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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

日本語では思想が語れない、夏目漱石

2024-01-09 23:03:23 | 思想

小池清治の『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫)は約30年前に出版された本であるが、いま読んでも面白い本である。私の本棚から出てきたのであるが、買った記憶も読んだ記憶もない。記憶がないのは、私がボケてきたのもあるが、当時読んでも小池の言いたいことがよくわからなかったのだろう。

本書の5章は「近代文体の創造 夏目漱石」である。その冒頭に、夏目の書き残したメモを小池は引用する。それは日本語に英語が混ざったメモである。小池は「こういうスタイルが、彼の内的言語であった」と書く。

私は、夏目が横書きでメモを書いていたのが、それとも縦書きだったのだろうか、気になる。英語の単語を縦書きで書くのも読むのも大変であるからだ。

つづいて、小池は、夏目の1907年の『将来の文章』を引用する。

「私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考えたことがどうしても充分の日本語で書き現されない。これは日本語には単語が不足だし、説明法(エキスプレッション)も面白くないからだ。」

夏目にとって、日本語では明晰な文章を書きにくかったのだ。100年後の私も、日本語だけの文章はわかりづらいし、書きづらい。だから、少なくても、日本語は横書きに移るべきだと思っている。横書きなら、英単語やドイツ語やロシア語やギリシア語が入り混じった文を書けるし、そういう文章を読むのは苦痛ではない。単語にはニュアンスがある。明治時代に粗製乱造された漢字熟語が使われても困る。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)でやたらと「人種思想」がでてくるが、英語版を読むと、“race-thinking”の訳語である。日本語で「思想」というと、何かとても高尚なものに感じてしまうが、“thinking”は「考え方」「思いのもとになる立場」という程度の言葉である。

夏目はじっさいにどんな文章を書いていたのか、と思って、ネット上の青空文庫を見まわしていたら、『おはなし』という講演に出合った。東京高等工業学校(東工大の前身)の「文芸部の会」での1914年の講演である。

「よく講演なんていうと西洋人の名前なんか出てきてききにくい人もあるようですが、私の今日のお話には片仮名の名前なんか一つもでてきません。

 私はかつてある所で頼まれて講演したとき、日本現代の開化という題で話しました。今日は題はない、分らなかったから、拵えません。」

この後、夏目はけっこう意地悪な人のようで、建築家など技術者をバカにした話をしだす。それはそれとし、話しのなかで英単語がいっぱいでてくる。それを抜き出して書き並べてみた。

definition, energy, consumption of energy, factor, sufficient and necessary, mechanical science, mental, universal, personal, application, personality, eliminate, apply, sex, naturalism, abstract, reduce, philosophical, depth, law, govern, free, justice, mechanical, capitalist, art, essence, scientific, departure, essential.

講演を聞いた学生や職員は面食らったのではないだろうか。英単語もそうだが、夏目は、工学系の仕事はuniversalだからpersonalityがいらない。文芸家や芸術家は、art (技巧)が二の次で人間が第一だと言う。「文芸家の仕事の本体すなわち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である」「私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない」と言う。

私は、どんな仕事にも、その人しかできない事柄、独自性、創造性があると思うので、ここまで、人をバカにする気にはなれない。

しかし、多言語で物事を考えることは、言葉に酔わないために必要なことと思う。


なぜハンナ・アーレントの『全体主義の起源』はむずかしいのか

2023-12-29 22:54:58 | 思想

私が、イスラエル・ガザ戦争を契機に、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源(THE ORIGINS OF TOTALITARIANISM)』を読み始めて1カ月以上たっている。そして、あと、1カ月読みつづける予定である。

本書は、とても難しい本である。あまりにも難しいので、仲正昌樹の『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)を図書館から借りてきた。『全体主義の起源』を読解する助けにしようと思ったからである。

しかし、仲正の本の序章が「『全体主義の起原』はなぜ難しいのか?」とあるのに、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を理解するのに役立たたない。何か、仲正がドイツ留学で習ったことを受け売りているだけのように見える。彼は、本書の本当の難しさに言及していない。

