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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

中山俊宏の『アメリカ知識人の共産党』

2023-07-18 22:16:43 | 思想

いま、中山俊宏の『アメリカ知識人の共産党』(勁草書房)を読んでいる。まじめな本である。テクストのすみずみから、去年亡くなった中山の真摯な姿が目に浮かぶ。惜しい人を私たちは失った。

この本は、前書き(「はじめに」)によれば、彼の死後に、2001年の青山学院大学大学院に提出した博士論文を書籍化したものだという。中山は博士論文を出版しようと思い、書き直しを始めた時点で、突然の死を迎えた。残った同僚が、中止された書き直しでなく、彼の博士論文を誤字修正だけで、そのまま出版したという。

彼の博士論文の主題は、アメリカの共産党の歴史ではなく、アメリカの知識人の思いの中の共産党である。アメリカの共産党は残念ながら現実には消滅している。アメリカの知識人が消滅した共産党に影響を受けて、アメリカの多様な思想をはぐくんできた。それを分析している。

中山が博士論文を日本語で書いたのか、英語で書いたのか、気になる。理系の博士論文は英語で書くのが普通である。それは、論文が世界中で読まれるべきと想定してきたからである。彼はどうも日本語で書いたようである。日本人に読まれることを期待してだと思う。

彼は英語に堪能であり、英語の1次資料を読んで、博士論文を書き上げたのだから、日本人に読んで欲しいとの思い以外に、日本語で博士論文を書く理由はない。

しかし、彼は、アメリカの知識人の心の中を語るとき、日本語の曖昧性に困惑したのではないかと思う。日本語の曖昧性をヨイショする日本人もいるが、アメリカの理念の分析を伝えるとき、言葉に困ったのではないか、と思う。

彼は、単語レベルでは、日本語の単語(漢字表記)に英単語(カタカナ表記)のルビをふっている。アメリカの思想や政治を語るとき、日本語にない概念がいくつも出てくる。近い語があっても、ニュアンスが大きく違う場合が多い。

例えば、彼は人民にピープルとルビをふる。また、1次資料からの引用が、日本語になっている。

そもそも、彼の博士論文は、縦書きだったのか、横書きだったのか。私が、博士論文の主査であれば、縦書きの論文は受け付けない。縦書きの論文は、源氏物語のような日本の古典を題材にしたものに限るべきだ。

付録や文献目録を見ると、彼の博士論文は横書きだったと思う。英単語はカタカナでなく英語のspellで、引用文は原文通りの英語であったのだと思う。

彼の死後、博士論文を商業的に流通させるために、英語の部分を日本語に置き換えたのであれば、本書の前書きにそれをことわるべきだと思う。

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宇野重規の朝日新聞《論壇時評》は期待はずれ

2023-04-30 12:34:49 | 思想

宇野重規がこの4月から朝日新聞の《論壇時評》の筆者に加わった。期待して4月27日の彼の初時評『自分と世界つなぐ感触』を読んだが、なにかを警戒してか、はっきりモノを語っていない。まったく期待外れだ。

去年、安倍晋三が殺害されたときも、朝日新聞のインタビューにも「民主主義の危機」というだけで、本音がでてない。日本の政治上の癌である安倍晋三が取り除かれたのだから、この好機を生かして、民主主義(デモクラシ)を取り戻そうと言って欲しかった。

宇野は「わたしたちを圧倒する情報の洪水に立ち向かい、共に議論していくための場を取り戻したい」と言う。確かに、「情報の洪水」が立ちそびえている。しかし、この「情報の洪水」は、無意味な情報の氾濫である。しかも、この洪水は意図的に権力側から意図的に起こされている。

教科書は政府の手に握られている。政府が教科書の検定し、どうどうと子どもの洗脳を行っている。

テレビやラジオは、放送の認可という形で、政府の圧力を受けている。報道が極端か否かを個々の番組ごとに判定すると自民党の高市早苗は放送局に圧力をかけた。高市の後ろ盾の安倍が取り除かれたことで、このことが明るみにでた。

そういえば、安倍が殺害されなければ、自民党と統一教会の癒着は明るみにでなかった。岸田文雄は統一教会との癒着の問題を曖昧化を図っている。

フェクニュースなど悪意のある情報の洪水の前には、命をかけて、率直に意見をいうことがだいじなのだ。そして言い続けることが、信頼を勝ち取る。みんなは信頼できる意見を求めている。

宇野は「自由と民主主義、そして法の支配を守るために、内向きになりがちな米国を支え、世界の秩序回復に貢献すべきであることに異論はない」と言う。なぜ、こんな卑屈な言い方をするのだ。下線の部分は安倍晋三の持論である。なぜ、安倍に異論はないというのだ。

宇野は民主主義(デモクラシ)は平等だと言ってきた。それなら、「自由と平等」というべきではないか。安倍は、「民主主義」を「選挙制度」とすりかえ、自分が選挙に勝てば何をやっても良いという態度で押し通した。そして、選挙に勝つためのバラマキの風土を自民党に植え付けた。

