古事記中巻は神武天皇の東征で始まります。
しかしこの『神武東征』の進路は、実際の進路とは逆になっています。
古事記では、『神武東征』の前半の概要は次のとおりです。
神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)(神武天皇)と同母兄の五瀬命(いつせのみこ)は日向より出発し宇佐に着き、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)で歓待され、そこから移って竺紫の岡田宮(おかだのみや・岡の水門)に一年います。またそこから上り安芸(あき)の国に七年、それから吉備(きび)の国に八年いました。
次に速吸門(はやすいのと)で案内役の槁根津日子(さをねつひこ)を従えます。そこから浪速(なみはや)の渡りを経て、青雲(あをくも)の白肩津(しらかたのつ)に船を泊めます。このとき登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)は兵をととのえて、神倭伊波礼毘古の軍を待ち受けて戦います。日下(くさか)の蓼津(たでつ)。兄の五瀬命はここで傷を負い、血沼海(ちぬのうみ)で手を洗い、紀国(きのくに)の男之水門(をのみなと)で亡くなります。
『神武東征』図をご覧になったことのある方は、それを思い浮かべてください。
しかし、普通の日本地図を見てくださればわかることです。
この『神武東征』の進路は、そのまま見れば、不可解なものです。
まずおかしいのは宇佐からの進路です。なぜ宇佐から筑紫に向かったのでしょうか。誰もが考えるように宇佐から直接瀬戸内海に向かえばいいはずです。当時の航海技術が、穏やかな瀬戸内海でも海岸沿いを進まなければならないほど未熟なものであったとしても、博多湾まで行く必要はありません。
関門海峡を通ることはないのです。それほど未熟であったならとても半島、大陸との交易は無理でしょう。
その後、ここには概要を載せませんでしたが、つぎの近畿での行動も不可解です。
神武天皇と五瀬命は難波のあたりでまともに上陸もできないで破れ、「日に向かって戦ったから失敗した。」との理由で紀伊半島を南下し大きく迂回をします。はっきりいえば、ほうほうの体で難波を後にしたのです。どの程度戦力が残っていたのかも疑問です。それが紀伊半島をぐるりと回って、現在の新宮あたりから上陸し、北に向かい、気の遠くなるほど長い吉野の山中を行軍するのです。そのうえ道がないということで、宇陀というところで大きく迂回します。そして大和まで行ってしまいます。いくら高倉下の剣があろうと、八咫(やた)烏が先導しようが無理だ、と思われます。体力がもつわけありません。遭難しない方が不思議です。
この進路は架空です。誰もがこの進路はおかしい、無理があると感じているはずです。想像の産物だ、と誰もが考えたくなるのも無理はありません。
しかし実際にあったことが基になっているのです。神武天皇のモデルになっている人は、軍事の天才でした。
この時、この天才は、義経の「ひよどり越え」の奇襲作戦、信長の「桶狭間の戦い」を思わせる大胆な、起死回生の作戦を、実行したはずです。そうとしか、考えられないのです。天才は追い詰められて、力を発揮したはずです。
しかし、この『神武東征』で示されている進路はとても軍事の天才のおこなうものではありません。この進路は変更されているのです。逆になっている所と、90度の変化をしている所があります。武力を嫌っている人たちが、事実を再構成したものですから、こんなことが平気でできたのです。
この『神武東征』は、やはり、「魏志倭人伝」のように、時代も場所も違っているいくつかの事件をごちゃ混ぜに書いてあります。『神武東征』は、少なくとも、三つの事件を一連の事件としていることが推測されます。神武天皇は軍事の天才でしたが、「記・紀」を編纂した人たちも構想力の天才だったのです。
さて、この戦争は荒唐無稽に変化して記述されたことは否めません。この戦争は、古代日本での進路を決めた重要な戦いだったはずです。残念ながら、現在からでは、というよりかなり以前からずっと現在まで、その意義をうかがい知れなくなっています。
救いは、勝手に偽造・捏造されたものではなく、規則正しく、「魏志倭人伝」の間違いどおりに変化しているはずだというところです。
初めに、最初の戦争に限定して述べます。他の二つの出来事は後に書くか、別に書きます。
続く
しかしこの『神武東征』の進路は、実際の進路とは逆になっています。
古事記では、『神武東征』の前半の概要は次のとおりです。
