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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感

2023-02-09 22:19:45 | 思想

けさの朝日新聞に一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志のインタビュー記事が載っていた。「一水会」とは、美術団体のような名前だが、鈴木邦男が創った右翼団体である。

20年近く前、鈴木邦男は河合塾で大検を目指す高校中退者の講師をしていた。私は、中退した息子をそこに通わせた。息子は彼の暴力的な言動に恐怖を怯え、河合塾に通いたくと訴えていたが、河合塾の講師がそんなことを言って高校中退者を脅すとは私は信じられなかった。私は鈴木邦男という名も聞いたことがなかったからだ。

しかし、完全に引きこもった息子と対話を続けるうちに、本当であると思うようになった。三島由紀夫と森田必勝の自決に共感する鈴木邦男に、私は好感をもてない。自分勝手な理屈で若者に暴力を煽る鈴木邦男を危険な男だと思う。

そういう鈴木邦男を悼む中島岳志も、怪しい男だと思う。その中島岳志を「リベラル保守」の政治学者と紹介する朝日新聞の真田香菜子も、頭がおかしくなっていないか、私は心配である。日米安保反対、格差社会反対であれば、右翼の鈴木邦男が左翼に近づいたと言えるのか、とても、安易である。もともと中島は、国家あるいはその象徴たる天皇のもとの平等を唱えている男である。個人というものがぶっ飛んでいる。

左翼とは、人間に序列をつけることに反対する考え方である。個人を抑圧するあらゆる権力に反対するのが左翼である。エンゲルスが言うように、国家は廃止すべきものと考えるのが左翼である。左翼にいろいろな集団があるのは、国家廃止の道筋に、考え方の違いがあるからである。

ここでは、6年前、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)を読んだときの私の感想(Yahooブログ)を再録し、中島岳志への批判としたい、

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愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか(2016/9/22(木) )

6ヵ月前に予約した本がようやく図書館から届いた。中島岳志と島薗進との対談、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)である。

待ちくたびれたのもあるが、つまらない本であった。対談が深まらないのである。対談とは、二つの異なる精神が接触し、化学反応を起こすのが面白いのである。

島薗進は1948年生まれ、私の1年下で、東大闘争を体験した世代である。中島岳志は1975年生まれ、東大闘争が終わってから生まれた、すなわち、新左翼を知らない世代である。二つの世代が接触したとき、何かが起きるべきだった。

本の表題に「信仰」があるが、二人とも、政治的で宗教的ではない。中島岳志は、自分だけが知っているかのように、右翼思想を自慢げに語る。それを島薗進がやさしく諭す。中島岳志が訂正するでも反論するでもなく、話が転じていく。

島薗進は、6年前の『国家神道と日本人』(岩波新書)で、明治政府の儒学者によって「国家神道」が作られて行く様を実証的に書いた。これは読みごたえがあった。

儒学は、中国の戦国時代に生まれた、国を統治する技術である。『論語』などは簡潔に書かれているので愛読者が意外と多く、学校での漢文の教材に必ず取り上げられる。儒学は、人間の特質を理解し利用すれば、人民を統治できる、と言っている。具体的には「礼」と「儀」である。

「礼」は、上下の秩序を国家から家庭までの貫き、「忠」や「孝」によって人間の心まで支配することである。明治政府が「礼」を意識的に利用したことは、丸山眞男が繰り返し述べている。

島薗進が見出した視点は「儀」である。明治政府は天皇制を「国家儀礼」とすることで、外来のキリスト教と両立するものかのように装い、一方で天皇を神格化した。天皇制があるということは、戦前の非理性的社会体制が続いていることだ、と島薗進はみなす。「象徴天皇制」になっても天皇が「国家儀礼」の頂点にあることには変わらない。

対談では、島薗進が色々と教えるにもかかわらず、中島岳志は「国民国家」、「一君万民」、「他力本願」をまくしたてる。

私の世代は、戦前の右翼思想を知らないのではなく、支持しないだけである。戦前の右翼思想は、明治政府が「礼」と「儀」による教育を徹底したために生まれた妄想である。

私の世代は、戦後の民主主義教育が文部省の力に抑え込まれ教育界が右傾化していく様を目撃した。中島岳志の世代は完成した右傾化教育の中で育った。当然、愛国主義が復活するだろう。これは不幸なことである。


