古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

立磐神社-出雲大社と直角になる地・再再考

2010年08月24日 21時57分15秒 | Weblog
九州と近畿では出雲大社を基点として、直角だったり同一距離となったりするところが多数ありました。
それは初めから意識されていたことだった、と考えられます。
初めからとはいつからのことでしょうか。
また誰に意識されていたのでしょうか。
間違っているかもしれませんが、恐れずにいえば、
「朝鮮(高麗)から戻ってきた、卑弥呼トヨとスサノヲの子孫が、居住地を定めるのにそれも意識していた」であろうということです。
その他に、現実的には、出雲の文化状態や交易(朝鮮との位置関係など)とか鉄とかの条件もあったことでしょう。
ある程度、そういうことが考えられなければ、出雲からの出身者が飛鳥で王権を樹立するということは起こりようもないはずです。
そこで、出雲からの降臨は三輪山辺りであったろうと推測できます。
卑弥呼トヨが火災による一酸化炭素中毒で「磐之媛命」に殺された地に戻って、王権を奪取したであろうと考えました。
しかし、三輪山辺りでは正確には「出雲大社-立磐神社と直角となる地」にはなりません。

出雲大社→三輪山
 ①107.477度 ②289.301度 ③305.3099km
出雲大社→立磐神社
 ①196.520度 ②15.9225度 ③354.573km

 196.520-107.477=89.043度
89度あればいいじゃないか、纒向遺跡(まきむくいせき)ならも少し90度に近くなります。

しかし、「出雲大社-立磐神社と直角となる地」は石上神宮だったのです。
難波宮跡や法輪寺(三井寺)も「出雲大社-立磐神社と直角となる地」です。

石上神宮―出雲大社の直線に対し直角になるのは立磐神社・2008・7/29
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/cedbfe2d547d387b0ec1a9c82e22da25

ただし、出雲大社-難波宮跡-法輪寺(三井寺)は一直線上ですが、石上神宮は少し外れます。
今までは、「出雲大社-立磐神社と直角となる地」は『天孫降臨』の地だと考えていました。
ですから、それは藤原宮跡か三輪山辺りだと考えたのです。
藤原宮としたのは、神武天皇が最後に宮を定めたのが畝傍山の麓だったからです。
『天孫降臨』と『神武東征』の最終地は同じだと考えました。
日向に降臨するより、大和に降臨する方が手っ取り早いのは当たり前です。

(ですが、宮ということで考えれば、立磐神社ではおかしいわけです。
そこで、高千穂の方で宮を考えましたが直角となるふさわしい所はわかりませんでした。)

ところが、なぜ石上神宮がその地点になるのか、今一理解できませんでした。
しかし、ピッタリいくのは石上神宮なのです。
やっとわかりました。
これは『天孫降臨』よりも『神武東征』の関連です。

石上神宮は物部氏の氏寺です。
そして、『神武東征』と邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト・物部氏の祖先とされている)の関係では、こうなっていました。
最後の場面で、邇芸速日命は長髄彦を殺して神武天皇に帰順するのです。
これが、石上神宮を「出雲大社-立磐神社と直角」とさせている意味だと思われます。
(石上神宮のほうでは、むしろ逆の意味を考えていて、知らないかもしれませんが、そういう意味を持たされてしまっています。)

出雲大社-立磐神社の距離と出雲大社-熊野速玉大社の距離は同一でした。
美々津・立磐神社は『神武東征』の出発地点であり、新宮市の熊野速玉大社は『神武東征』の上陸地点でした。

やっと、半歩進みます。
物語では、『神武東征』は邇芸速日命が帰順して、終わるようなものです。
しかし、この『神武東征』は九州での西暦247年のスサノオと奴国の争いと近畿での争いが混じり合っています。
大変厄介に混合されています。とんでもなく複雑になっています。
(『魏志倭人伝』はここまで複雑になっているのでしょうか)

(以前もののほとんど繰り返しですが、少し違っています)
一見、247年の戦争と壬申の乱が混じり合っているように見えました。
というのは、「日本書紀」では邇芸速日命が長髄彦を殺害したのは、物部連麻呂が大友皇子を、殺害したに違いないと思わせる描き方になっていたからです。
しかし、壬申の乱はありません。
壬申の乱は「247年の戦争」と「磐井の乱」と、『平城京遷都の原因となった、不比等・文武天皇の確執、及びそれにからんだ物部連麻呂の争い』を混同させたものです。

「邇芸速日命が子分の長髄彦を殺した」というのは、物部連麻呂が文武天皇を殺したということです。主従関係が逆になっていますが、『魏志倭人伝』に同じような間違いがあります。
そして、邇芸速日命は神武天皇に帰順した、ことになっています。
この場合の神武天皇は不比等になります。
しかし、不比等は文武天皇を殺したなら、物部連麻呂を王・天皇にするといったに違いありません。
以前に書いていますが、身の危険を感じた不比等(蘇我馬子)は、文武天皇(崇峻天皇)・物部連麻呂(崇峻を殺した東漢駒になることになる?)を分断させたのです。(文武天皇は朝鮮奪還を目指す気はなかったのです。不比等は、それでは親の遺言を実行できません。文武天皇は不比等を嫌いました。)

描き方としては、邇芸速日命(物部連麻呂)が自分の意思で長髄彦(文武天皇)を殺したことになっています。
しかし、違うと思います。
神武天皇(不比等)は邇芸速日命(物部連麻呂)に餌を与えて長髄彦(文武天皇)を殺させたのです。

出雲大社-難波宮跡-法輪寺(三井寺)は完全に一直線上です。
出雲大社-石上神宮はその線と少し外れます。
ですが、出雲大社-立磐神社と、どちらの線も直角といって良いでしょう。

法輪寺(三井寺)
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343721&l=1354419

出雲大社→法輪寺(三井寺)
 ①106.431度 ②288.183度 ③291.089km
出雲大社→難波宮跡
 ①106.436度 ②288.066度 ③270.363km
難波宮跡→法輪寺(三井寺)
 ①107.986度 ②288.108度 ③20.726km

270.363+20.726=291.089km・・・・ピッタリ一致

立磐神社-出雲大社と直角となる難波宮跡や法輪寺(三井寺)や石上神宮


出雲大社-難波宮跡-法輪寺(三井寺)は一直線上。石上神宮は少しずれている。


法輪寺(三井寺)と法隆寺の位置


出雲大社-難波宮跡-法輪寺(三井寺)の直線と
出雲大社-大阪城-石上神宮(これは一直線)
おっーと。大坂城も出雲大社-立磐神社の直線と直角といって余暇短(良かったん)だ。
大坂城の位置は、もとは石山本願寺だったはずですが、確かそれ以前物部氏の所領だったのではなかったかしら。


余暇短は変換ミスというより、入力の間違いです。
本日面白かったのは『天孫降臨』とうったつもりで「天孫小売」になったことです。

『神武東征』図 再考Ⅱ 2007・8/28
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/4c7f7b4bf6c1c53fbf051311bb9ffef0

大和と北九州の相関関係・壬申の乱はどっちだ・2007・6/19
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/cce78ac117bc42b3311cb7ed7550013c

壬申の乱と磐井の乱の似た点。浮羽と不破。 2007・7/6
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/15915e8f812ed9f9dfec7a27e85741b9

近畿と九州の吉野と出雲大社・壬申の乱に関連して2007年06月15日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/57f3ee58288dc0bae1ec97c57c601772
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