これから書く思い込みは、突拍子もないので、馬鹿馬鹿しいと思われること確実です。
ですが、なにぶん、どうぞ、我慢して付き合ってください。
ここ二、三日頭にもたげてきたのは、百済滅亡後、日本で生じた歴史が朝鮮に伝わり、その歴史が百済の歴史とされて朝鮮に残ったのではないか・・・・という仮説です。
常識的にはありえないことです。
自分でも信じがたいのですが、引っ掛かりだしました。
そこで、気がかりになり落ち着きませんので書いておくことにします。
天武天皇の崩御または病床中に、大津皇子が姉の伊勢の斎宮のもとに行ったのは、即位のための禊(みそぎ)であったと考えました。
そのとき、自分では気づきませんでしたが、これを韓国ドラマの「ソドンヨ」から類推してしまったようです。
「ソドンヨ」を見ていなかったら思いつかなかったかもしれません。
(「ソドンヨ」を見ていない人はわかりにくいかもしれません。ご勘弁のほど。)
そこで、ぼんやりと「ソドンヨ」の筋と、私の考える〈天武、持統、高市、大津皇子、不比等、元明、元正などの間〉の歴史をすり合わせると奇妙に一致点が多いのです。
最初はクーデターのパターンは同じようなもので、どこの国でも似たようなことが起きるのだろう、と考えました。
ですが、構成上の類似点が多いような気がします。
もちろん相違点は多々あります。
まず、時代が違います。まるで『魏志倭人伝』のように、後の時代の歴史が以前の歴史に入っています。しかも日本の歴史が百済・朝鮮の話のように変わってしまったようです。
無理やり、可能性を考えてみます。
百済滅亡後でも、日本に渡来した百済人は朝鮮との交流を続けたと思えます。
それはいろいろありえます。
いずれの日か百済を復興させたいと願う人もいたでしょうし、親戚も残っていたでしょうし、食材にしろ朝鮮の物がほしかったでしょう。故郷だって恋しいでしょう・・・などなど。
また、滅亡した百済王家の子孫が日本で王家になっていたとすると、日本から伝わる話はまるで百済の話として感じられたかもしれません。(ただし、あくまでも、卑弥呼トヨとスサノヲの子孫です)
ということで、可能性はないこともないということで話を進めます。
天武天皇は大田皇女との間に大津皇子がいました。
また天武天皇と鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)には草壁皇子がいました。しかし、草壁皇子と高市皇子は同一人物です。
日本書紀では《持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月庚午【三】》◆
《皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。》(朝日新聞社本)
詩賦之興自大津始也。と書かれています。
ウィキペディア(Wikipedia)
《大津皇子は、『懐風藻』によると、「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」》
一方、高市皇子は、ヤマトタケルのモデルでもあるはずですから、武に秀でていました。大津皇子も武に優れていると書かれていますが、どちらかというと文に優れている方に重きを置かれているでしょう。
天武天皇は文の大津皇子と武の高市皇子を使いこなし、次期の天皇としては大津皇子を考えていたはずです。
ところで、「ソドンヨ」では
百済王・威徳王の皇子は三人いました。しかし、長男の阿佐太子以外は病弱のようです。一人は幼少のうちに亡くなったようです。もう一人も病死します。
しかし、実はもう一人皇子がいます。威徳王が祀りの前夜に舞姫と契りますが、舞姫は子を身籠ります。その男の子が百済の四番目の王子だということを、母の舞姫以外知らずに庶民として育ちます。
皇后はどうなっているのかわかりません。登場していませんから、たぶんずいぶん前に亡くなっているのでしょう。
あらすじを書いていると大変です。また現在GyaOで34話目で、55話まであるそうです。
そこで、はしょりますが、ともかく、その男の子は新羅の王女(公主・コンジュ)と恋仲になります。朝鮮の歴史をほとんど知りませんが、百済の王子と新羅の王女が結婚するなんてありえねーと誰でも思うんじゃないでしょうか。
まぁ、なんとなく、ロミオとジュリエットを思い浮かべて、御伽噺ということで受け入れる可能性があるといったところでしょうか。
ロミオとジュリエットは悲劇ですが、「ソドンヨ」はたぶんハッピーエンドでしょう。(おそらく。ですが、歴史上ありえないストーリーですから、悲劇に終わってもいいのです。ハッピーエンドにしたら、後の歴史との整合性が崩れるかもしれません。)