佐伯啓思の『(異論のススメ)民主主義がはらむ問題』に反論する

2022-12-24 22:29:56 | 思想

きょうの朝日新聞の『(異論のススメ)民主主義がはらむ問題』で、佐伯啓思は民主主義は非効率で、滅びの道に進むと相変わらず主張している。「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍晋三も同じ主張である。元首相の吉田茂もそう主張していたとジョン・ダワーが『敗北を抱きしめて』で書いている。

佐伯は書く、

「だが、利害が多様化して入り組み、にもかかわらず人々は政治指導者にわかりやすい即断即決を求めるという今日の矛盾した状況にあっては、由緒正しい民主主義では機能しない」

「民主主義を民意の実現などと定義すれば、民主政治とは、民意を獲得するための政治、つまりポピュリズムへと傾斜するほかなかろう。」

「古代ローマ帝国の崩壊は、民衆が過剰なまでに「パンとサーカス」を要求し、政治があまりに安直にこの「民意」に答えたからだ」。

この佐伯の民主主義への批判は、大衆に対する恐れ、敵意からくると私は思う。

佐伯の「古代ローマの崩壊は・・・・・・「民意」に答えたからだ」は間違っている。「古代ローマの崩壊」の前に、すでに、古代ローマの民主主義が崩壊している。民主主義の崩壊は市民社会の崩壊によるものである。

古代の市民社会は、自分の土地を自分の手で耕すことでなりたっていた。それが、戦争で大量の奴隷が安価に手に入り、奴隷を購入する大土地所有者が有利になった。すなわち、小規模の自作農がなりたたくなる。古代ローマで起きたことがこれである。何度か反乱が起き、農地解放が行われたが、私有制が維持されたので、自作農の没落の趨勢は止められなかった。

「プロレタリアート」とは、もともと、生産手段を失ったローマ市民のことをさす。彼らの反乱を防ぐために、統治者は「パンとサーカス」で民衆を抑え込んだのである。

古代ローマの市民社会が崩壊し、雇用兵で帝国を守るようになれば、ローマ帝国が滅んでいくのも自然な流れである。それが公平というものである。

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佐伯は書く、

「自由や民主主義と経済成長を謳歌するはずであった冷戦以降のグローバリズムにおいて、経済の混迷に直面する民主主義国が深い閉塞感にさいなまれていることは疑いえない」。

私は、このかた、「深い閉塞感にさいなまれた」ことはない。1981年にカナダから日本に戻ったとき、満員電車に乗り込む勇気がなく、貧困な日本文化にあきれただけである。2000年代に大学の先生とつきあったが、彼らの言う「閉塞感」を理解できなかった。1990年のバブルの崩壊の後遺症ではないか。「閉塞感」を感ずるのは、既得権層に属しているからではないか。

私はいま日本が民主主義の国とは思わない。私の子ども時代、「戦後民主主義」が生き残っていたが、1980年代には ほとんど消え失せている。いま、「民主主義の危機」ではなく、「民主主義」とは  これから闘いとるものである。

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佐伯は、「民主主主義」が「真理は不明であり、絶対的に間違いのない判断をなどありえない」を前提としていると言う。これを「価値相対主義」と呼び、多数派を形成するために、「ポピュリズム」に陥るしかないと主張する。

科学においては、「真理」は追い求めるものであり、手元にあるのは「真理」ではなく、「仮説」と考える。「仮説」が役立たなくなれば、仮説を改めれば良いのだ。同様に民主主義においても「真理」や「正義」は仮説であり、「価値相対主義」とは異なる。

民主主義社会では、政治家は、個人的な権力闘争に窮するのではなく、何をなすべきかを社会のメンバーに提起し、社会の合意を形成していくべきだ。

安倍晋三や岸田文雄は権力を握ることだけに執着し、強い自分を演出しようとする。

「民意」を尊重することが悪いのではなく、自分に都合の良い主張をあたかも「民意」のように見せかけたり、人々を不安に落とすことで「民意」をつくり出したりすることが悪いのである。

電力不足で国民を脅して原発政策の転換をはかったり、たいしたことのない北朝鮮のミサイルにJアラートで国民を脅して防衛政策の転換をはかったりすることこそが、悪いのである。


