物の値段が上がり、同じ職業に就こうとして激しい就職競争が起きる。みんなに個性があれば、争わずに、社会的平等が実現できる。

だから、好き嫌いがあって、能力に個性があることは、とっても良いことで、それを伸ばす教育を家庭でも学校でもすればよい。文科省は、教科書検定を廃止し、学習指導要領を破棄すればよい。日本国憲法のいうように、学びたければどこまでも自由に学べばよい。

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政府の教科書検定は 「歴史総合」という新必修科目の狙いと矛盾する

2022-03-30 23:15:48 | 教育を考える

不思議なんだが、子どもたちを見ていると、「地理」より「歴史」が好きなようである。どうも、世の中が固定したものではなく、どんどん変わっていくのが面白いらしい。歴史は子どもたちにとって、思いもつかない展開をしていく物語の連続らしい。

いっぽう、私自身は歴史が嫌いだった。高校の日本史のテストでは、わざと白紙の答案をだして反抗をしていた。不幸なことに、歴史は暗記ものだったからだ。

朝日新聞によると、この4月から、「歴史総合」という新科目が、高校の必修となる。高校生が抱きがちな「重要な出来事の暗記」というイメージを覆す狙いが込められているという。これは良いことだと思う。

歴史学者の成田龍一によると、「これまで世界史と日本史に分かれていた歴史科目を、18世紀以降の近現代史として『総合』した形で学ぶ新科目」だそうだ。

一国だけの歴史ではなく、「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」の3つのテーマで、「世界的な相互作用のダイナミズム」から歴史をとらえるという。すごい新科目だ。

「歴史は事実を暗記する科目ではない。生徒が『なぜなのか』と問いを立てるよう導くことが重視されています」と成田龍一はいう。

「暗記ではない」に賛成するが、『なぜなのか』という意味がわからない。歴史は必然ではないはずだ。このあとの「フランス革命は・・・7月に始まった」か「8月の人権宣言」かの議論を見ると、単なる時代区分の議論のように思える。

以前、放送大学で本郷和人が、武家の時代はいつ始まるのか、鎌倉幕府はいつ始まるか、もう「イイクニツクロウ」は通用しないというという話しをしていた。

しかし、もし、時代区分でなく、歴史をどう見るか、の問題であるとすると、人、それぞれの物語ができる。価値観の問題となる。思想の問題となる。

すると、教科書で1つの物語を押しつけるのは間違っている。政府が教科書検定をするのでは、洗脳教育となる。各自の価値観、思想に点数をつけるのでは、洗脳教育そのものになる。

「歴史」は、あくまで、ある1つの「物語」であって、子どもが自由に選べるものでなければならない。いくつもの異なった物語があってよい。そうでなければ、私がまた高校生になったら、「思想の自由」という理由で、白紙の答案を出し、「洗脳教育反対」のこぶしを挙げるだろう。