これは朝鮮の話ですから、敵国の百済と新羅になりますが、元の話が日本で起きたことで、亡命状態の百済王子と日本の皇女の話なら十分成立します。
そして、たぶん、これは日本で起きたことです。
元に戻しますが、天武天皇-文の大津皇子-武の高市皇子の関係が「ソドンヨ」でもあります。
威徳王の長男で文に長け、外交手腕を発揮するのが阿佐太子で大津皇子にあたります。王位を狙うのが威徳王の弟とその長男で、その長男が武の棟梁でプヨソンといいます。
プヨソンは威徳王の甥になります。プヨソンが高市皇子にあたります。
「ソドンヨ」ではプヨソンが、アリバイをつくっていますが、禊が済んだ即位式直前の阿佐太子を殺します。
日本では、おそらく高市皇子が禊の済んだ大津皇子を、場所が伊勢なのか、飛鳥板蓋宮でのことなのか、天武天皇の生存中のことなのか、はっきりできませんが、殺しているはずです。
また、大津皇子の母・大田皇女は早くに亡くなっています。
阿佐太子の母登場しないところを見ると、早くに亡くなっているのでしょう。
日本では、高市皇子が天皇になった時期がありますが、「ソドンヨ」では、まだこれからなのですが、おそらく威徳王の弟も、その長男のプヨソンも即位できないのでしょう。
さて、百済の第四王子はチャンといいますが、日本で誰にあたるかというと、不比等です。
「ソドンヨ」はたぶん時間が縮められて、プヨソンが王位につくことはないでしょうが、日本では高市天皇になります。
そして、不比等は元正天皇(氷高皇女、草壁皇子、実は高市天皇の皇女)と関係します。
「ソドンヨ」のように純愛とはいえないでしょうが、不比等は滅亡していたとはいえ百済の王子ですし、氷高皇女は日本の王女です。(源氏と若紫の関係)
敵国同士とはいえませんが、氷高皇女は天武天皇の孫です。
(日本で消されている話が朝鮮では残っているのではないでしょうか)
不比等にとっておそらく天武天皇は父豊璋を殺した主犯ですから、氷高皇女は敵の孫ということになります。(高市皇子も関与していたかもしれません)
また、チャンとその一行は百済を追われ、新羅で生活することを余儀なくされた時期もありましたから、その点でも異国・日本で生活をした不比等と通じます。(不比等は日本生まれでしょうが)
「ソドンヨ」はいろいろなエピソードを混ぜて創られたと書かれたのを見たことがあります。
もしそうならば、たまたま私の考えた日本の歴史の筋書きと一致することが多かっただけということになります。(それにしても・・・・・激似)
ですが、なにぶん、どうぞ、我慢して付き合ってください。
ここ二、三日頭にもたげてきたのは、百済滅亡後、日本で生じた歴史が朝鮮に伝わり、その歴史が百済の歴史とされて朝鮮に残ったのではないか・・・・という仮説です。
常識的にはありえないことです。
自分でも信じがたいのですが、引っ掛かりだしました。
そこで、気がかりになり落ち着きませんので書いておくことにします。
天武天皇の崩御または病床中に、大津皇子が姉の伊勢の斎宮のもとに行ったのは、即位のための禊(みそぎ)であったと考えました。
そのとき、自分では気づきませんでしたが、これを韓国ドラマの「ソドンヨ」から類推してしまったようです。
「ソドンヨ」を見ていなかったら思いつかなかったかもしれません。
(「ソドンヨ」を見ていない人はわかりにくいかもしれません。ご勘弁のほど。)
そこで、ぼんやりと「ソドンヨ」の筋と、私の考える〈天武、持統、高市、大津皇子、不比等、元明、元正などの間〉の歴史をすり合わせると奇妙に一致点が多いのです。
最初はクーデターのパターンは同じようなもので、どこの国でも似たようなことが起きるのだろう、と考えました。
ですが、構成上の類似点が多いような気がします。
もちろん相違点は多々あります。
まず、時代が違います。まるで『魏志倭人伝』のように、後の時代の歴史が以前の歴史に入っています。しかも日本の歴史が百済・朝鮮の話のように変わってしまったようです。
無理やり、可能性を考えてみます。
百済滅亡後でも、日本に渡来した百済人は朝鮮との交流を続けたと思えます。
それはいろいろありえます。
いずれの日か百済を復興させたいと願う人もいたでしょうし、親戚も残っていたでしょうし、食材にしろ朝鮮の物がほしかったでしょう。故郷だって恋しいでしょう・・・などなど。
また、滅亡した百済王家の子孫が日本で王家になっていたとすると、日本から伝わる話はまるで百済の話として感じられたかもしれません。(ただし、あくまでも、卑弥呼トヨとスサノヲの子孫です)
ということで、可能性はないこともないということで話を進めます。
天武天皇は大田皇女との間に大津皇子がいました。
また天武天皇と鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)には草壁皇子がいました。しかし、草壁皇子と高市皇子は同一人物です。