暴力装置の自衛隊を民主制社会がコントロールできるのか、安倍晋三の傲慢

2022-12-04 23:09:34 | 思想

軍隊とは国家が所有する暴力装置(組織)である。国民の税金で、軍隊は人殺しのための兵器を所有し、人殺しのための訓練を日々行う。幹部は敵国を想定して戦争のシミュレーションを行う。

民主制社会が軍隊を抱え込むとき、その取扱いに特別の慎重さが必要となる。虎やライオンを家で飼うと同じようなリスクを社会が冒すことになるからだ。

最近、自衛隊という日本の軍事組織の動きがオカシイ。それをとがめるのは、共産党、社民党、れいわ新鮮組だけである。ほかの政党の政治家は何を考えているのか。

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(1)政権与党が、その使途の具体性もなく、軍事費を2倍にすると言う。そればかりか、敵基地攻撃を能力をもつと、自民党と公明党が合意した。安倍晋三は、今年の2月27日にテレビ番組で、4月3日の山口市内の講演で「相手の軍事的中枢を狙う反撃力」を主張した。

(2)現役の防衛省職員や元自衛隊幹部がテレビ番組のゲストとしてウクライナ戦争や防衛体制について解説する。軍隊(自衛隊)が国民の代表たる国会にコントロールされているなら、自衛隊内の不正告発以外、彼らが直接国民に向けて向けてメッセージを送ってはならないはずである。

(3)安倍晋三の「家族葬」に陸上自衛隊の儀仗(ぎじょう)隊が参列した。陸上自衛隊幕僚長は9月6日に「大臣レベルで判断された。我々は指示をいただいたので、粛々と任務を遂行した」と述べた。大臣とは当時の防衛相の岸信夫(安倍の実弟)である。自衛隊は個人の所有物でないはずである。

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1945年の8月の日米戦争での敗戦以前も、日本は軍事組織を抱えこむことに苦労していた。結局、コントロールできなかった。

加藤陽子の『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房)によると、武装集団(サムライ)を抑え込むために、日本政府は徴兵制を敷いたとある。また、それが特定個人の私兵にならないよう、政治家からの独立性を保つために、明治憲法では、軍隊は政府の指示を受けず、直接、天皇に属することになった。いわゆる政治と軍事との分離である。

しかし、結局は、軍部はつぎつぎと戦争を起こし、日米戦争で破滅した。軍部の尊厳する「天皇」とは、肉体をもった個人(昭和天皇)ではなく、「皇位」であった。1932年の陸軍士官学校の卒業式に、安全上の理由から昭和天皇が出席できなかった。

明治憲法の規定にもかかわらず、明治天皇も大正天皇も昭和天皇も軍部をコントロールできなかった。

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戦後、日本は、新憲法で軍隊を放棄したのにも関わらず、自衛隊という名の軍隊をもった。

いっぽう、安倍晋三が「戦後レジームの脱却」というとき、民主主義の廃棄と、国際紛争の武力による解決を意味していた。憲法の改正である。

戦後、日本社会が自衛隊をコントロールできていたのは、1つは、国民に二度と戦争をしたくないという思いがあったことだ。もう1つは、自衛隊を米軍のもとに置くことで米国政府がコントロールしたことだ。

米国の力の衰退とともなって、この2つが「革新右翼」の安倍晋三のもとで、崩れてきた。

安倍晋三が殺害されたため、彼の本心をいま問い詰めることはできない。彼は、歴代の天皇もできなかった、軍人のコントロールを自分ができると考えていたのだろうか。そうなら、彼はあまりにも傲慢で軽薄である。


佐伯啓思は なぜ それほどに安倍晋三を弁護するのか

2022-11-27 23:05:38 | 思想

日本社会は、いま、安倍晋三の残した負の遺産に苦しんでいる。円安、物価高、政府の借金がGDPの3倍、国際競争力が落ち、この9年間 経済成長なし。それなのに、使途と効果がわからない、バラマキの大型補正予算を求める自民党議員。戦略もなく、敵地基地の攻撃の軍備増強を求める自民党議員。このどうしようもない自民党議員を増やしたのも安倍晋三の負の遺産である。

それなのに、11月25日の朝日新聞紙上で、佐伯啓思が安倍晋三を弁護した。「戦後レジームから脱却」しかない「闘う政治家」の安倍晋三の暴走を許したのは、彼をはじめとする保守論客陣の過ちではないか。

