前回の石見一宮物部神社-猿田彦神社の線上に難波宮は、かすっているとはいえ、のっているといえます。
物部氏と難波は縁が深いと考えています。
何度もいっているように、不比等は物部連麻呂に、文武天皇を倒せば難波を好きにしていいと言ったはずだからです。
(『磐井の乱』のときの継体天皇の物部麁鹿火に対する言葉がそれです)

今まで、出雲大社を基点として、九州と近畿を対称にさせていると考えました。
それはそれでいいのですが、物部氏が石見一宮物部神社を基点として九州と大阪を対称にすることもありえるはずです。(その数は多くはないでしょうが)
そこで、石見一宮物部神社-難波宮跡と同一距離で、石見一宮物部神社での角度が120度になるところを探してみました。
(なぜ120度にするかといえば、その地点と石見一宮物部神社-難波宮跡がつくる二等辺三角形は二つの90度、60度、30度の合同の直角三角形を合わせた形になるからです。出雲大社のときにもその二等辺三角形は表れました)
その地点にふさわしいところは、なんと岩戸山古墳になります。
岩戸山古墳はあの「磐井の乱」の「磐井」の墓とされています。
何度もやっていますが、物部氏は「磐」「石」にこだわりを持っています。
(磐井がいたにしろ、いなかったにしろ、以前からあった古墳を磐井の墓にして、磐井を創りだしたのかもしれません。)






岩戸山古墳
北緯33度13分47.31秒、東経130度33分09.94秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=331347.31&l=1303309.94
石見一宮物部神社
北緯35度09分17.82秒、東経132度30分48.40秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350917.82&l=1323048.40
難波宮跡
北緯34度40分49.57秒、東経135度31分23.91秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344049.57&l=1353123.91
石見一宮物部神社→岩戸山古墳
Ⅰ220°47′48.07″ Ⅱ39°41′40.58″ Ⅲ279,744.586(m)
石見一宮物部神社→難波宮跡
Ⅰ99°58′16.45″ Ⅱ281°41′39.70″ Ⅲ280,020.226(m)
岩戸山古墳→難波宮跡
Ⅰ69°19′17.98″ Ⅱ252°05′57.68″ Ⅲ486,735.887(m)
石見一宮物部神社での角度
220°47′48.07″-99°58′16.45″=120°49′31.62″
岩戸山古墳での角度
69°19′17.98″-39°41′40.58″=29°37′37.40″
難波宮での角度
281°41′39.70-252°05′57.68″=29°35′42.02″
難波と澪標(みおつくし)と筑紫と磐井の乱 2009年11月16日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/108e334c9ee4b3109ab2484033f6e1ce
継体天皇が与えた斧鉞は『七支刀』ではないでしょうか 2009年11月30日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ee1cbaa32447a3ae18bddb7ff6272870
物部の裏切りにされていると考えられる部分 2008年06月27日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/0fff85157592df07b21150bcac5e12cc
物部連麻呂は「石上」と名を変えていますし、「石見」・「磐井・岩戸山」、また「名石」だって関係はあるはずです。
「立磐神社」の「磐」や「石山本願寺」の「石」も関係あるはずです。
(難波宮の辺りも「石山本願寺」の「石山」という地名だったでしょう。)
この「磐」は卑弥呼臺与(トヨ)を殺した磐之媛命(「明石の君」)からの「借り物」のはずです。
卑弥呼の子孫が恐れるのは「火」と「石」です。
おそらく、その時の、正統なる卑弥呼の子孫は文武天皇だったのでしょう。
(大津皇子の事件とかありますから、時・状況によって正統・正当は変わります)
その文武天皇を物部連麻呂は殺害したはずですから、その祟りを恐れます。
しかし、「石」をつければ、卑弥呼は怖れるはずですから、祟りはおこらないと考えたに違いありません。
ただ、厄介なのは、「磐井」には文武天皇が投影されています。
(707-527=180・・三干支)
さらに厄介なのは文武天皇には物部連麻呂が投影されています。
24、5歳で崩御した文武天皇の諡号に「祖父」がはいっているのは、普通に考えれば「変だ」としかなりません。この文武天皇には77、8歳で亡くなった物部連麻呂が投影されているからこそ諡号に「祖父」が入っているのです。
現在の文武天皇陵とされている陵には物部連麻呂が埋葬されているはずです。
真の文武天皇陵は藤ノ木古墳のはずです。
石上神宮・藤原京・大坂城の三角形 2008年07月18日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/7e9ff765dc49c3d23fa5add7334cd54e
出雲大社・大坂城(桜門)・石上神宮は一直線上 2008年07月21日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fbaf08f5a38c3d91f1e52e81f4a21776
石上神宮―出雲大社の直線に対し直角になるのは立磐神社 2008年07月29日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/cedbfe2d547d387b0ec1a9c82e22da25
立磐神社-出雲大社と直角になる地・再再考 2010年08月24日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6319358988cb1b80f47ff9ec9edaae61
物部氏と難波は縁が深いと考えています。
何度もいっているように、不比等は物部連麻呂に、文武天皇を倒せば難波を好きにしていいと言ったはずだからです。
(『磐井の乱』のときの継体天皇の物部麁鹿火に対する言葉がそれです)

