古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

『神武東征』と「モーセの出エジプト」

2005年05月02日 22時56分41秒 | Weblog
 古代日本にキリスト教徒が渡来していたことは確実ですが、日本にどんな影響があったのでしょうか。
今日の今日まで、私は、肝心な所ではあまり影響はなかったのではないか、と解釈していました。
なぜなら、神の復活する地に来たのだから、キリスト教徒は自分たちを無にして、飛び込んできたはずだからです。ですから、神社で何らかの風習が残っていたり、民間に何らかの科学的な考え方が伝わっていたり、哲学的な考え方の方法が残っていたりすることはあっても、土着の思想そのものには影響はそれほどなかったのではないか、と考えていました。(もちろん、考え方そのものが思想といえるのかもしれませんが)
 この思想とは、単にというか、特にはというか、日本に残っていた怨霊思想のことをいっています。
 前にも書きましたように、怨霊思想は、素朴な生まれ変わりの思想が不幸な変質をしたものだと、私は考えました。その際、キリスト教又はキリスト教徒が関与したわけはないと、無意識的にその可能性を排除していました。ただ、キリスト教徒たちの子孫も怨霊思想に飲み込まれてしまった、とは考えました。
 ですが、今日仕事をしながら思いついたのです。もしかすると、キリスト教徒が日本に渡来していなかったら、怨霊思想はそれほど強大にはならなかったのではないか、と。
 キリスト教徒の携えてきた考え方が、日本における怨霊思想を強固にしてしまったと考えたのです。日本に居た誰もが気がつかないうちに、変化、変質した怨霊思想に飲み込まれて溺れてしまいました。
 面白いとは思ったのですが、今日の今日ですから、まだまとまりません。で、後回し。

そこで、以前に考えた『神武東征』と「モーセの出エジプト」について書いときます。
『神武東征』は247年の戦争と、壬申の乱と、モーセの出エジプトが一緒に書かれています。

さて「記・紀」に書かれた熊野からの進路についてです。この進路は実際に宇佐から上陸し西の方角に進軍した進路を90度変更したものです。架空である熊野からの進路からすれば実際の宇佐からの進路は時計の針の進行とは反対の90度の変更をしています。しつこく述べますが、これは「倭人伝」が邪馬台国の位置を南としていたのが架空・(間違い)で、実際は東だったということが基になっています。卑弥呼の復活に必要なのです。これは今までと全く同じです。
ところがこの熊野に向かって南下し、この熊野から北上する進路は、もう一つ世界史上の出来事と重ね合わされています。実際にあった進路なのかどうかは、私には判断できません。
しかしその出来事が想定される三つの進路のうち最も有力とされている進路と極めて似ているのです。私は「記・紀」の編纂者(又はそれ以前から伝えてきた人々)たちの頭の中には、その出来事の進路が想定されていたに違いないと考えています。
その出来事とは旧約聖書の「出エジプト」です。ということはここにおける神武天皇はモーセに見立てられているということです。

