古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

日向からの直線

2005年03月17日 19時51分42秒 | Weblog
 『天孫降臨』から『神武東征』の間は時の流れが逆転していますが、なかなか理解してもらえないとおもわれますから、先に『神武東征』に行きます。
 その前に日向からの直線について申し述べます。『神武東征』に書かれているのは、現在から考えてみれば、統一国家に向けての最初の戦争です。
 
 まず、神武天皇(神倭伊波礼毘古・カムヤマトイワレビコ)と同母兄の五瀬命は高千穂の宮で相談し、天下を治めるために東に向かおうと決め、日向から宇佐・筑紫と進みます。
 
 さて、日向から高千穂に線を引いてください。といっても、高千穂は二つあります。高千穂峰と高千穂峡の二つです。いいんです。二つに線を引いてください。
 なんと、またまた、その角度は直角・90度になります。峰と峡、こんな所にも逆の表現が用いられています。
 この二つの高千穂は本家争いをしているようですが、無駄なことです。地図から窺う限り、初めから同時に、二つの高千穂が設定されていたことになるわけですから。どちらも高千穂なので、いがみ合っても意味はありません。高千穂はどうしても、二つ存在しなければ意味を成さないのです。
 南の高千穂=高千穂の峰のことです。そこから更に線を延ばしてください。笠紗の岬(かささのみさき・野間岬のこと)に到達します。
 この高千穂の峰はニニギノミコトが高天原から降り立ったところです。「ここは韓国(からくに)に向かい、笠紗の御前(みさき)にま来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。いとよきところ。」とのたまいます。
 この韓国とは韓国岳を指し、韓国岳―高千穂の峰の直線は日向―高千穂の峰―笠紗の岬の直線に対し直角にぶつかります。高千穂の峰からは日向から朝日が昇り、笠紗の岬に夕日が沈むのでしょう。
 しかしこれらは、日向から高千穂峡に直線を引き、さらに延ばした直線の掛詞にもなっています。
 ともかくこの直線を延ばしてください。何処まで延ばせばいいのでしょうか。
 多少ぶれますが、阿蘇・大宰府・福岡・志賀島・海を越えて釜山さらにソウルまで行き着きます。
 なぜそれがわかるのでしょうか。高千穂峡から実際に韓国(朝鮮半島)に向かっているのです。高千穂の峰から韓国岳に向かったようにです。さらに出雲大社から日向、出雲大社から釜山はほとんど等距離です。日向から釜山の距離はそれより長くなっています。
 ですから、出雲大社―日向―釜山の三点を結ぶ三角形は二等辺三角形です。ところが、どうも正三角形を目指したようなのです。
 なぜなら、日向―ソウル間の直線の距離は出雲大社―日向、出雲大社―釜山間の距離の二倍になります。
 すなわち、出雲大社―日向―ソウルを結ぶ三角形は、多少ゆがむようですが、正三角形を真っ二つにした出雲大社―福井―伊勢神宮の構成した直角三角形と相似になるのです。
 ということは、釜山より南の仮想の地を設定すれば、といっても海の上になるのでしょうけれど、いくらかきれいになります。
 しかし、残念ながらあまりうまくはいかないようです。その原因は地球が丸いことにあります。
平面の地図では、大きな規模になると、距離と方位のどちらかを犠牲にしなければなりません。
地図上である地点AからBまで直線を引いてもそれが最短距離ではありません。飛行機の例でわかります。
たぶん、大和朝廷は地球の丸いことをしっていたのでしょう。聖徳太子の地球儀というのを写真でみたことがありますから。だからゆがんでいるのではないかと、楽観的に考えます。
 
 しかし、古事記の文面からは朝鮮半島を視野に入れていたのは確かです。それも釜山、ソウルを視野にいれていたはずです。
 とはいえ、次のことは希望的観測・推測です。
 伊勢神宮―平城京―出雲大社の直線と出雲大社―ソウルの直線は、地図上では一直線上にはなりませんが、空から見ると一直線になるのではないか。
 同様に、福井―出雲大社の線と出雲大社―釜山の線も空から見ると一直線上になるのではないか。なんだか、地図上では微妙な線に見えるのです。

 でも、以上の希望的観測が外れていたとしてもショックではありません。
 現在は次のことに関心があります。
日向―ソウルの直線上には重要な地点が並ぶはずです。大宰府近辺、甘木近辺、福岡もちろん何らかの意味を持つはずです。そして問題は志賀島です。そうです、あの金印が出土した島です。
日向―ソウルの直線に、出雲大社から直角になるように線をを引きます。垂線を下ろすのです。
その地点が志賀島ではないか、ということです。
 ≪南の高千穂の峰からは笠沙の岬が導かれましたが、志賀島には三笠山があるそうです。三笠山は大宰府の東北にもあり、現在は宝満山とよばれるそうです。(古田氏の系統の方が書いておられました)どちらの三笠山もこの直線に利用されているようです。≫
 私の考えでは金印は意味のあるところに意味を持って埋められていた、となるのです。
金印の「漢の倭の奴の国王」は読み方がいろいろあるようですが、私は肝心なのは‘奴国の王’だと考えます。というのは、卑弥呼の子孫の大和朝廷は奴国の流れを非常に重要視していたように見えるのです。血統的には二神の結合であるにもかかわらず、女性の血統が重要視されているように見えるのです。
 これは『神武東征』で証明できるかも知れません。
いじょう、話はまだまだ曖昧ですが、何年か後にははっきりするでしょう。
 あっ、そうそう。話が大きいついでですから、もう一つ希望を述べます。
この直線が日韓、及び中国との友好に役立ちますように。
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