今まで、出雲大社を基点として、九州と近畿を対称にさせていると考えました。
それはそれでいいのですが、物部氏が石見一宮物部神社を基点として九州と大阪を対称にすることもありえるはずです。(その数は多くはないでしょうが)
そこで、石見一宮物部神社-難波宮跡と同一距離で、石見一宮物部神社での角度が120度になるところを探してみました。
(なぜ120度にするかといえば、その地点と石見一宮物部神社-難波宮跡がつくる二等辺三角形は二つの90度、60度、30度の合同の直角三角形を合わせた形になるからです。出雲大社のときにもその二等辺三角形は表れました)
その地点にふさわしいところは、なんと岩戸山古墳になります。
岩戸山古墳はあの「磐井の乱」の「磐井」の墓とされています。
何度もやっていますが、物部氏は「磐」「石」にこだわりを持っています。
(磐井がいたにしろ、いなかったにしろ、以前からあった古墳を磐井の墓にして、磐井を創りだしたのかもしれません。)






岩戸山古墳
北緯33度13分47.31秒、東経130度33分09.94秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=331347.31&l=1303309.94
石見一宮物部神社
北緯35度09分17.82秒、東経132度30分48.40秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350917.82&l=1323048.40
難波宮跡
北緯34度40分49.57秒、東経135度31分23.91秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344049.57&l=1353123.91
石見一宮物部神社→岩戸山古墳
Ⅰ220°47′48.07″ Ⅱ39°41′40.58″ Ⅲ279,744.586(m)
石見一宮物部神社→難波宮跡
Ⅰ99°58′16.45″ Ⅱ281°41′39.70″ Ⅲ280,020.226(m)
岩戸山古墳→難波宮跡
Ⅰ69°19′17.98″ Ⅱ252°05′57.68″ Ⅲ486,735.887(m)
石見一宮物部神社での角度
220°47′48.07″-99°58′16.45″=120°49′31.62″
岩戸山古墳での角度
69°19′17.98″-39°41′40.58″=29°37′37.40″
難波宮での角度
281°41′39.70-252°05′57.68″=29°35′42.02″
難波と澪標(みおつくし)と筑紫と磐井の乱 2009年11月16日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/108e334c9ee4b3109ab2484033f6e1ce
継体天皇が与えた斧鉞は『七支刀』ではないでしょうか 2009年11月30日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ee1cbaa32447a3ae18bddb7ff6272870
物部の裏切りにされていると考えられる部分 2008年06月27日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/0fff85157592df07b21150bcac5e12cc
物部連麻呂は「石上」と名を変えていますし、「石見」・「磐井・岩戸山」、また「名石」だって関係はあるはずです。
「立磐神社」の「磐」や「石山本願寺」の「石」も関係あるはずです。
(難波宮の辺りも「石山本願寺」の「石山」という地名だったでしょう。)
この「磐」は卑弥呼臺与(トヨ)を殺した磐之媛命(「明石の君」)からの「借り物」のはずです。
卑弥呼の子孫が恐れるのは「火」と「石」です。
おそらく、その時の、正統なる卑弥呼の子孫は文武天皇だったのでしょう。
(大津皇子の事件とかありますから、時・状況によって正統・正当は変わります)
その文武天皇を物部連麻呂は殺害したはずですから、その祟りを恐れます。
しかし、「石」をつければ、卑弥呼は怖れるはずですから、祟りはおこらないと考えたに違いありません。
ただ、厄介なのは、「磐井」には文武天皇が投影されています。
(707-527=180・・三干支)
さらに厄介なのは文武天皇には物部連麻呂が投影されています。
24、5歳で崩御した文武天皇の諡号に「祖父」がはいっているのは、普通に考えれば「変だ」としかなりません。この文武天皇には77、8歳で亡くなった物部連麻呂が投影されているからこそ諡号に「祖父」が入っているのです。
現在の文武天皇陵とされている陵には物部連麻呂が埋葬されているはずです。
真の文武天皇陵は藤ノ木古墳のはずです。
石上神宮・藤原京・大坂城の三角形 2008年07月18日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/7e9ff765dc49c3d23fa5add7334cd54e
出雲大社・大坂城(桜門)・石上神宮は一直線上 2008年07月21日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fbaf08f5a38c3d91f1e52e81f4a21776
石上神宮―出雲大社の直線に対し直角になるのは立磐神社 2008年07月29日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/cedbfe2d547d387b0ec1a9c82e22da25
立磐神社-出雲大社と直角になる地・再再考 2010年08月24日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6319358988cb1b80f47ff9ec9edaae61