天照大神とスサノヲの誓約では、天照大神はスサノヲの十拳剣を噛み砕き噴出した息からから宗像三女神が生まれます。次にスサノヲは天照大神の《八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠》を噛み砕き、吐き出した息から五柱の男神が生まれます。
この誓約の基本的な状況は、247年の戦争にあったと考えています。
247年須磨からきたスサノヲは卑弥呼と卑弥呼の弟の奴国を滅ぼします。凄惨な殺戮の場面でした。その状況は中国にも伝えられ、「魏志倭人伝」に記述されることになりました。
私のブログの初めのころに書いています。(この戦いは神武と長脛彦の大阪での戦争にも変化しています。国を奪うという表現が誓約と東征の両方にありました)
この当時北九州以東の天候は不順で、寒気に包まれていたと考えられます。
スサノヲの出身地域一帯では、奴国の朝鮮との交易権(特に鉄)を奪う必要がありました。戦力的にも下のはずでしたが、奇襲により勝ちます。
そこで、この誓約の宗像三女神が生みだされたという話は、この戦勝により、対馬海峡の交易権・制海権がスサノヲたちのものになったと考えるとピッタリ来そうな気がします。
さて、ところが、誓約のもう一つの「ヤサカノ勾玉」から生まれた五柱の男神の方は、イマイチさえません。
王権の交代があったために、表現が素直にならなくなっているものと思えます。
例えば、
古事記では
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)
日本書紀では天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
《葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。》
天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父ですが、
途中で引き返すというていたらくで、情けなくないでしょうか。
おそらく、情けないと思わせるためなのか、直接降臨とは関係ないとして、話がつけたされたのでしょう。
翡翠は重要な産物ですから、初めの設定では、天孫降臨ではなく、天子降臨で良かったのではないかと思えます。
またまた、初めに戻らせてください。
最初の王朝(スサノヲとイワノヒメ)の時には、高天原から降臨という考え方はあったでしょうか。
あったかもしれませんが、それほど重要ではないでしょう。
次にこの王朝が崩壊し、次の王朝は天武系(高句麗系)で6世紀の後半のことと考えています。この天武系は卑弥呼臺与(とよ)とスサノヲの子孫で、朝鮮に渡っていたおり、300年余り後に朝鮮から戻って出雲に住み着いていたと考えています。
天孫降臨のもとは、この天武系がヤマトに戻ってきたことが主として基盤に存在しています。
また,その後、天武系から天智系(百済・藤原氏系)に王朝は変化します。
天武系が神話を創りだす時に、大国主命が生まれたと考えます。
この時の大国主命は前王朝の(スサノヲとイワノヒメの子孫)です。
ですからこの大国主命はヤマト・三輪山あたりに本拠を構えていたはずです。
しかし、天武系が滅ぼされたときに、大国主命には、天武系も含まれてしまい、出雲が本拠地とされてしまったのです。
ですから、降臨神話も変化してしまい、一世代ずれて天孫となったわけです。
そうしますと、勾玉は奈良時代に消えたということですが、天武系の消滅と期を一にするのでしょうか。
まだよく理解できていません。
そうすると、三種の神器に勾玉がなぜ入っているのでしょう。
(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)
消されても良さそうですが、そうもいかなくなっていたのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%9B%E3%83%9F%E3%83%9F
アメノオシホミミ
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう[1]。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)[1][2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
アマテラスとスサノオの誓約(アマテラスとスサノオのうけい)とは、『古事記』や『日本書紀』に記される天照大神(アマテラス)と建速須佐之男命(スサノヲ、日本書紀では素戔嗚尊)が行った誓約(占い)のこと。
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6月3日


この誓約の基本的な状況は、247年の戦争にあったと考えています。
247年須磨からきたスサノヲは卑弥呼と卑弥呼の弟の奴国を滅ぼします。凄惨な殺戮の場面でした。その状況は中国にも伝えられ、「魏志倭人伝」に記述されることになりました。
私のブログの初めのころに書いています。(この戦いは神武と長脛彦の大阪での戦争にも変化しています。国を奪うという表現が誓約と東征の両方にありました)
この当時北九州以東の天候は不順で、寒気に包まれていたと考えられます。
スサノヲの出身地域一帯では、奴国の朝鮮との交易権(特に鉄)を奪う必要がありました。戦力的にも下のはずでしたが、奇襲により勝ちます。
そこで、この誓約の宗像三女神が生みだされたという話は、この戦勝により、対馬海峡の交易権・制海権がスサノヲたちのものになったと考えるとピッタリ来そうな気がします。
さて、ところが、誓約のもう一つの「ヤサカノ勾玉」から生まれた五柱の男神の方は、イマイチさえません。
王権の交代があったために、表現が素直にならなくなっているものと思えます。
例えば、
古事記では
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)
日本書紀では天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
《葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。》
天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父ですが、
途中で引き返すというていたらくで、情けなくないでしょうか。
おそらく、情けないと思わせるためなのか、直接降臨とは関係ないとして、話がつけたされたのでしょう。
翡翠は重要な産物ですから、初めの設定では、天孫降臨ではなく、天子降臨で良かったのではないかと思えます。
またまた、初めに戻らせてください。
最初の王朝(スサノヲとイワノヒメ)の時には、高天原から降臨という考え方はあったでしょうか。
あったかもしれませんが、それほど重要ではないでしょう。
次にこの王朝が崩壊し、次の王朝は天武系(高句麗系)で6世紀の後半のことと考えています。この天武系は卑弥呼臺与(とよ)とスサノヲの子孫で、朝鮮に渡っていたおり、300年余り後に朝鮮から戻って出雲に住み着いていたと考えています。
天孫降臨のもとは、この天武系がヤマトに戻ってきたことが主として基盤に存在しています。
また,その後、天武系から天智系(百済・藤原氏系)に王朝は変化します。
天武系が神話を創りだす時に、大国主命が生まれたと考えます。
この時の大国主命は前王朝の(スサノヲとイワノヒメの子孫)です。
ですからこの大国主命はヤマト・三輪山あたりに本拠を構えていたはずです。
しかし、天武系が滅ぼされたときに、大国主命には、天武系も含まれてしまい、出雲が本拠地とされてしまったのです。
ですから、降臨神話も変化してしまい、一世代ずれて天孫となったわけです。
そうしますと、勾玉は奈良時代に消えたということですが、天武系の消滅と期を一にするのでしょうか。
まだよく理解できていません。
そうすると、三種の神器に勾玉がなぜ入っているのでしょう。
(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)
消されても良さそうですが、そうもいかなくなっていたのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%9B%E3%83%9F%E3%83%9F
アメノオシホミミ
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう[1]。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)[1][2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
アマテラスとスサノオの誓約(アマテラスとスサノオのうけい)とは、『古事記』や『日本書紀』に記される天照大神(アマテラス)と建速須佐之男命(スサノヲ、日本書紀では素戔嗚尊)が行った誓約(占い)のこと。
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6月3日


