以下、納得していただくのはまだ無理かと思いますが、読み過ごしていただければ幸甚です。
応神・仁徳の皇位継承にある二年の空位は、欽明・敏達、天智・天武の皇位継承のときにも存在していたと考えます。
根本的にいえば、初めに天智・天武間の皇位継承に二年の空位があると考えるべきなのです。なぜなら、天智天皇の崩御年は671年ではなく、それより二年前だからです。(私は三年前の668年と考えていたのですが、違っていたのかしら)
それが、天智・天武を表象する応神・仁徳の空位二年に表されているのです。
欽明・敏達も天智・天武の表象ですから、二年の空位があるべきなのです。
日本書紀では
応神元年270年 崩年310年・空位2年・仁徳元年313年 崩年399年
欽明元年540年 崩年571年・・・・・・敏達元年572年 崩年585年
天智元年662年 崩年671年・・・・・・天武元年672年 崩年686年
だったのですが、欽明、天智後にも二年の空位を入れてみます。
欽明元年541年 崩年569年・・空位2年・・敏達元年572年 崩年586年
天智元年641年 崩年669年・・空位2年・・天武元年672年 崩年686年
欽明・敏達は天智・天武をコピーしたものとしました。
さて、もし天智の御子の大友皇子の即位があるならば、この二年間になります。
そして、もし天智崩が669年だとすると、書紀による藤原鎌足の崩年と同じになります。はっきりいえば、この崩における天智と鎌足は同一です。
どこが同一かといえば、藤原不比等の父として、ということです
応神(270~310)+空位2年・・・・≪仁徳(313~399)≫
応神の40年間プラス空位二年間は
=舒明(629~641)+皇極・孝徳・斉明(642~661)+天智(662~671)
=舒明(629~641)+天智(641~669)+空位2年
と変わります。
すると、応神天皇の御代の40年間は、舒明・天智天皇の御代を合計したものと同じになり、応神・天智の似ている点(6/20やそれ以前のブログから)から、やはり、コピーして移動したものといえます。繰り返しを作り出しています。
ただその間の年数の差が
629-270=359、669-310=359となり、どうにも1、2年足りません。
前には、空位の2年間を無視して、671-310=361(19×19)で関連性があるとしていました。
また応神(270~310)+空位2年は
=安閑・宣化(527~空位2年~539)+欽明(539~571)
=宣化(529~541)+欽明(541~569)+空位2年
と変化させます。(継体・安閑の間の空位二年がとっても邪魔なのですが、強引に行きます。邪魔なのですが、それを利用しています。)
先ほどの
欽明+敏達=(541~569)+空位2年+(572~586)
天智+天武=(641~669)+空位2年+(672~686)
と、合わせます。
すると
A・宣化(529~541)+欽明(541~569)+空位2年+敏達(572~586)
B・舒明(629~641)+天智(641~669)+空位2年+天武(672~686)
A・Bとも繰り返しの57年間(19×3)になっています。
さて、
5/2のブログ・推古天皇の御子・竹田皇子は宣化天皇ではないかと、しました。
6/18のブログでは、宣化天皇と舒明天皇の類似性に言及しました。
正確さには欠けると思いますが、元々正確にということが無理です。
(誰がやっても正確ということはありえません)
緻密さには欠けるというほうが正しいでしょう。(自慢にはなりませんが)
さて、そういうわけで、例によって強引ですが、
継体―空位二年―安閑ではなく、継体―宣化と継承されたとすると、
この継体天皇は推古天皇であり、宣化天皇は舒明天皇となります。
敏達天皇―推古天皇―舒明天皇と続きます。
系図によると、敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子(おしざかひこひとのおおえのみこ)が舒明天皇の父だそうです。
推古天皇は女性ですから、この時の大王ではありません。持統天皇誕生の時に、推古天皇という女帝が必要となり、つくられたものと考えます。
ですから、推古天皇の御代の実の天皇に当たる方は押坂彦人大兄皇子になるはずです。
Aの先頭にに継体を加え、Bの先頭にに推古(押坂彦人大兄皇子)を加え、Bの後に持統もしくは元明を加えると、AとBは同一で永遠の繰り返しが完成します。
ただ、自分でもまだ半信半疑です。考え方としてはあっているとは思うのですが・・。
修正をしなければならなくなるのでしょうか、それとも、もっと緻密にいけるのでしょうか。さて、どうなりますやら。
