古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

持統が天皇ではなかった証拠・吉野行幸

2010年03月05日 11時21分01秒 | Weblog
高市天皇の時代があったと考えています。そこで、思いつきです。
持統天皇の特筆されるエピソードとして、吉野行幸が異常に多いことが挙げられます。31回もあったようです。
しかし、疑問なのは、なぜ吉野に行ったかではなく、天皇が中央の政治を休むことが可能だったのかということです。
なぜ、吉野行幸だったのかという疑問に対する答えとして、よく挙げられるのは、壬申の乱にさいし、持統天皇は天武天皇と苦楽をともにしたからだ、という答えを聞きます。
ですが、壬申の乱自体がなかったと考えられます。
壬申の乱では天武天皇方の謀反のイメージがあります。
天武天皇の謀反ということはありえないと考えます。

健康に良かったということもあるかもしれません。もちろん、他のこともあるでしょう。(それが大津皇子がらみのことなのかとも考えるのですが、まだわかりません)
持統は大病していて、天武天皇はそのために薬師寺を造ったといわれています。
《天武天皇九年(六八〇)十一月癸未【十二】》◆癸未。皇后体不予。則為皇后誓願之。初興薬師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。】

天皇であるならば、象徴としての天皇という時代ではないのですから、政治的な決断をしなければならないことが常にあったはずです。
空白が許されるはずはありません。

信用のおける後のものに任せればいいではないかと思われるかもしれません。
しかし、この後を任されるものは、太政大臣であった高市皇子になるはずです。
私は、高市皇子は持統の子であり、このとき高市天皇であったと考えますが、文献的には、持統の子ではありません。
さて、持統は自分の子でないとすると、高市皇子に政治を任せるでしょうか。
一般的には、持統は自分の子である草壁皇子に天皇位につけるつもりであったが、草壁は夭折し、草壁の子である軽皇子(文武天皇)につなげるために自らが即位した、とされています。
ならば、自分の子ではない高市皇子に政治を、たとえ短期間であっても、任せるでしょうか。
高市皇子にも皇位継承権があります。
軽皇子(文武天皇)につなげようとするには、危険過ぎないでしょうか。
もし任せるとしたならば、皇位継承権を持たないものに任せるはずです。
しかし、必ずや、皇位継承権を持つ高市皇子は自分の意にそうもので周りを固めるはずです。
持統は、何を目的としたものかはさておいても、31回も吉野行幸をできるでしょうか。
持統は強権的だから、その点は十分考慮したであろうと考えるかもしれません。
ですが、疑り深い人は、心配でおちおち寝てもいられません。

ここでも、すっきりさせるには、高市皇子は持統の子であったと考えるべきです。
高市皇子は天皇であり、持統の子であったからこそ、持統は吉野行幸を続けることができたのです。
高市皇子は696年8月13日(持統天皇10年7月10日)に亡くなっています。
持統の吉野行幸の最後の方はこうなっているようです。

《持統10年(696)・2月3日、4月28日、6月18日
持統11年(697)・4月7日
大宝元年(701)・6月29日》

ですから、高市皇子(天皇)が亡くなった(崩御した)696年以降の吉野行幸は2回だけということになります。(大宝元年は行幸とは言わないかもしれません)

持統は、高市皇子(天皇)から軽皇子(文武天皇)につなげるために、政治に関与せざるを得なくなったのでしょう。
持統に焦りがあったとすればこのときです。
持統称制という期間があるとすれば、この高市皇子(天皇)崩御から文武天皇即位までです。
しかし、この期間は高市天皇の殯(もがり)のはずです。
文武天皇は即位してもまだ少年でしたから、持統は気をもんだでしょう。
このとき不比等が、本当に力を持ち始めました。
なぜなら、彼には皇位継承権はありませんから、持統は安心していたと思います。
(そうはいかなかった、ということになるわけです)
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高市皇子のクーデター | トップ | 韓国ドラマ「ソドンヨ」と日... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事