古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

大都(北京)と天津、平安京(京都)と大阪の関係

2007年10月30日 13時25分10秒 | Weblog
 最初、まるっきりチンギス・ハーン=源義経説は信じてはいませんでした。考えるのも馬鹿らしいと思えました。
 ところが、10/8の図に見られるように、ウランバートル・中尊寺・西安(長安)があまりに特異な二等辺三角形を形成していることに驚いたわけです。
 日本と中国とモンゴルを結んだ中に、古代大和朝廷に特有な三角形があるということは、チンギス・ハーン=源義経の可能性があるということです。

 実はその時、もう一つ変だなと感じたことがあります。
 上都と北京の位置関係が北と南だったことです。
 ご承知のように、日本では都は藤原京、平城京、平安京へと北に移動しました。 日本でも、同時に存在したということではありませんが、それぞれの都の位置関係は南北でした。
 フビライが上都を創ったのですから、それは平安京造営よりも後のことです。
 北京は大都といわれていました。

≪ウィキペディア(Wikipedia)
金(きん、英Jin Dynasty、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国北半を支配した女真族の王朝。国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。≫

≪ウィキペディア(Wikipedia)より
大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身である。≫

 ですから、上都よりほんの少し北京の方が先に造られていたようです。
 北京も上都も平安京より後に造られました。

 フビライは二つの都を南北に置いたわけです。
 そして、問題は天津という港が北京の東南方向に見えることです。

 そこで、例によって単純な発想で、これは日本の平安京、平城京と大阪・難波の関係と同じものではないかと考えました。
 もし、チンギス・ハーン(=源義経)ならば(間違いないとは思いますが)、フビライは義経の孫ということになりますから、日本の都と港の位置関係を念頭に置いていたのかもしれない、と感じたわけです。

 そこで、北京と天津の位置関係は、義経の時代の関連で行けば、平安京と大阪の関係に習ったものではないかと考えました。

≪天津(てんしん、ティエンチン、拼音: Tiānjīn)という名前も「天神」に通ずるのではないかと考えました。
残念ながら、天津を調べますと、『正式に“天津”と命名したのは明王朝になってからである』そうです。(しかし、未練たらしく、元代にTiānjīnと呼ばれていたことがあったのでは、と思うしだいです)≫

 また、以下の引用させていただいた部分から理解できますように、フビライは大都(北京)に「積水潭」という湖・港を造り、そして通州までは「通恵河」という運河を造り、そこからは「自然河川であった白河(はくが)を徹底的に改修して運河し」天津までつなげたそうです。

 平安京の南にも巨椋池(おぐらいけ)という巨大な池が当時ありました。
 平安京の前の、十年ばかり存在した長岡京だったならば、巨椋池は都市内港のようです。
 北京も平安京も内陸の都です。
 ということは、フビライは巨椋池と淀川を北京と天津の間に造ろうとしたのではないでしょうか。
 フビライが源義経の孫で、平安京と巨椋池、淀川、難波の関係を聞き及んでいたからこそ、フビライには北京と天津を結びつけるという発想が浮かんだのではないでしょうか。

以下、引用です。 
http://www.jcca.or.jp/kaishi/226/226_ozawa.pdf
≪大いなる都・大都を世界通商の中心に彷彿させたクビライの野望「通恵河」≫
1――海とつながれた都
北京の中心部には、市民の憩いの場として知られる什刹海(しいちゃいはい)公園がある。什刹海公園には、前海、后海、西海の3つの人工の湖があり、その一つである西海は、かつて元代(1271~1368年)の都・大都の中心部に設けられた内港・積水潭(せきすいたん)の名残と伝えられる。
この湖は、今も通州を通じて大運河で渤海(ぼっかい)と結ばれている。什刹海公園と通州を結ぶ運河は通恵河と呼ばれ、船の航行に欠かせない閘門跡が今でも残る。大都の中心・積水潭から海までは150km 近くもあり、通州までの50kmは高低差が37mもある。
・・・・
そして、なにより大都の最大の特徴は海と結ばれた都であったことである。市域のほぼ中央に積水潭という巨大な湖面が広がり、そこが都市内港となっていた。この都市内港は、積水潭という名が示すように、大都北方の山から人工河川で水を導き、市内のど真ん中に湖水を溜め、巨大な湖とさせ内港に仕立てた。
こうしてつくられた積水潭は、通恵河という人工の運河で大都の東方約50kmの通州と結ばれていた。大都と通州の間は約37mの高低差があったが、ここに閘門式の設備を設けてつなげた。通州から渤海湾の海港である直沽(ちょくこ)(現在の天津)までは、自然河川であった白河(はくが)を徹底的に改修して運河化した。クビライのモンゴル帝国はその他、金朝が中途で工事を放棄した運河である御河(ぎょが)を改修復活させ、南宋接収後は通州から杭州まで中国大陸を縦断する大運河も、幾度かの工事のすえに蘇らせている。クビライは海に出ようとしただけでなく、内陸の水運を開発し、海を内陸に引き込むために莫大な費用と人力を投じた。≫

http://www005.upp.so-net.ne.jp/zep/sekaisi/study/13c.html
≪『モンゴル帝国の興亡・下』(講談社現代新書)』
大都は内陸都市でありながら、積水譚(せきすいたん)という大都中央部から北西にかけて巨大な湖面を広げる都市内港を持っていた。この湖水を維持するため、はるか北方の昌平一帯から取水して、延々と大都城内へ人工の水路へ導き入れるシステムが造られた。この積水譚は運河の通恵河を通じて通州へ、通州から白河(はくが)によって海港の直沽(ちょくこ)(現在の天津)に至った。直沽からは杭州・泉州・広州などの諸都市、さらには東シナ海・南シナ海・インド洋へと至る海上ルートとも結びついていた。
 巨大な人工都市である大都からは、帝国全土へ向けて放射状に公道が整備されていた。夏の都の上都との間には、四本の幹線が敷設され、その上都には、かつてカラコルムに集まっていた内陸のジャムチ・ルートが新たに仕立て直されて、内陸交通網の起点となった。大都は内陸交通の上では上都とカラコルムをサブターミナルとし、水運システムのうえでは通州、海運システムの上では直沽をそれぞれ外港としてもつように仕組まれた。北京とその外港天津という形は、フビライが創出したのである。フビライと彼のブレーンたちは、大都を起点に人と物が壮大なスケールで動くよう、世界を改造しようとしたのである≫
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