南下してから北上するという点を重視すると似ているといえます。ただモーセの出エジプトではすべて陸上を進み、神武天皇は南下の際は海上を進んだというところは違います。モーセの出エジプトの場合、エジプト軍に追いつかれたモーセ一行の前の海が両側に分かれて陸地になったというエピソードがあります。
また北上するときに大きく迂回をするところも似ています。しかし似ているのは行程だけではありません。神武天皇とモーセのおかれている環境が似ているのです。
神武天皇には五瀬命という兄がいました。同様にモーセにもアロンという兄がいます。神武天皇と兄五瀬命の父は波限建鵜草葺不合命(ナギサタケウガヤフキアエズノミコト)です。(実際は神武天皇のモデルの一人スサノヲが波限建鵜草葺不合命の父です。父・子関係が逆になっています)
波限建鵜草葺不合命は、母の豊玉毘賣命の妹の玉依毘賣を、要するに叔母を、娶ります。叔母と甥の間に生まれたのが神武天皇と五瀬命です。(その他に二人)【古事記上巻の最終場面】
どなたも奇妙な不思議な話だと感じるはずです。
 下世話な話、「いったい年の差はどのくらい離れているのだろう。」と頭をかすめるはずです。しかし古代にそんな言い伝えがあるならば、「それはそれでそんなもんなんだろう。」と、読み進むしかありません。
ところがこの奇妙な話がモーセたちの身の上にもあるのです。
『アムラムは父の妹ヨケベデを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムの一生は137年であった。』出エジプト記 第6章20
母の妹と父の妹の違いはありますが、ともかく叔母です。
主はモーセに告げることが多いようです。アロンは祭司の役目を担います。
神罰が下り疫病が始まったとき、アロンは死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみます。(民数記16-48)
さてこの二組の兄弟の似ている点です。両方とも兄のほうが先に亡くなります。五瀬命は那賀須泥毘古との戦いで手傷を受け、『神武東征』の進路・方向は大きく変わります。その後五瀬命は紀の国の男(お)の水門(みなと)で崩(かむあが)ります。すなわち亡くなります。≪紀の国の男(お)の水門(みなと)とは実は筑紫の岡(おか)の水門(みなと)のこと≫
一方モーセ、アロンの一行は、エドムが強力な大軍勢で進路をふさぎ、エドムの領土を通らせないようにしたために、(戦いは起こりませんでしたが、)大きく進路・方向を変えます。その後アロンは山の頂で死にます。
(民数記20)
水門と山頂という正反対の場所で亡くなりますが、二人とも約束の地には入れません。五瀬命の‘かむあがる’(亡くなる)という言葉と、アロンの場合の‘先祖の民に加えられ、そこで死ぬ’というのは、正反対のようでいて同じことを言っているように見えます。
そして良く似ているのがモーセの墓と神武天皇の御陵です。モーセも約束の地カナンに入れないで亡くなります。ただしその地を望み見ることは許されます。
「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコの向かい側のピスガの頂に登った。主は、彼に全地方を望み見させた。」申命記34-1
「そして主はモーセに仰せられた。『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、「あなたの子孫に与えよう。」と言って誓った地はこれである。私はこれをあなたの目にみせたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。』
こうして、主の命令によって、主のしもベモーセは、このモアブの地で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、彼の墓がどこにあるかを知るものはいない。モーセは死んだときは120歳であった。」申命記34-4,5,6
≪これは「しんめいき」と読みます。もともと日本語ではありません。日本語訳聖書より先に翻訳されていた漢語訳聖書の第5巻につけられていたタイトルが『申命記』で、漢語で「申命」とは「繰り返して命じる」という意味だそうです。ヘブライ語聖書では、「これらはことばである」というタイトルです。書名のないのが普通である古代の文書を、冒頭の単語をタイトル代わりに使っているものです。 もう少し内容を表して「律法の写し」(ミシュネー ハットーラー)と呼ばれることもあります≫(申命記の基礎知識・布忠.COM)
さて神武天皇の御陵ですが、「記・紀」それぞれ次のように書かれています。
「畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり。」御年137歳・・古事記
「畝傍山東北(うしとらのすみの)陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる。」御年127歳・・日本書紀
 近年この御陵の位置がわからなくなっていたため、いろいろな異説がでていたそうです。ただ
「日本書紀・天武紀によれば、壬申の乱にあたって、高市郡の大領高市県主許梅に神懸りがあったために、神武陵に馬及び兵器を奉ったという。すなわちこの時に公式に神武陵とされたものが存在したばかりでなく、それは祭祀の対象でもあったのである。」(歴代天皇・年号辞典 米田雄介編)
 もともと神武天皇御陵はわからなくていいのです。乱暴な説かもしれません。
 ですが、モーセが約束の地カナンに入れなかったように、神武天皇も入れなかったはずなのです。神武天皇御陵は畝傍山・香具山・耳成山を結んだ三角形の外側に設定されたはずです。真摯に考えられた説はすべてそのはずです。なぜならこの畝傍山・香具山・耳成山を結んだ三角形の内側が約束の地だからです。最初の想定では、神武天皇が日向から目指した地はここです。この約束の地は藤原京です。モーセがカナンに入れなかったと同様に神武天皇の御陵はこの藤原京の中に入れません。
 【以前、考えた時は、神武天皇(天武天皇また敵としてのスサノヲ)とモーセを単に似せるために故意に都に入れないようにしたのだろうとしました。しかし、もしかすると都に入れないようにするために、わざわざモーセを引っ張ってきたのかもしれません。うがちすぎかしら?】
                               続く
 
