古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

神武東征・ちょっと付けたし

2021年10月08日 20時53分16秒 | Weblog
神武東征・ちょっと付けたし
「神武東征」は最初の方でずいぶんやっています。
以下、初めて気がついたみたいな気になってますが、忘れているだけかもしれません。

秦氏 ウィキペディア
『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[2]を秦氏の祖とする[3]。
日本へ渡ると豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。

秦氏はまず「豊前国」を拠点としたとあります。
なんだー、です。
(いや、それは見たことがあったはずです。それなのに気がつかないのはおかしいです)

気になっていたのは、
スサノヲが宇佐から上陸して、山中を抜けて奴国に攻め入り、卑弥呼を殺し奴国を征服した時のことです。
熊野速玉大社あたりに上陸した神武天皇は八咫烏の導きで北上します。
八咫烏の八咫(やた)は秦氏の秦(はた)を意味しています。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/9fbc30a9289ae06f70bf1926b35187d9
八咫烏の「八咫」は「秦・ハタ」に変化 2017年10月17日

ならば、宇佐に上陸したスサノヲに秦氏の導き、先導があるはずでした。
それが、わかりませんでしたが、秦氏がまず拠点としたのは豊前国でした。
(ならば、私の空想は当たりになる可能性が出てきました)



247年のスサノヲ軍には宇佐から奴国の中心までの土地勘はないと思えますから、誰かの先導があったでしょう。それが秦氏とよばれる人たちであったでしょう。
(ただし、秦氏といっても、同じ血族ではないかもしれません。秦氏をつかみかねてます。これも魏志倭人伝の間違いを利用しているのかもしれません)

やはり、『神武東征』は、スサノヲの北九州襲撃を基にした物語です。

ただし、神武天皇には桓武天皇も投影されています。
長岡京や平安京遷都には秦氏の協力があった、と推測されます。
そして247年のスサノヲの襲撃には、道案内がいないと無理なはずです。

宇佐神宮は豊前国一宮です。
宇佐神宮 ウィキペディア
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。

繰り返しますが、神武天皇は熊野に上陸し、八咫烏に導かれて北上します。
そして、八咫烏の「八咫」は「ハタ」を意味していると考えました。
すると、247年、北九州で敗れたスサノヲが宇佐から再上陸して、奴国に攻め入るのに、『秦氏』の導きがあったはずです。
スサノヲ達にとって初めての山中の行路ですから、道案内がいて初めて実行できることです。
「秦氏」は初め、豊前国にいたとなると、私の推測が正しい可能性は高まります。

『神武東征』の八咫烏の導きでの熊野からの北上は、スサノヲが宇佐から攻め込み、西に進み奴国を征服したことを直角に変えています。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/e58642ca49fd0986efec6a80a83029ab
《載斯烏越の意味を「この烏(カラス)を戴(いただ)いて(険しい場所を)越える」と解きますと、まさに、神武天皇を表していることになります。
神武天皇の熊野からの北上に、八咫烏が道案内をするのは、魏志倭人伝の「載斯烏越」からとられていることもある,と考えています。》

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