古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

蘇我入鹿=高市皇子(天皇)の場合

2010年02月22日 13時33分36秒 | Weblog
本日も、進歩なく決まりませんので、流して読んでください。
いずれまとまるときも来るかもしれません。(どうだかなぁ)

継体・敏達・蘇我・天武・文武・元明の年数の関係・2009年10月06日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a25560e9d7f2d238ab6314ceeed75d07

元明天皇の崩御年721年と蘇我氏一族の崩年の関係・2008年03月07日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c37e5a6dff73286a223b8da5d7912128

各天皇方の崩年と即位年と『19』年間の関係・2006年05月08日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/be91dfe16a2685eb3b880dc718f7355f

高市皇子は即位したでしょうか・2008年02月21日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/77f04f3986788de6c60e2d7c9cf084c0

高松塚古墳の被葬者を勝手に推測します・2007年02月27日(2・3もあります)
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/0102ececdd447341f1cda4d3b1e4f8b4


直さなければいけないこともありますが、良ければ、上記をとりあえず参照してください。

蘇我氏の崩年が天武系に結び付けられています。
継体崩531は蘇我馬子崩と95年差であり、蝦夷・入鹿とは114年差となっています。
そして、馬子崩626の一干支・60年後は天武崩です。
蝦夷・入鹿崩645の一干支・60年前が敏達崩です。

欽明崩571-敏達元572-敏達崩585という継続は天智崩671-天武元672-天武崩686につながります。
ですから欽明=天智、敏達=天武と考えていたわけです。
ですが、天智天皇は架空の可能性が高い。
すると、本来は欽明-敏達は天武-高市皇子(天皇)という後の歴史の関係が前の歴史に送られたものだったのではないか、となります。
天智天皇は後からこの関係の中に組み込まれたのではないかと想像しているのです。(そうすると、高市天皇の時代が消えるという効果があったのではないでしょうか。)

そうしますと、蘇我氏というものは、天皇に敵対するものとして現れているのですが、実は蘇我氏=天武天皇系ということになります。

それが可能になるのは、『魏志倭人伝』の卑弥呼の弟と卑弥弓呼は同一人物にもかかわらず、敵対して『魏志倭人伝』に登場しているからなのです。
実は敵ではないというのが味噌です。

ですが、天智天皇・中臣鎌足が乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたというのは、天智(藤原)-天武が本当に敵であると表現しているようにも見えます。
《そして、厄介なのですが、蘇我馬子は藤原不比等に比定されている部分もありました。
蘇我馬子=不比等また聖徳太子=長屋王の場合があります。
620年の蘇我馬子、聖徳太子の国記の編纂は、100年後の720年の不比等、長屋王の日本書紀編纂のことと同じです。
また592年蘇我馬子の崇峻天皇殺害は114年後(19×6)の706年不比等の文武天皇殺害に通じます。》

蘇我氏には天武系の天皇が比定されていると同時に、蘇我馬子には藤原不比等も比定できるわけです。
継体天皇という概念は、もともと天武系のもののはずです。(継体天皇の出身地は福井とされていますが、出雲のはずです。直角の間違いの利用。高向という地名が気になる)
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/867f7d919e301dafdf4faf7d7b2abab4

ところが、継体=不比等の場合もありました。(継体・筑紫・物部・文武・磐井の乱)

そこで、このたび、首なしの遺体から、入鹿=高松塚古墳の被葬者=高市皇子(天皇)の場合があるという推定ができました。
入鹿=高市皇子(天皇)という図式があったからこそ、高松塚古墳の被葬者から首が抜かれたときに、蘇我入鹿の首塚が造られたと想像するわけです。


さてそこで何かないかと年表を見ますと
643年(皇極2)蘇我入鹿は父・蝦夷の独断で大臣を譲られるとあります。
すると38年後(19×2)・681年(天武10)に草壁皇子立太子とあります。
草壁皇子=高市皇子のはずですから、681年のことは高市立太子と読みかえることができます。
643年入鹿大臣になるということと681年高市立太子とが対応しています。

ですが、これも事実でない可能性があります。
といいますのは、大津皇子が存在しているならば、このときの立太子は大津皇子のはずです。(天武崩御時にクーデターを起こしたのは大津皇子ではなく高市・持統のはずですから)

皇位をめぐるクーデターが何度も起きているはずです。
それが、年代も人物もごちゃごちゃになっていて一筋縄でいきません。
後から何重にも上書きされているせいで厄介です。
(日本の歴史の完全なる解明は無理かもしれません)

また、531年は日本の天皇・皇太子が全員亡くなったということが「百済本記」に書かれているようなことになっています。
「又聞」ですから、変ですけれども、文書ではなく、いかにもついでの噂のような書き方ですが。
《継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子【五】》冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。〈 或本云。天皇、二十八年歳次甲寅崩。而此云。二十五年歳次辛亥崩者。取百済本記為文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅営乞〓城。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子・皇子、倶崩薨。由此而言。辛亥之歳当二十五年矣。後勘校者、知之也。 〉
日本書紀巻第十七 終・・・・朝日新聞社本

 531年と645年は114年差で、いかにも645年・乙巳の変で、蘇我氏が滅亡したことが、日本天皇及太子・皇子、倶崩薨と思わせます。
 ですが、違うと思います。天皇という言葉はなかったでしょうが、似たようなことが、531年の60年後に起きていて、そのとき、史書が焼かれてしまったということがあったのではないでしょうか。(645年蝦夷は国記を焼こうとしたと書かれています)
591年ごろに、朝鮮から出雲にきていた卑弥呼とスサノヲの子孫が、継体天皇という概念を後から創りだしますが、大和に戻ってきたのではないかというのが、私の推測です。(前にもきっと書いているだろうなぁ。)
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