まず、アーレントはドイツ語圏の著作者である。ドイツ語は一文がやたらと長い。関係代名詞を多用する。屈折した文章構成が多い。それを翻訳で読むのだから、言語脳をしていない私は、文章を書き写して、彼女が何を言いたいのか、頭をひねるしかない。ドイツ語と日本語は相性が悪い。

それに加え、ヒトラーやスターリンとほぼ同時代の彼女は、非常に細かな事実までを書きつづっていて、突然、断定的に、一般的な法則のように、何かを主張する。そして、その定言が相互に矛盾しているように見える。彼女は、反ユダヤ主義に怒っていると同時に、ユダヤ人が単一でなく問題行動もあるとことを指摘している。さらに大衆が嫌いで統治者の視点で書いている。

仲正は、彼の本の中で、アーレントの個人的背景を語っているが、重要なポイントを見過している。彼女は東プロイセンの裕福なユダヤ人の出であることである。ケーニヒスベルク(現在ポーランド領のカリーニングラード)の商人だった彼女の祖父は、ユダヤ人コミュニティのリーダー的人物で、ユダヤ教徒の改革派だった。

アーレントの『全体主義の起源』にプロイセンがやたらと出てくるのはこのためである。本書の国民国家、帝国主義国家、全体主義国家の歴史展開はまさにプロイセンの歴史である、と私には思える。

プロイセンはまた特殊な位置にある。ヨーロッパの東、リトニア、ポーランド、ウクライナ、モラヴィアは多数のユダヤ人が住むスラブ語圏である。貧しいユダヤ人が多数いた地域である。そこに離れ小島のようにあるのが、ドイツ語圏の東プロイセンである。

仲正は、「全体主義」というのは近代の個人主義の問題を解決するための当時の新しい思想として出てきたと指摘する。これは、私が気づいていなかった重要な視点である。

仲正の指摘で、『全体主義の起源』を読み直すと、アーレントは思想的な議論、哲学的な議論をまったく避けている。彼女が言及する人物はほとんど政治家である。近代のリベラリズムの租、ジョン・ロックについて全く言及されない。また、『自由論』を書いたジョン・スチュアート・ミルも言及されない。いっぽう、ミルの父親のジェームズ・ミルは政治家だったので言及される。

アーレントは、大量の人を殺さなかったのいう理由で、ファシストのベニート・ムッソリーニを全体主義者から外す。全体主義運動は、大量の人を抱えた国でないと、人を殺しつつづけられないから、ドイツとロシアでしか不可能だったと言う。ナチズムと共産主義が全体主義だと言う。この論法だと、インド、中国、アメリカで全体主義運動が起きることになる。

アーレントの両親は社会民主党の党員であった。アーレント自身はシオニズム運動にも参加している。当時のドイツの社会民主党はマルクス主義に奉じるものが多かった。しかし、彼女はマルクス主義やシオニズムのイデオロギーに言及することはない。

結局、アーレントは近代の反ユダヤ主義を、イデオロギーとしてでなく、政治的社会的現象として、詳細に大量に書き綴っただけではないか、と私には思える。そうだとすれば、彼女の『全体主義の起源』を資料として読み取り、それを再構成して、「全体主義とは何か」に自分で答えなければならない。ここに、アーレントの『全体主義の起源』の難しさがある。


ハンナ・アーレントの『悪の陳腐さについて』

2023-11-15 01:33:17 | 思想

2016/10/10(月)のブログから再録

ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』(みすず書房)には納得がいかない所が多々ある。どうも、大衆が嫌いという生理的体質が、彼女の論理に影響を与えているのではないか、と思う。

これに対し、同じ著者の『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)のほうが、本の字が小さいのにも関わらず、読みやすい。ユダヤ人を強制収容所に輸送した責任者アイヒマンの裁判を通して、ユダヤ人虐殺の本質を、ノンフィクション作家のように淡々と書きしるしたもので、自分の思想の押し売りの部分が少ない。