「法の支配」は「善」とは限らない。「法の支配」を徹底したのは、古代中国の秦帝国である。「法の支配」は権力者の命令を徹底させることにつながる。法の中身を吟味せずに「法の支配を守る」とは権力者の横暴を許すことになる。

知識人に求められていることは、権力者と戦う姿勢ではないか。私ような一般人は、闘うための言葉を求めている。

「世界の秩序回復」とは何をいうのか。回復というからは「世界の秩序」があったことになる。それは何なのか。1990年以前は社会主義陣営と資本主義陣営の対峙であり、それ以降は、資本主義国アメリカの一極支配でないか。そのアメリカがアフガニスタン侵略、イラク侵略を行い、中東の不安定化を引き起こした。

いま、起きていることは、アメリカ政府の一極支配に世界が反旗を翻しているのだと思う。「米国を支え」とは、見当違いでないか。戦後、日本政府はずっとアメリカ政府のご機嫌を伺ってばかりで、1980年代に石原慎太郎が指摘したように、「No!」を言わなかった。それこそ、反省すべきことではないか。

宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』や『民主主義とは何か』を読んで共感していたが、今回の論壇時評には裏切られた感が強い。そんなに東大教授の地位を守りたいのか。


佐伯啓思の論考『西欧の価値観「普遍的」か』への反論

2023-04-04 23:28:09 | 思想

先週の金曜日、3月31日に、佐伯啓思は、1年前の論考『「ロシア的価値」と侵略』につづく論考『西欧の価値観「普遍的」か』を朝日新聞紙上に寄せた。

1年前のそのとき、BBC(英国放送協会)が、西欧の価値観を守るために、ロシアのウクライナ侵攻に反対せよとの論評を出したこともあり、私は、限定的であるが、佐伯の論考に共感を示した。

私が限定的共感なのは、そこでの「西欧の価値観」というのは、現在、政治の実権を握っている権力者の主張する価値観であり、西欧の人々が一致していだいている価値観でないからである。そんな価値観を守るために戦えとBBCが言ったことに私が驚いたのである。ロシアのウクライナ侵攻を価値観の攻め合いと見ることに私は同意しない。

ところが、佐伯は、「西欧の価値観」という妄想を膨らませ、多様なはずの西欧の文明への攻撃性をましている。

佐伯は、先週の論考で、つぎのように言い切る。

「今日の、ウクライナを挟んだ、ロシアと西欧諸国の対立は、その深層にあっては、旧約聖書の絶対的一神教に端を発する2つの世界観の対立ということも不可能ではない」

こうなると、佐伯は被害妄想から「大和民族主義」に囚われているのではないかと疑いたくなる。佐伯の批判する「旧約聖書の世界」「神の救済」「ユダヤ・キリスト教」は彼の妄想であって、公正な論考とは思えない。

佐伯のいう「米国中心のグローバル文明」は、100年前に日本の知識人の一部がいだいていた西欧文明に対する劣等感を思いださせる。

私は「グローバル化」自体を悪いことと思わない。世界が平和になって経済的人的交流が深まれば、異なった文化が接触し、新しい文化が生まれる。良いことではないか。

ところが、現在、米国政府は中国を悪者として経済的交流や人的交流を拒否している。グローバル化の逆行が始まっているのだ。これは、ロシアのウクライナ侵攻前に始まっていたことである。当時、米国政府やイギリス政府は、ロシアを共産党独裁の中国に接近させるな、と言っていたのである。ロシアを西欧文明圏の一員と見なしていたのである。一番の悪党は中国としていたのである。ところが、ロシアのウクライナ侵攻が始まると、米国政府は中国にロシアを援助するなと急に言い出した。

米国政府の中国敵視政策は、米国中心の世界経済を揺さぶる中国の経済的台頭にある。日本政府がこんな米国政府に追従していて大丈夫なのか、を佐伯は心配すべきである。ドイツ政府やフランス政府は米国政府から距離を置いている。

日本の歴代政府は、日米戦争に敗戦した後、この78年間、米国市場から締め出されることを恐れ、「自発的対米従属」を続けていたのである。これこそが、日本国民に課せられている問題ではないか。

そんなこともあってか、佐伯の論考がでた翌日、朝日新聞は《フロントランナー》で『自発的対米従属 知られざる「ワシントン拡声器」』を書いた猿田佐世を紹介していた。私は、佐伯より猿田に共鳴する。

「自由と富の拡張、科学と技術による自然支配」そんなものは西欧の価値観ではない。マルクスやカウツキーやガルブレイスは、経済成長の無前提的な賛美に異議を唱えている。ガルブレイスは自分たちの生活を不安定する市場競争を誰も望んでいないことを『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)で、明らかにしている。環境運動は、米国でもヨーロッパでも起きている。ドイツ政府は、今年の5月に原発を全廃する計画を崩していない。新規原発を望んでいる自公政権こそ、佐伯は批判すべきではないか。