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同感 (ヘブライ人)
2005-07-08 18:10:46
古事記は旧約聖書を参考にしながら日本的にアレンジして創ったものと考えています。天照の家系図とアブラハムの家系図はほぼ同じです。天皇家はイスラエルの失われた支族でしょう。
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Unknown (go-hot-ai)
2005-07-09 23:05:01
失われた支族というのは、紀元前8世紀にイスラエルの王国がアッシリアに滅ぼされた時とその後の話しではないでしょうか。

旧約聖書の影響を受けているというのはそのとおりでしょうが、新約聖書も、ギリシャ哲学も神話も一緒に持ち込んでいると考えています。

3/8に書いているのですが、「記・紀」が違った文体・言葉で書かれているのは二つの聖書がそれぞれヘブライ語・ギリシャ語と違った言語で書かれていたためだと考えています。キリスト教は新約・旧約聖書ともに聖書としています。

ギリシャの弁証法が使用されているし、西暦も利用されていると考えています。ですから日本に来たのはキリスト教徒です。

確かに、旧約聖書の影響は大きいと思います。

前には書かなかったのですが、黙っていると体に悪いので書きます。

唐招提寺の‘しび’とか名古屋城の金の鯱に見られるものは、旧約聖書に出てくる聖櫃・アークにつけられていたとされる天使とその翼だと考えています。

アークの予想図を見ての直感ですから、根拠もありません。似ていると思っただけです。しかし、天守閣がアークだったとしたら面白いでしょ。失われたアークは日本にあった、ということになります。

中国にもありますから、中国にも影響があった、というよりこれは中国のほうが先だったかもしれません。

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皇紀0年 (ヘブライびと)
2005-07-13 07:37:27
神武天皇の即位の年をなぜ紀元前660年にしたのでしょうか?自分たち(イスラエルの失われた支族)が流浪の民となった昔を忘れないために定めたと考えています。

古事記の中の天津国の物はは全て「天の~~」と表現されているのに何故「高天原」だけ「天」が頭に付かないのでしょうか?これはイスラエルの祖アブラハムの故郷ダガマ・ハーラをどうしても記述したかったからだと思います。皇紀と同じ理由で。
返信する
Unknown (go-hot-ai)
2005-07-14 22:36:28
なぜ神武即位を紀元前660年にしたかについてですが、推古9年という一見何も意味を持たないところを基軸にしたからです。しかしこの年は西暦601年にあたります。この年から、三善清行のいう(辛酉革命)・60×21=1260年をさかのぼった地点が紀元前660年になります。西暦は一年から始まります。紀元前も一年から数えます。ゼロ年はありません。ですから601年は7世紀の最初となり、その1260年前は紀元前660年となります。

本来なら、基軸となる年は法興元年・591年のはずです。この年に卑弥呼の王朝が復活したはずだからです。しかし、法興は隠さなければならなくなり、次善の策として601年が選ばれたと考えます。なぜなら、彼等はそれが世紀の始まりだとする「西暦」を知っていたからです。特別な年だと認識していたからです。起点は紀元前660年ではなく、紀元601年を起点として、さかのぼったと考えます。

(601年,西暦元年も,紀元前660年も辛酉の年です。)

それとも、紀元前660年が「失われた支族」にとって特別な年であるという証拠があるのでしょうか。

高天原以外はすべて「天の」とつくということは、気がつきませんでした。とすると、高天原は、本来なら、「天の高原(あめのたかはら)」とでもしなければおかしいというわけですね。なるほど、面白いです。ハランというのは聞いたことはあったのですが、ダガマ・ハーラだとは知りませんでした。

ですが、ヘブライ人様の説が正しいとすると、失われた支族だけがダガマ・ハーラにこだわることはないと思うのですが。ユダヤ教およびユダヤ教に近いとされるキリスト教徒も同様にこだわっていてもいいのではないでしょうか。



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ヘブライ王国 (ヘブライびと)
2005-07-15 06:50:35
 古事記の編纂された時代を考えると私も既にユダヤ教、キリスト教(原始キリスト教の景教だと思う)の影響も受けていると思います。私の執着点は「天皇家が失われたイスラエルの支族であった」と言うことです。ヘブライ王国が分裂して北イスラエル王国とユダヤ王国が出来ました。従って遡るとイスラエル民族とユダヤ民族は祖が違うと理解しています。繰り返しになりますがダガマ・ハーランはイスラエルの祖・アブラハムの故郷なのです。
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