彼女が描き出したアイヒマンは、やる気が続かなく、頭も悪く、ユーモアもなく、どもることもある、嘘つきの社会的落伍者である。同じく、ヒトラーは、高等教育も受けていず、兵卒長が唯一の職歴で、観客の前で大言壮語できることだけが取り柄の社会的落伍者であった。しかし、ヒトラーが落伍者から総統に成り上がったがゆえに、アイヒマンは、ヒトラーを自分の英雄として尊敬し、ヒトラーから命令を受けることを人生の至上の喜びとする。そのアイヒマンが、ユダヤ人に興味をもちシオニストの著作を読み、ユダヤ人共同体の幹部とも接触していたために、ナチの組織の中で大出世をし、貧しいユダヤ人を、そのユダヤ人幹部の協力を得て、強制収容所に大量輸送する使命を得る。

『全体主義の起原』では、モッブたち(教養がなく下層の乱暴者)とエリートたちが協力して、強圧的全体主義体制を作ったとしている。

『イェルサレムのアイヒマン』では、大衆の中の頭のからっぽの個人に焦点を与える。何のとりえもない人間が、職をえるため、雪崩を打ってナチ党員になり、出世するため、戦争やユダヤ人虐殺に積極的にのめりこんでいくさまを、アイヒマンを通して描き出している。

しかし、ハンナ・アーレントが大衆運動を毛嫌いするのは偏見ではないかと思う。民主主義は、古代ギリシア語ではδημοκρατία(デーモクラティア)で、群衆や下層民を意味するδῆμος(デーモス)を語源とする。したがって、彼女が毛嫌いする大衆が、政治の主体になることが、民主主義である。

ならば、悪意のある者たちに、大衆運動が利用されないよう、日々、努力していくことが大事である。私も大衆(下層民)の一人に過ぎないから、プラトンの「哲人政治」は生理的にまっぴら御免である。


読みづらいハンナ・アーレントの『新版 全体主義の起源』(みすず書房)

2023-11-15 01:12:26 | 思想

2日前から、ハンナ・アーレントの『新版 全体主義の起源』(みすず書房)の第一巻「反ユダヤ主義」を読み始めた。ここで「新版」とは2017年の「新しい訳」と言う意味であって、ハンナ・アーレントは1975年に死んでいる。彼女がもし、この2013年に生きていて、現在のシオニストの国、イスラエルのやっている残虐行為をみたら、何と言うのか、興味がある。

以前、7年前と思うが、読みづらくて本書の読破を断念した。再挑戦である。

今回も読みづらく、困って、ネットで手がかりを探していたら、NHKの『100分de名著』のハンナ・アーレント『全体主義の起源』のときの「プロデューサーAのこぼれ話」が目についた。それによると、彼女は英語が不得意で、雑誌「ニューヨーカ」の特派員としてアイヒマンの裁判の報告書を書くが、このとき、編集長に何度も書き直しを求められたという。これは、彼女が英単語や英文法を知らないと言う問題ではないと、私は思う。すなわち、彼女は、ドイツ語圏の著者特有の、長文で屈折した文章を書く癖があったのではないかと思う。英語圏の人は屈折した表現や長文を好まない。はっきりと簡潔に言うことを好む。

じっさい、『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』は私にも読みやすかった。

みすず書房の『新版 全体主義の起源』は、初版が英語にもかかわらず、わざわざドイツ語版から翻訳しているのだ。読みづらいのは自分だけではないと覚悟したら、時間がかかるが、意外と楽しく本書が読めるようになった。

気づいたのは、第1章を飛ばして、第2章から読んだ方が読みやすいことだ。いや、第4章、第3章、第2章、第1章の逆順に読んだ方がわかりやすい。ドイツ語圏の著者は自分に酔っていて、論理をわかりやすく構成しない。文体の問題だけでないだ。読み手が著作を再構成して理解する必要がある

それに、みすず書房の訳もおかしい。たとえば、第1章の冒頭の1節に

「全世界のユダヤ人に対する追求、最後にはその絶滅を、単なる口実、および安っぽい宣伝の手口と見なす」という句がある。

ネット上にたまたま、英語版の『全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism)』(pdfファイル)が無料であったので比較すると、ここでの「追求」は英語版では「persecution」となっている。「迫害」と訳した方が良い。