日本書紀では《持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月庚午【三】》◆
《皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。》(朝日新聞社本)
詩賦之興自大津始也。と書かれています。
ウィキペディア(Wikipedia)
《大津皇子は、『懐風藻』によると、「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」》
一方、高市皇子は、ヤマトタケルのモデルでもあるはずですから、武に秀でていました。大津皇子も武に優れていると書かれていますが、どちらかというと文に優れている方に重きを置かれているでしょう。
天武天皇は文の大津皇子と武の高市皇子を使いこなし、次期の天皇としては大津皇子を考えていたはずです。
ところで、「ソドンヨ」では
百済王・威徳王の皇子は三人いました。しかし、長男の阿佐太子以外は病弱のようです。一人は幼少のうちに亡くなったようです。もう一人も病死します。
しかし、実はもう一人皇子がいます。威徳王が祀りの前夜に舞姫と契りますが、舞姫は子を身籠ります。その男の子が百済の四番目の王子だということを、母の舞姫以外知らずに庶民として育ちます。
皇后はどうなっているのかわかりません。登場していませんから、たぶんずいぶん前に亡くなっているのでしょう。
あらすじを書いていると大変です。また現在GyaOで34話目で、55話まであるそうです。
そこで、はしょりますが、ともかく、その男の子は新羅の王女(公主・コンジュ)と恋仲になります。朝鮮の歴史をほとんど知りませんが、百済の王子と新羅の王女が結婚するなんてありえねーと誰でも思うんじゃないでしょうか。
まぁ、なんとなく、ロミオとジュリエットを思い浮かべて、御伽噺ということで受け入れる可能性があるといったところでしょうか。
ロミオとジュリエットは悲劇ですが、「ソドンヨ」はたぶんハッピーエンドでしょう。(おそらく。ですが、歴史上ありえないストーリーですから、悲劇に終わってもいいのです。ハッピーエンドにしたら、後の歴史との整合性が崩れるかもしれません。)
これは朝鮮の話ですから、敵国の百済と新羅になりますが、元の話が日本で起きたことで、亡命状態の百済王子と日本の皇女の話なら十分成立します。
そして、たぶん、これは日本で起きたことです。
元に戻しますが、天武天皇-文の大津皇子-武の高市皇子の関係が「ソドンヨ」でもあります。
威徳王の長男で文に長け、外交手腕を発揮するのが阿佐太子で大津皇子にあたります。王位を狙うのが威徳王の弟とその長男で、その長男が武の棟梁でプヨソンといいます。
プヨソンは威徳王の甥になります。プヨソンが高市皇子にあたります。
「ソドンヨ」ではプヨソンが、アリバイをつくっていますが、禊が済んだ即位式直前の阿佐太子を殺します。
日本では、おそらく高市皇子が禊の済んだ大津皇子を、場所が伊勢なのか、飛鳥板蓋宮でのことなのか、天武天皇の生存中のことなのか、はっきりできませんが、殺しているはずです。
また、大津皇子の母・大田皇女は早くに亡くなっています。
阿佐太子の母登場しないところを見ると、早くに亡くなっているのでしょう。
日本では、高市皇子が天皇になった時期がありますが、「ソドンヨ」では、まだこれからなのですが、おそらく威徳王の弟も、その長男のプヨソンも即位できないのでしょう。
さて、百済の第四王子はチャンといいますが、日本で誰にあたるかというと、不比等です。
「ソドンヨ」はたぶん時間が縮められて、プヨソンが王位につくことはないでしょうが、日本では高市天皇になります。
そして、不比等は元正天皇(氷高皇女、草壁皇子、実は高市天皇の皇女)と関係します。
「ソドンヨ」のように純愛とはいえないでしょうが、不比等は滅亡していたとはいえ百済の王子ですし、氷高皇女は日本の王女です。(源氏と若紫の関係)
敵国同士とはいえませんが、氷高皇女は天武天皇の孫です。
(日本で消されている話が朝鮮では残っているのではないでしょうか)
不比等にとっておそらく天武天皇は父豊璋を殺した主犯ですから、氷高皇女は敵の孫ということになります。(高市皇子も関与していたかもしれません)
また、チャンとその一行は百済を追われ、新羅で生活することを余儀なくされた時期もありましたから、その点でも異国・日本で生活をした不比等と通じます。(不比等は日本生まれでしょうが)
「ソドンヨ」はいろいろなエピソードを混ぜて創られたと書かれたのを見たことがあります。
もしそうならば、たまたま私の考えた日本の歴史の筋書きと一致することが多かっただけということになります。(それにしても・・・・・激似)