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佐伯は記者のインタビューに答える。

「私自身も〔アベノミクスに〕かなり批判的です。だが他にどんな政策ありえたか。」

「アベノミクスは成功とはとても言えない。ただ失敗と断定するのも難しい。」

後ろ向きに安倍晋三を弁護している。安倍晋三は選挙に勝って左翼を壊滅することしかなかった。電通と組んでキャッチフレーズで国民を騙すことに終始した。

本来、政府がとりうる短期的経済政策は金融政策と財政政策としかない。もちろん、規制緩和のような社会制度を変える政策、あるいは、教育や基礎研究など人に投資するインフラ政策もありうる。しかし、安倍の8年間の政策の実態は経営陣を甘やかしつづけたことである。政治家と結びついていれば、企業経営はなんとかなるという無責任体制が日本経済をダメにした。

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佐伯は現在の日本経済の問題を国民やジャーナリストの責任にする。

「政治家が時代の流れや世論に抗するのは大変難しい。」

「政治家は言えないが、ジャーナリズムなら言える。マスメディアがそうした議論をすれば政治も動くでしょう。だからマスメディアが言うべきです。」

「野党もメディアも安倍政治の批判ばかりやっていたので安倍さんはかわいそうでした。」

世論をリードしたり、新しい時代の流れを作るのは政治家の役割ではないか。

ジャーナリストに責任をなすりつけるが、安倍政権はテレビの自由な発言を抑え込んだではないか。NHKの経営陣を入れ替え、論調を変えた。また、民間テレビの経営陣に対しても、電波割り当ての認可をめぐって脅しをかけた。

安倍晋三は、株価だけでなく、世論をも操作したのではないか。

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佐伯は米国を批判する。

「米国は自由競争を主張しながら実際は明らかに国家資本主義です。」

「一方、日本政府は何もせず民間に任せるやり方でしたが、第2次安倍政権は大規模に米国のまねを始めました。」

「戦後日本の基本的価値観は自民党も含めリベラルであり、近代主義的な価値観です。これにあらがうことができなかった。集団より個人を重視し、人間の合理的作為を信じ、それを超えた神聖な領域は存在しない。」

「〔安倍さん?保守?は〕経済中心にしてしまい、個人主義や金銭主義を拡散しました。」

「戦後日本の場合、万事が米国の受け売りだからでしょう。」

「国家社会主義」とは聞いたことがあるが、「国家資本主義」とは初めてである。米国政府が米国兵器や飛行機を日本政府の売り込んだが、それは、政府要人が米国企業の利益の片棒を担いだのであって、国家が企業経営に介入したのではない。

「日本政府は何もせず民間に任せる」とは本当なのか。日本政府は、「法」でなく、細かい点まで「政令」「省令」で行政指導してきたではないか。日本政府は、企業合併を推進し、また、大企業の税を優遇してきたのではないか。

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佐伯が安倍晋三を弁護するのは、安倍が「戦後レジームからの脱却」を唱えていたからである。「戦後レジーム」とは民主主義と軍事力放棄のことである。

「集団より個人を重視し、人間の合理的作為を信じ」や「個人主義や金銭主義を拡散」とあるから、佐伯が民主主義を特に敵視しているのがわかる。

民主主義の基本は個人にリスペクトを払うことと、個々人間の対等な関係の確立である。佐伯は個人より集団を重視したいようだが、集団の意思とは何であると佐伯は考えているのだろうか。

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米国系の企業にいた私が社内研修で教わることは、企業内やその周り(顧客、株主、納品業者)に利害の異なる複数の集団(ステークホルダー)がいることである。マルクス主義では階級による利害の違いが強調されるが、実際にはもっと複雑に利害集団がわかれていると教わる。利害の異なる集団のあいだで、如何に交渉するか、如何に協調するかを重視することを教わる。

米国とか欧米諸国と言っても、国内が、1つの考え方、1つの利害でまとまっているのではない。日本国と同じように、各国に、いろいろな集団がいて、いろいろな利害の対立を抱えている。

民主主義の社会では、社会が個人からなるという現実にたって、社会として機能していくためにどうするかを論じる。保守論客の考えるような、個人より集団を重視すれば良い、という単純な問題ではない。

