猫じじいのブログ

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一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感、その3

2023-02-09 22:42:14 | 思想

一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志の批判を昔のブログの再録で続ける。

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親鸞主義の「絶対他力」は怪しい   (2016/9/25(日))

中島岳志は、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)で、親鸞の「絶対他力」について何度も述べてている。

「絶対他力」は「ありのまま」でいいんだのことらしい。わたしの関係している問題で言えば、摂食障害を起こした子どもや引きこもっている子どもに対し、「ありのまま」の自分を肯定して欲しいと親のほうは願う。しかし、うまくいかない。

「競争社会」にのめり込んでいる子どもたちをそこから抜け出させるためには、「ありのままでいいんだよ」が、「競争社会」に対峙する思想として、意味がある。

しかし、社会には利害の対立があり、争いが現実にある。豊洲移転問題だって、安全問題だけでなく、根底には経済的利害の対立があったはずである。

すると、「ありのままでいいんだよ」では、子どもたちはいずれ納得できなくなる。社会的差別を受けている子どもたちにとって、それは「我慢しなさい」の別の表現になる。社会の利害の対立に気づいたとき、自分の思想的立場をもつことが必要になる。それが自立である。

親鸞主義の「絶対他力」は親鸞の教えではなく、戦前の大正時代にできたウソの教えではないか、と私は疑う。

私の出身地の北陸では、戦国時代に、浄土真宗の農民が村単位で自治を行っており、織田信長の配下が攻めて来たとき、命をかけて戦った。谷という谷は血の海に埋まったという。農民がバカだから念仏を信じていたから戦ったのではない。守るべきものがあったからである。

だから、「絶対他力」は後世のウソだと思う。恵まれている知識人の創作であろう。

子どもたちと接していると、庇護を求めてくる。愛されることを望んでいる。私は、無条件の庇護、愛を与えるようにしている。子どもたちが求めているのは安心できる人間関係である。

しかし、庇護される人がいることは、庇護する人がいることである。愛される人がいることは、愛する人がいることである。

私が望んでいることは、いずれ私がいなくなるから、また、人を庇護する立場、人を愛する立場をとる人が出てくることである。立場の違いは、論理では埋まらない。最終的は、バートランド・ラッセルが言うように、政治で解決する問題である。



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