また、同じ第1章に「ヨーロッパの国民国家体制が崩壊した時点」は英語版では「when the European system of nation-states and its precarious balance of power crashed」となっている。崩壊したのは、「国民国家間のヨーロッパのシステムと不安定なパワーバランス」であって、国民国家(nation-state)そのものが崩壊したのではない。

そもそも、第1章のタイトルは、日本語訳では、「反ユダヤ主義と常識」となっているが、英語版では「Antisemitism as an Outrage to Common Sense」となっており、まったく意味が違う。第2章以下を合わせて読むと、ハンナ・アーレントはantisemitismにそれなりの要因があったと、ユダヤ人や知識人の警告を与えているのだ。

残念ながら無料のドイツ語版「全体主義の起源(Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft)」がネットに上がっていないので、ハンナ・アーレントがドイツ語でどう書いたかは、私は確認できていない。


エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』とハンナ・アーレントの『全体主義の起源』

2023-11-03 19:37:42 | 思想

私が数学や物理以外の本を読みだしたのは、定年退職した60歳以降のことである。そのなかで、とくに印象深かったの本の1つに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(東京創元社)がある。近代社会が苦労して得た「自由」をみずから手放す人たちがいるのはなぜだろうかが、本書のテーマである。

当時、読んでわからなかったのは、都市の没落中産階級へのフロムのすさまじいまでの憎しみである。近代になって、ばらばらの個人になった彼らが「自由」であることにおののき、強い力に服従しようとしたことが、ナチスの権力掌握を可能にしたとフロムは言う。

最近、鶴見太郎の『イスラエルの起源』(講談社選書メチエ)、森まり子の『シオニズムとアラブ』(講談社選書メチエ)を読んで、そのフロムの危機意識を共有できた気がする。

ナチスやシオニストの力の源泉は、没落中産階級を集めたことである。

20世紀に経済活動の大きな変化がヨーロッパからロシア帝国まで起きた。文字が読め計算ができることだけでは、社会で安定した仕事が得られなくなった。近代的な生産様式が急速に普及し、手工業者や小規模商店主が、大資本の製造業や流通業の前にビジネスが奪われ始めるが、しかし、大資本家に雇われる労働者になりたくない、という思いが強かった。この不安と不満を吸収したのが、民族共同体運動である。民族共同体には階級闘争はない、みんな仲間である、と考える。

民族共同体運動の落とし穴は、他の民族に対する態度である。

ユダヤ人のシオニストとドイツ人のナチスの類似性は、自分たちの民族が他の民族より優れているとし、自分たちだけの国家を作り、他の民族の抹殺をはかることである。ナチスはスラブ人やユダヤ人やその他の少数民族を劣等民族とし、民族純化をはかった。シオニズムはアラブ人やトルコ人を野蛮な劣等民族とみなし、武力で追い払い、時には虐殺した。

フロムは、『自由からの逃走』のなかで、民族共同体運動については論じていない。しかし、近代人はどこかの集団に属してその指導者に思考をゆだねることがあってはならない、とフロムは考える。近代人はあくまで個人主義で自由を重んじるべきだとする。

フロムはユダヤ人である。とうぜん、当時のシオニストの主張を知っていたはずである。フロムは自分がユダヤ人に属するという考えより、人類のなかのひとりの個人であるという考えを、ナチスやシオニストの台頭の中であえて、選んだのだと私は思う。

フロムは、『自由からの逃走』のなかで、ナチスを支持する人たちが近代の個人主義と自由主義におののいて思考停止に陥っているのを暴くとともに、シオニズムからの決別を告げたのだと思う。

以前、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』の前半、ユダヤ人が受けてきた迫害の歴史の部分を私は読めなかったが、今回のガザ侵攻と鶴見太郎と森まり子の書の出会いで、読めるようになったか、という気がする。早速、『全体主義の起源』を図書館に予約した。