佐伯は「近代主義の価値観」や「個人主義」に劣等感があるのはないか、と私は疑いたくなる。


敗北者の文化、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』

2022-08-29 23:58:00 | 思想

ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)の第2部は、「虚脱ー疲労と絶望」「敗北の文化」「言葉の架け橋」の3章からなる。「虚脱ー疲労と絶望」は町に食べるものがないというという戦後の流通経済の混乱の話であり、「言葉の架け橋」は混乱期のベストセラーの話である。「敗北の文化」は意外にもセックスの話である。

読んで思ったのは、占領軍総司令部(GHQ)は、一般の日本人がどう思いどう行動するかには関心がなく、実際の統治は日本の旧来の支配層にまかし、日本の支配層をアメリカ政府に忠実なる下僕(しもべ)にすることに専念したように私には思える。

第3部によれば、日本に民主主義を押しつけたマッカーサー最高司令官は、「総司令部の外にはほとんど姿を現さず、(日本の)一般庶民と接することはなかった。」「マッカーサーと2回以上話をした日本人はたった16名しかいなかった。」「マッカーサーの話を直接聞くことが許されたのは、政府高官や彼に畏敬の念を抱く名士だけであったし、マッカーサー自身も帝王のような態度で命令をくだし、いっさいの批判を許さなかった」。

太宰治の『冬の花火』と言う物語で占領軍の検閲によって削除されたのは「日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、一人残らず捕虜なのに」という箇所である。日本政府のうえに占領軍総司令部があることは、誰の目にも明らかなのに、当時、口に出していけなかったのだ。

「敗北の文化」は慰安婦の話から始まる。アメリカ軍兵士のあいだに性病が蔓延するのを防ぐために、占領軍総司令部は、日本政府にいわゆる「慰安所」を作ることを命じた。ところが、「プロの売春婦」が慰安婦になりたがらなかった。日本政府は、「女性事務員、年齢19歳以上25歳まで。宿舎、衣服、食料支給」という看板をたて、素人の女性を募集した。

そうして集めた女性たちが、いままで、ほとんど性交を経験したことのない女性たちが「1日に相手にした米兵の数は、15人から60人であった。元タイピストで19歳の女性は、仕事をはじめるとすぐに自殺した。精神状態がおかしくなったり、逃亡した女性もいた」。

すざましい話である。

プロの売春婦は、日本軍が戦地で創った慰安所で、占領された国からの慰安婦がどのような扱いを受けるか、見聞きしていたから、アメリカ軍兵士の慰安婦になることを断ったのであろう。通常の売春婦であれば、一晩に2、3人を相手にすれば十分であるから、慰安婦は割に合わない。

同じ時期、セックスを扱った雑誌がいっぱい出版される。とても安っぽい紙に印刷されており、「カストリ雑誌」と呼ばれたという。この名前は、安い粗悪な酒「カストリ焼酎」からきている。「カストリ焼酎」は3合も飲めば必ず意識をうしなうことと、「カストリ雑誌」は3号以上続けて発行されることがないことをかけた言葉遊びからくる。

ジョン・ダワーは、なぜ「カストリ雑誌」が3号以上も続けて出せないのか、説明していないが、警察の取り締まりが厳しかったのだろうと私は思う。この厳しい取り締まりは、日本政府に指令よるものか、占領軍総司令部からくるものか、興味あるが、ジョン・ダワーは言及しない。私は、総司令部は日本語を読めないし、日本の庶民に関心はないし、日本政府が単に戦前の道徳規範を維持するために、取り締まったのだと思う。

いっぽう、性器や性交位を扱ったヴァン・デ・ベルデの『完全なる結婚』の完訳本は発禁処分を受けなかった。それどころか非常に売れたので、この手の本が日本の出版物の1つのジャンルとなった。

昔、私は、この本のことを話しには聞いたことがあったが、見たことも読んだこともないので、図書館に予約をしておいた。

思うに、『完全なる結婚』は、結婚した夫婦の行為ということで、大目に見られたのであろう。当時の日本政府には、結婚していない男女の性行為を禁じたいという思いがあったのだろう。が、慰安や売春が合法の世界で、文字表現で猥雑な気持ちを高めるもの(それは文学というのだが)を禁じるのは、日本政府も頭がオカシイと、私は思う。たとえ、慰安や売春がない社会でも、性行為の文学は認められるべきである。