古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

桓武天皇が天神を祀った〈交野柏原〉の位置

2012年03月10日 00時37分31秒 | Weblog
前回、〈延暦四年(七八五)十一月壬寅十壬寅〉に桓武天皇が〈交野柏原〉において〈祀天神〉とありました。
で、文庫本の訳には〈交野柏原〉は〈大阪府枚方市片鉾本町〉とあります。
枚方市とある以上、桓武五芒星のつくる五角形の中心辺りにはないことは確かです。
ですから、せめてこの地が、五角形の中にあればいいのだが、と探しました。
すると、驚いたことに、五角形の北側の頂点辺りになりそうです。
(明治五芒星の五角形をみるとホントに近くなります)
マップで見ると、この近くには、杉ケ本神社と山田神社があります。
杉ケ本神社を検索すると、住所地は〈大阪府枚方市大字片鉾1-1〉。
すなわち片鉾一丁目一番地ということです。






桓武天皇陵にした場合


明治天皇伏見桃山陵にした場合




杉ケ本神社
大阪府枚方市大字片鉾1-1 
http://kamnavi.jp/en/kawati/sugike.htm
由緒
・・・・・・・
桓武天皇が設けた郊祀壇址の一本杉に因む社名であるが、その郊祀壇址の北に位置し、壇止に近いと言われる。
・・・・・・
なお、社頭に枚方市教育委員会の説明板がある。
 桓武天皇は、長岡京遷都の翌年、延暦四年(785)十一月に都の南郊、交野柏原の野に郊祀壇(都の外で祭祀をおこなうための土壇)を設け、遷都の大事業をなしえたことを天神の恩恵によるものとして感謝の祈祷をおこなった。 これは中国の皇帝が冬至の日に天壇で天帝を奉祀する例にならったものである。
 「河内志」(1730年頃)によれば、こうした拝天祭祀がおこなわれたのは片鉾の地で、その場所を杉ケ本神社付近としているが、確証はなく、柏原もどこのことかわからない。
 なお、同じ拝天祭祀は延暦六年と斎衡三年(856年)にも交野でおこなわれた。
 平成九年 枚方市教育委員会
拝天の対象は北極星である。

五芒星の中の五角形の頂点。
桓武五芒星でいえば、桓武天皇陵-難波宮跡の直線と阿武山古墳-恭仁宮跡の直線の交点に〈郊祀壇〉が設けられ、その少し北側に杉ケ本神社が造られたということになるのでしょうか。
ただし、桓武五芒星の場合の交点は西側の会社(コマツ)の敷地内になります。
明治五芒星にすると交点は片鉾本町になります。
本当に杉ケ本神社は交点の北側になります。
古代の測量にちょっと誤差があったのか、私の五地点の位置が多少ずれているのかもしれませんが、この五角形が重要だったといえるのではないでしょうか。
〈郊祀壇〉はこの五角形の頂点に設けられ、南側にあるこの五角形の内部を守護するというか、あまねく照らすということだったのではないでしょうか。
ここしばらくみているように、この五角形の内部にスッポリ納まる交野は、直角が利用されて、重要な霊が集まるように設計されていたはずでした。
そしてその霊たちの生きていたときの恨みもつらみも消したい、というのが願いだったと思われます。

交野市の《市民憲章は「和」一文字。日本で一番短い市民憲章。》ウィキペディア(Wikipedia)

何らかの言い伝えがあって「和」が選ばれたのではないか、と勝手に推測しています。
また交野の「交」は交わる・交差するという意味のほかに「交」が「高」と音が同じということで「交野・かたの」⇔「高野・たかの・こうや」となり、高天原にも通じるのではないかと、「瀧原宮」のときと同じ推測をします。

例によって思い付きが多く、まだ練れていないようですが、お許しのほど。

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