大和三山はそれぞれ誰に比定されているのでしょうか。
通説とはまるで違うと思いますが、私の考えではこうです。
まず、耳成山はスサノヲです。
「魏志倭人伝」の「投馬国」の部分ではこう書かれていました。
「官を弥弥といい、副を弥弥那利という」(訳注『魏志』倭人伝p41)
弥弥はミミと読み、弥弥那利は耳成(ミミナリ)か耳垂(ミミタリ)の類か、というような注がつけられています。
耳成(ミミナリ)という字を見ると、どうしても耳成山(ミミナシヤマ)を思い浮かべてしまいます。
私の考えでは、『投馬国』は「須磨」を表わしています。スサノヲは須磨の出身です。そして、スサノヲは神武天皇の第一のモデルです。
『神武東征』は逆になっていますから、スサノヲと兄・五瀬命の軍隊は須磨から、西の北九州に向かいました。この時、神武天皇(スサノヲ)は兄・五瀬命の下についたはずです。
さて、そうすると弥弥は兄・五瀬命を表わし、弥弥那利は神武天皇(スサノヲ)を表わすことになります。
また、五瀬命・神武天皇は官だったことになりますから、王ではありません。王の命を受けて、遠征したはずです。
ということで、耳成山はスサノヲを表わしています。
天香具山は卑弥呼トヨです。
天香具山という名前で、思い浮かべるのは、まず竹取物語の「かぐや姫」です。次にイザナミから生まれた「迦具土神」で、火の神です。イザナミは迦具土神を生むことが原因で亡くなります。
さて、「かぐや姫」は8月15日に月に帰ります。
卑弥呼トヨも8月15日に亡くなったはずです。(去年の3月頃に書いてあります)
卑弥呼トヨは、また火災による一酸化炭素中毒で亡くなったはずです。
天香具山という名前で、卑弥呼トヨに行き着きます。
畝傍山は残った「磐之姫」(明石の君)です。
【畝傍山・・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
《畝傍とは「火がうねる」の意味である。古代人がこの山を火山と認識していた可能性も考えられる。》】
天智天皇の歌では「畝火」となっているように、ともかく畝傍山は「火」と結びついているようです。
磐之姫は、卑弥呼トヨを殺すように命じ、命じられたものは、8月15日・仲秋の名月の宴のときに卑弥呼トヨを殺すために、屋敷に火をかけたはずです。そこに居合わせた、百余人もの人々も一緒に死んだはずです。(その人たちは殉死ではありません)
この三人の霊の融和を図りたい、ということが藤原京の基本的なコンセプトだったかもしれません。
しかし、藤原京は短期間で放棄されます。
この三人が融和することは不可能だったのです。(と、人々は考えたのです)
藤原京は修羅場だった可能性があります。
なお、
『 香久山は 畝火を愛しと 耳成と
相あらそひき神代より かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき』
という天智天皇の歌とは、人間関係は全く違った解釈になります。
私の解釈では、争ったとかかれるべきなのは、(天香具山は争うつもりはなかったかもしれませんが)、天香具山と畝傍山です。
神代と天智天皇の時代の三角関係は違っています。
神代は男一人に、女が二人です。天智天皇のときは、男二人に女が一人らしいです。(次の不比等の時代も三角関係があるかもしれません)
ところで、なぜ、天香具山・耳成山・阿武山古墳が一直線にされたのでしょうか。
阿武山古墳は天智天皇陵ですから、天智天皇が卑弥呼トヨとスサノヲの子孫であり、その二人の霊に陵を護らせたいと、藤原不比等が考えたからではないでしょうか。
そういうわけで、畝傍山ははじかれたわけです。
しかし、その線上に夢殿が入っていることは何を意味するのでしょうか。
夢殿がいまいち、というより、ほとんどわかりませんから、いずれ。
通説とはまるで違うと思いますが、私の考えではこうです。
まず、耳成山はスサノヲです。
「魏志倭人伝」の「投馬国」の部分ではこう書かれていました。
「官を弥弥といい、副を弥弥那利という」(訳注『魏志』倭人伝p41)
弥弥はミミと読み、弥弥那利は耳成(ミミナリ)か耳垂(ミミタリ)の類か、というような注がつけられています。
耳成(ミミナリ)という字を見ると、どうしても耳成山(ミミナシヤマ)を思い浮かべてしまいます。
私の考えでは、『投馬国』は「須磨」を表わしています。スサノヲは須磨の出身です。そして、スサノヲは神武天皇の第一のモデルです。
『神武東征』は逆になっていますから、スサノヲと兄・五瀬命の軍隊は須磨から、西の北九州に向かいました。この時、神武天皇(スサノヲ)は兄・五瀬命の下についたはずです。
さて、そうすると弥弥は兄・五瀬命を表わし、弥弥那利は神武天皇(スサノヲ)を表わすことになります。
また、五瀬命・神武天皇は官だったことになりますから、王ではありません。王の命を受けて、遠征したはずです。
ということで、耳成山はスサノヲを表わしています。
天香具山は卑弥呼トヨです。
天香具山という名前で、思い浮かべるのは、まず竹取物語の「かぐや姫」です。次にイザナミから生まれた「迦具土神」で、火の神です。イザナミは迦具土神を生むことが原因で亡くなります。
さて、「かぐや姫」は8月15日に月に帰ります。
卑弥呼トヨも8月15日に亡くなったはずです。(去年の3月頃に書いてあります)
卑弥呼トヨは、また火災による一酸化炭素中毒で亡くなったはずです。
天香具山という名前で、卑弥呼トヨに行き着きます。
畝傍山は残った「磐之姫」(明石の君)です。
【畝傍山・・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
《畝傍とは「火がうねる」の意味である。古代人がこの山を火山と認識していた可能性も考えられる。》】
天智天皇の歌では「畝火」となっているように、ともかく畝傍山は「火」と結びついているようです。
磐之姫は、卑弥呼トヨを殺すように命じ、命じられたものは、8月15日・仲秋の名月の宴のときに卑弥呼トヨを殺すために、屋敷に火をかけたはずです。そこに居合わせた、百余人もの人々も一緒に死んだはずです。(その人たちは殉死ではありません)
この三人の霊の融和を図りたい、ということが藤原京の基本的なコンセプトだったかもしれません。
しかし、藤原京は短期間で放棄されます。
この三人が融和することは不可能だったのです。(と、人々は考えたのです)
藤原京は修羅場だった可能性があります。
なお、
『 香久山は 畝火を愛しと 耳成と
相あらそひき神代より かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき』
という天智天皇の歌とは、人間関係は全く違った解釈になります。
私の解釈では、争ったとかかれるべきなのは、(天香具山は争うつもりはなかったかもしれませんが)、天香具山と畝傍山です。
神代と天智天皇の時代の三角関係は違っています。
神代は男一人に、女が二人です。天智天皇のときは、男二人に女が一人らしいです。(次の不比等の時代も三角関係があるかもしれません)
ところで、なぜ、天香具山・耳成山・阿武山古墳が一直線にされたのでしょうか。
阿武山古墳は天智天皇陵ですから、天智天皇が卑弥呼トヨとスサノヲの子孫であり、その二人の霊に陵を護らせたいと、藤原不比等が考えたからではないでしょうか。
そういうわけで、畝傍山ははじかれたわけです。
しかし、その線上に夢殿が入っていることは何を意味するのでしょうか。
夢殿がいまいち、というより、ほとんどわかりませんから、いずれ。