ソウル・光州(クァンジュ)・釜山は見ただけで直角三角形になっています。
一応確かめてみます。
この直角三角形は簡単にできます。
Aソウル・・北緯37度31分56秒、東経126度57分26秒(図では127度)
B光州(クァンジュ)・・北緯35度09分10秒、東経126度54分30秒
C釜山・・北緯35度4分57秒、東経129度03分18秒
(グーグルアースだと北緯35度9分28秒)
ア・光州(クァンジュ)→ソウル
①0.93374度 ②180.962度 ③264.4708km
イ・光州(クァンジュ)→釜山
①91.6741度 ②272.909度 ③195.2924km
イ①-ア①=91.6741-0.93374=90.74036度
釜山の位置の緯度を
北緯35度6分19秒にすれば
B①は90.9319度になりA①の0.93374度を引くとほぼ90度になります。
しかし、この三角形で面白そうに思えたのは、釜山とソウルを結んだ線と光州(クァンジュ)からその線に直角でぶつかる所が‘倭館’という地名のところになりそうだったことです。
D地点です。
初めはその地点が大邱(テイグ)という都市かと考えました。
大邱(テイグ)はソウル・釜山・仁川(インチョン)につぐ四番目の都市だそうです。
しかし、どうもずれます。
大邱(テイグ)の西北に倭館(Waegwan・地図では佞館)という地名があります。
伽倻に関する本を読んでいましたら、「もしかして、‘任那・日本府’がここにあったという空想にかられる人もいるかもしれない」と書かれていました。
著者は冗談めかして書かれているようですが、本をきちんと読まないうちに、ここで引っ掛かってしまいました。
もし、Dの位置に倭館という地名があるならば、‘任那・日本府’であってもおかしくはありません。
なぜならば、出雲大社・伊勢神宮・福井を結ぶ直角三角形のちょうど平城京の位置にD・倭館の地はあたることになるからです。
しかし、何時間もかかりましたが、うまくいきませんでした。
ちょっとずれます。
A・B・C全部の地をうまく少しずつ動かさないと駄目なようです。
その中に、意味のあるところがわかればいいのですが・・。
倭館で検索しました。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%CF%C1%B4%DB/detail.html?LINK=1&kind=epedia
倭館
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
≪倭館(わかん)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。文禄・慶長の役(朝鮮出兵。韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱という)以前は複数箇所存在したが、江戸時代には釜山に限定され、日本側は対馬藩が朝鮮との外交、通商を行った。 ≫
≪現存の倭館地名 大韓民国慶尚北道漆谷(チルゴク)郡に倭館(ウェグァン)邑が現存し、京釜線の駅名と漆谷郡庁所在地にもなっているが、これは文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である。なお、漆谷邑は1981年に大邱市が直轄市に昇格した時に編入されて現存しない。≫
ということで、この説明では、D倭館は「文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である」ということですから、任那とか伽倻とかとは関係ないことになります。
しかし、未練たらしくいえば、秀吉はD地が意味のあるところと知っていたかもしれません。
絶妙な所に「倭館」はありすぎます。
現在の倭館の地を少しずらせばピッタリの所は必ずあるのです。
ところが、その地があったとしても、実は困ります。
日本の出雲大社・伊勢神宮・福井の直角三角形は、710年平城京の完成と同時に完成したはずです。(構想はずっと以前からあったとしても)
ところが、朝鮮のこの三角形は、故意だとしても、660年の百済滅亡、663年の白村江の戦い(任那または伽倻の滅亡もその時だと思いますが)までには完成していなければならないからです。
すべて偶然?
そんなことがあるのかしら。
一応確かめてみます。
この直角三角形は簡単にできます。
Aソウル・・北緯37度31分56秒、東経126度57分26秒(図では127度)
B光州(クァンジュ)・・北緯35度09分10秒、東経126度54分30秒
C釜山・・北緯35度4分57秒、東経129度03分18秒
(グーグルアースだと北緯35度9分28秒)
ア・光州(クァンジュ)→ソウル
①0.93374度 ②180.962度 ③264.4708km
イ・光州(クァンジュ)→釜山
①91.6741度 ②272.909度 ③195.2924km
イ①-ア①=91.6741-0.93374=90.74036度
釜山の位置の緯度を
北緯35度6分19秒にすれば
B①は90.9319度になりA①の0.93374度を引くとほぼ90度になります。
しかし、この三角形で面白そうに思えたのは、釜山とソウルを結んだ線と光州(クァンジュ)からその線に直角でぶつかる所が‘倭館’という地名のところになりそうだったことです。
D地点です。
初めはその地点が大邱(テイグ)という都市かと考えました。
大邱(テイグ)はソウル・釜山・仁川(インチョン)につぐ四番目の都市だそうです。
しかし、どうもずれます。
大邱(テイグ)の西北に倭館(Waegwan・地図では佞館)という地名があります。
伽倻に関する本を読んでいましたら、「もしかして、‘任那・日本府’がここにあったという空想にかられる人もいるかもしれない」と書かれていました。
著者は冗談めかして書かれているようですが、本をきちんと読まないうちに、ここで引っ掛かってしまいました。
もし、Dの位置に倭館という地名があるならば、‘任那・日本府’であってもおかしくはありません。
なぜならば、出雲大社・伊勢神宮・福井を結ぶ直角三角形のちょうど平城京の位置にD・倭館の地はあたることになるからです。
しかし、何時間もかかりましたが、うまくいきませんでした。
ちょっとずれます。
A・B・C全部の地をうまく少しずつ動かさないと駄目なようです。
その中に、意味のあるところがわかればいいのですが・・。
倭館で検索しました。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%CF%C1%B4%DB/detail.html?LINK=1&kind=epedia
倭館
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
≪倭館(わかん)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。文禄・慶長の役(朝鮮出兵。韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱という)以前は複数箇所存在したが、江戸時代には釜山に限定され、日本側は対馬藩が朝鮮との外交、通商を行った。 ≫
≪現存の倭館地名 大韓民国慶尚北道漆谷(チルゴク)郡に倭館(ウェグァン)邑が現存し、京釜線の駅名と漆谷郡庁所在地にもなっているが、これは文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である。なお、漆谷邑は1981年に大邱市が直轄市に昇格した時に編入されて現存しない。≫
ということで、この説明では、D倭館は「文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である」ということですから、任那とか伽倻とかとは関係ないことになります。
しかし、未練たらしくいえば、秀吉はD地が意味のあるところと知っていたかもしれません。
絶妙な所に「倭館」はありすぎます。
現在の倭館の地を少しずらせばピッタリの所は必ずあるのです。
ところが、その地があったとしても、実は困ります。
日本の出雲大社・伊勢神宮・福井の直角三角形は、710年平城京の完成と同時に完成したはずです。(構想はずっと以前からあったとしても)
ところが、朝鮮のこの三角形は、故意だとしても、660年の百済滅亡、663年の白村江の戦い(任那または伽倻の滅亡もその時だと思いますが)までには完成していなければならないからです。
すべて偶然?
そんなことがあるのかしら。