神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)(神武天皇)と同母兄の五瀬命(いつせのみこ)は日向より出発し宇佐に着き、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)で歓待され、そこから移って竺紫の岡田宮(おかだのみや・岡の水門)に一年います。またそこから上り安芸(あき)の国に七年、それから吉備(きび)の国に八年いました。
次に速吸門(はやすいのと)で案内役の槁根津日子(さをねつひこ)を従えます。そこから浪速(なみはや)の渡りを経て、青雲(あをくも)の白肩津(しらかたのつ)に船を泊めます。このとき登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)は兵をととのえて、神倭伊波礼毘古の軍を待ち受けて戦います。日下(くさか)の蓼津(たでつ)。兄の五瀬命はここで傷を負い、血沼海(ちぬのうみ)で手を洗い、紀国(きのくに)の男之水門(をのみなと)で亡くなります。
『神武東征』図をご覧になったことのある方は、それを思い浮かべてください。
しかし、普通の日本地図を見てくださればわかることです。
この『神武東征』の進路は、そのまま見れば、不可解なものです。
まずおかしいのは宇佐からの進路です。なぜ宇佐から筑紫に向かったのでしょうか。誰もが考えるように宇佐から直接瀬戸内海に向かえばいいはずです。当時の航海技術が、穏やかな瀬戸内海でも海岸沿いを進まなければならないほど未熟なものであったとしても、博多湾まで行く必要はありません。
関門海峡を通ることはないのです。それほど未熟であったならとても半島、大陸との交易は無理でしょう。
その後、ここには概要を載せませんでしたが、つぎの近畿での行動も不可解です。
神武天皇と五瀬命は難波のあたりでまともに上陸もできないで破れ、「日に向かって戦ったから失敗した。」との理由で紀伊半島を南下し大きく迂回をします。はっきりいえば、ほうほうの体で難波を後にしたのです。どの程度戦力が残っていたのかも疑問です。それが紀伊半島をぐるりと回って、現在の新宮あたりから上陸し、北に向かい、気の遠くなるほど長い吉野の山中を行軍するのです。そのうえ道がないということで、宇陀というところで大きく迂回します。そして大和まで行ってしまいます。いくら高倉下の剣があろうと、八咫(やた)烏が先導しようが無理だ、と思われます。体力がもつわけありません。遭難しない方が不思議です。
この進路は架空です。誰もがこの進路はおかしい、無理があると感じているはずです。想像の産物だ、と誰もが考えたくなるのも無理はありません。
しかし実際にあったことが基になっているのです。神武天皇のモデルになっている人は、軍事の天才でした。
この時、この天才は、義経の「ひよどり越え」の奇襲作戦、信長の「桶狭間の戦い」を思わせる大胆な、起死回生の作戦を、実行したはずです。そうとしか、考えられないのです。天才は追い詰められて、力を発揮したはずです。
しかし、この『神武東征』で示されている進路はとても軍事の天才のおこなうものではありません。この進路は変更されているのです。逆になっている所と、90度の変化をしている所があります。武力を嫌っている人たちが、事実を再構成したものですから、こんなことが平気でできたのです。
この『神武東征』は、やはり、「魏志倭人伝」のように、時代も場所も違っているいくつかの事件をごちゃ混ぜに書いてあります。『神武東征』は、少なくとも、三つの事件を一連の事件としていることが推測されます。神武天皇は軍事の天才でしたが、「記・紀」を編纂した人たちも構想力の天才だったのです。
さて、この戦争は荒唐無稽に変化して記述されたことは否めません。この戦争は、古代日本での進路を決めた重要な戦いだったはずです。残念ながら、現在からでは、というよりかなり以前からずっと現在まで、その意義をうかがい知れなくなっています。
救いは、勝手に偽造・捏造されたものではなく、規則正しく、「魏志倭人伝」の間違いどおりに変化しているはずだというところです。
初めに、最初の戦争に限定して述べます。他の二つの出来事は後に書くか、別に書きます。
続く
現在いわれている以上に、伊勢は神武東征に関係していると感じました。
お考えになっていることとは違うかもしれませんが、以下に書きました。よろしければお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/7612e7e3807248f5b49761044bbe0ca4
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/e5f857056d8585ab308ee77e756d263b