[関連ブログ]


一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感、その3

2023-02-09 22:42:14 | 思想

一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志の批判を昔のブログの再録で続ける。

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親鸞主義の「絶対他力」は怪しい   (2016/9/25(日))

中島岳志は、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)で、親鸞の「絶対他力」について何度も述べてている。

「絶対他力」は「ありのまま」でいいんだのことらしい。わたしの関係している問題で言えば、摂食障害を起こした子どもや引きこもっている子どもに対し、「ありのまま」の自分を肯定して欲しいと親のほうは願う。しかし、うまくいかない。

「競争社会」にのめり込んでいる子どもたちをそこから抜け出させるためには、「ありのままでいいんだよ」が、「競争社会」に対峙する思想として、意味がある。

しかし、社会には利害の対立があり、争いが現実にある。豊洲移転問題だって、安全問題だけでなく、根底には経済的利害の対立があったはずである。

すると、「ありのままでいいんだよ」では、子どもたちはいずれ納得できなくなる。社会的差別を受けている子どもたちにとって、それは「我慢しなさい」の別の表現になる。社会の利害の対立に気づいたとき、自分の思想的立場をもつことが必要になる。それが自立である。

親鸞主義の「絶対他力」は親鸞の教えではなく、戦前の大正時代にできたウソの教えではないか、と私は疑う。

私の出身地の北陸では、戦国時代に、浄土真宗の農民が村単位で自治を行っており、織田信長の配下が攻めて来たとき、命をかけて戦った。谷という谷は血の海に埋まったという。農民がバカだから念仏を信じていたから戦ったのではない。守るべきものがあったからである。

だから、「絶対他力」は後世のウソだと思う。恵まれている知識人の創作であろう。

子どもたちと接していると、庇護を求めてくる。愛されることを望んでいる。私は、無条件の庇護、愛を与えるようにしている。子どもたちが求めているのは安心できる人間関係である。

しかし、庇護される人がいることは、庇護する人がいることである。愛される人がいることは、愛する人がいることである。

私が望んでいることは、いずれ私がいなくなるから、また、人を庇護する立場、人を愛する立場をとる人が出てくることである。立場の違いは、論理では埋まらない。最終的は、バートランド・ラッセルが言うように、政治で解決する問題である。


一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感、その2

2023-02-09 22:31:44 | 思想

これは、ブログ『一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感』の続きである。やはり、6年前のYahooでのブログを再録し、中島岳志への批判とする。

   ☆       ☆       ☆       ☆

ナショナリズム、宗教、一君万民   (2016/9/24(土))

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)で、中島岳志が次のような問題提起をしている。

「極度の競争社会が拡大すると、高所得者であれ低所得者であれ、不安定な日常に不満と不安を感じる人たちがナショナリズムに傾斜する傾向があります。そして、ナショナリズムの他にもう一つ、そこが抜けてしまった個人の実存を強力に補てんするものがあります。宗教、つまり信仰です。」

この問題提起に全く同感できない。

「極度の競争社会が拡大」という見方は、ウツになる、あるいは、イジめる、イジめられる子どもたちの間にも見られる。「競争社会」とは単なる妄想であり、否定すれば良い。ところが多数の人がこの妄想を共有すれば現実となる。

働いている人の多くは、一所懸命に、しかも長時間働かないと、解雇されると思っている。平日は子どもと顔を合わせない正社員の父親もいる。見ていると、本当につまらない仕事をしている。これでは、奴隷労働である。反乱を起こして、会社の窓ガラスという窓ガラスをどうして割らないのか。

ナショナリズムや宗教に傾斜する前に奴隷労働を否定すべきである。

超越的な天皇のもと、すべての「国民」は平等だと言う思想、「一君万民」を中島岳志がどうして取り上げるのかわからない。超越的な天皇とは何者なのか。

「一君万民」を掲げて反乱を起こし失敗した二・二六事件がある。1936年2月26日に大日本帝国陸軍の青年将校らが、農村の困窮を憂い、「昭和維新」を天皇に訴えるために、1,483名の下士官兵を率いて皇居を包囲した。このとき、昭和天皇は、自分に刃向かう青年将校に腹を立てて、「反乱軍」として処罰せよ、と言い、「一君万民」を掲げた青年将校らは大義名分を失って、投降し、銃殺された。

「超越的な天皇」とは、凡人なのか、天才なのか、超人なのか、神なのか。

明治維新をなしとげた不良サムライ、不良クゲは、「一君万民」など信じず、言うことのことの聞かない天皇を引き下ろし、カイライの天皇をかかげて、権力を奪った。

現在の「象徴天皇」も同じである。象徴天皇を装うのに疲れたと今上天皇(平成天皇)は言う。これって、「象徴天皇制」に無理がある、ということではないか。

中島岳志の問題意識は理解しがたい。天皇はいらない。ナショナリズムも神もいらない。