応神・仁徳の皇位継承にある二年の空位は、欽明・敏達、天智・天武の皇位継承のときにも存在していたと考えます。
根本的にいえば、初めに天智・天武間の皇位継承に二年の空位があると考えるべきなのです。なぜなら、天智天皇の崩御年は671年ではなく、それより二年前だからです。(私は三年前の668年と考えていたのですが、違っていたのかしら)
それが、天智・天武を表象する応神・仁徳の空位二年に表されているのです。
欽明・敏達も天智・天武の表象ですから、二年の空位があるべきなのです。
日本書紀では
応神元年270年 崩年310年・空位2年・仁徳元年313年 崩年399年
欽明元年540年 崩年571年・・・・・・敏達元年572年 崩年585年
天智元年662年 崩年671年・・・・・・天武元年672年 崩年686年
だったのですが、欽明、天智後にも二年の空位を入れてみます。
欽明元年541年 崩年569年・・空位2年・・敏達元年572年 崩年586年
天智元年641年 崩年669年・・空位2年・・天武元年672年 崩年686年
欽明・敏達は天智・天武をコピーしたものとしました。
さて、もし天智の御子の大友皇子の即位があるならば、この二年間になります。
そして、もし天智崩が669年だとすると、書紀による藤原鎌足の崩年と同じになります。はっきりいえば、この崩における天智と鎌足は同一です。
どこが同一かといえば、藤原不比等の父として、ということです
応神(270~310)+空位2年・・・・≪仁徳(313~399)≫
応神の40年間プラス空位二年間は
=舒明(629~641)+皇極・孝徳・斉明(642~661)+天智(662~671)
=舒明(629~641)+天智(641~669)+空位2年
と変わります。
すると、応神天皇の御代の40年間は、舒明・天智天皇の御代を合計したものと同じになり、応神・天智の似ている点(6/20やそれ以前のブログから)から、やはり、コピーして移動したものといえます。繰り返しを作り出しています。
ただその間の年数の差が
629-270=359、669-310=359となり、どうにも1、2年足りません。
前には、空位の2年間を無視して、671-310=361(19×19)で関連性があるとしていました。
また応神(270~310)+空位2年は
=安閑・宣化(527~空位2年~539)+欽明(539~571)
=宣化(529~541)+欽明(541~569)+空位2年
と変化させます。(継体・安閑の間の空位二年がとっても邪魔なのですが、強引に行きます。邪魔なのですが、それを利用しています。)
先ほどの
欽明+敏達=(541~569)+空位2年+(572~586)
天智+天武=(641~669)+空位2年+(672~686)
と、合わせます。
すると
A・宣化(529~541)+欽明(541~569)+空位2年+敏達(572~586)
B・舒明(629~641)+天智(641~669)+空位2年+天武(672~686)
A・Bとも繰り返しの57年間(19×3)になっています。
さて、
5/2のブログ・推古天皇の御子・竹田皇子は宣化天皇ではないかと、しました。
6/18のブログでは、宣化天皇と舒明天皇の類似性に言及しました。
正確さには欠けると思いますが、元々正確にということが無理です。
(誰がやっても正確ということはありえません)
緻密さには欠けるというほうが正しいでしょう。(自慢にはなりませんが)
さて、そういうわけで、例によって強引ですが、
継体―空位二年―安閑ではなく、継体―宣化と継承されたとすると、
この継体天皇は推古天皇であり、宣化天皇は舒明天皇となります。
敏達天皇―推古天皇―舒明天皇と続きます。
系図によると、敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子(おしざかひこひとのおおえのみこ)が舒明天皇の父だそうです。
推古天皇は女性ですから、この時の大王ではありません。持統天皇誕生の時に、推古天皇という女帝が必要となり、つくられたものと考えます。
ですから、推古天皇の御代の実の天皇に当たる方は押坂彦人大兄皇子になるはずです。
Aの先頭にに継体を加え、Bの先頭にに推古(押坂彦人大兄皇子)を加え、Bの後に持統もしくは元明を加えると、AとBは同一で永遠の繰り返しが完成します。
ただ、自分でもまだ半信半疑です。考え方としてはあっているとは思うのですが・・。
修正をしなければならなくなるのでしょうか、それとも、もっと緻密にいけるのでしょうか。さて、どうなりますやら。