古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

木梨軽皇子の心中の地・軽之神社

2012年02月07日 13時17分07秒 | Weblog
軽皇子と呼ばれる方は何人かいます。
これまで何度も書いてきましたが、孝徳天皇や文武天皇も軽皇子とされていました。
思い出すと、その前に木梨軽皇子がいました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%A2%A8%E8%BB%BD%E7%9A%87%E5%AD%90
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は第19代天皇であった允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)など。
『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と情を通じ(近親相姦)、それが原因となって允恭天皇の崩御後に失脚、伊予の国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われる。(衣通姫伝説)
『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。
四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされている。

前回「軽」は「武力」を意味するのではないかと書きました。
しかし、孝徳天皇も文武天皇も武力とは縁のないような描き方をされていますが、木梨軽皇子は武力と最も遠いイメージです。軽太子(かるのみこ)とも書かれているようです。「古事記」では《木梨之輕王。木梨之輕太子。》
「古事記」では同母妹の軽大娘皇女と心中したことになっています。
〔允恭天皇〕《如此歌。即共自死。》
「日本書紀」では同母弟の穴穂皇子に襲われ臣下の家で自害したようです。
《由是太子自死于大前宿禰之家。〈 一云。流伊予国。 〉》 

この方も、その時の現代史の誰かが投影されていると考えますが、・・・。
「古事記」の心中の地とされているのが《軽之神社》のようです。
(東宮古墳はどこだかわかりませんでしたが、四国中央市と《軽之神社》とは違う場所です。)
で、どこかというと驚いたことに、出雲大社の真南といっていい位置でした。

http://angelcymeeke.web.fc2.com/hime/a_5.html
姫原丘陵へ行こう!登山道案内 山の辺の道2
軽之神社・軽太子の塚
允恭天皇の皇太子軽太子かるのみこおよび軽大郎女かるのおおいらつめの兄妹を祀る。
 『古事記』によると軽太子は同母の妹軽大郎女と許されぬ恋におち、太子は伊予の湯に流された。
姫は恋しくてたまらず追いかけて来たが、二人はついに「自ら共に死にたまひき」とある。
 『日本書紀』では、軽大郎女が先に流されたとある。
 村の人たちはニ人の霊を哀れんで神社を建て毎年4月28日に祭礼を行っている。
 軽太子と軽大郎女を祀った比翼塚がこの東の山裾にある。
松山市教育委員会
俳句の里城北コース20番

http://kazmal.ty.land.to/03sansaku/6128_haiku.html
20番:軽之神社・軽太子の塚姫池(松山市姫原)
古事記によると、允恭天皇の皇太子である軽之太子は同母妹軽太郎女と許されぬ恋に落ち、太子は伊予の国に流され、後から軽太郎女が追いかけてきてもこの地で心中したことになっている。
現在の姫原という地名は、多分ここから来ていると思われるが、また、軽太郎女は衣通郎女(ソトホリノイラツメ)、衣通姫(ソトホリヒメ)という別名があることから「衣山」という地名もひょっとしてこの地から?とも思われます。

この軽之神社、出雲大社に皇大神社(元伊勢・内宮)、道成寺をつなげます。
軽之神社
北緯33度51分58.12秒、東経132度45分48.34秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=335158.12&l=1324548.34
出雲大社
北緯35度24分06.87秒、東経132度41分06.89秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=352406.87&l=1324106.89
皇大神社(元伊勢・内宮)
北緯35度25分48.96秒、東経135度09分15.69秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=352548.96&l=1350915.69
道成寺
北緯33度54分52.09秒、東経135度10分28.42秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=335452.09&l=1351028.42





A軽之神社-出雲大社-道成寺
軽之神社→出雲大社
 Ⅰ357°36′45.84″ Ⅱ177°34′05.87″  Ⅲ170,519.026(m)
軽之神社→道成寺
 Ⅰ87°57′04.29″ Ⅱ269°17′44.84″ Ⅲ223,097.222(m)
出雲大社→道成寺
 Ⅰ125°09′31.83″  Ⅱ306°34′29.05″ Ⅲ281,578.881(m)

軽之神社での角度
 360-357°36′45.84″+87°57′04.29″=90°20′18.45″≒90.3385度
出雲大社での角度
 177°34′05.87″-125°09′31.83″=52°24′34.04″≒52.4095度
道成寺での角度
 306°34′29.05″-269°17′44.84″=37°16′44.21″≒37.2789度



B出雲大社-皇大神社(元伊勢・内宮)-道成寺
皇大神社(元伊勢・内宮)→道成寺
 Ⅰ179°21′48.10″ Ⅱ359°22′29.48″  Ⅲ168,164.569(m)
出雲大社→道成寺
 Ⅰ125°09′31.83″  Ⅱ306°34′29.05″ Ⅲ281,578.881(m)
出雲大社→皇大神社(元伊勢・内宮)
 Ⅰ88°28′50.88″  Ⅱ269°54′42.56″ Ⅲ224,269.928(m)

皇大神社(元伊勢・内宮)での角度
 269°54′42.56″-179°21′48.10″=90°32′54.46″≒90.5485度
出雲大社での角度
 125°09′31.83″-88°28′50.88″=36°40′40.95″≒36.6780度
道成寺での角度
 359°22′29.48″-306°34′29.05″=52°48′00.43″≒52.8001度



C道成寺-軽之神社-皇大神社(元伊勢・内宮)
軽之神社→道成寺
 Ⅰ87°57′04.29″ Ⅱ269°17′44.84″ Ⅲ223,097.222(m)
軽之神社→皇大神社(元伊勢・内宮)
 Ⅰ50°57′35.39″  Ⅱ232°19′09.92″ Ⅲ279,541.900(m)
皇大神社(元伊勢・内宮)→道成寺
 Ⅰ179°21′48.10″ Ⅱ359°22′29.48″  Ⅲ168,164.569(m)

道成寺での角度
 359°22′29.48″-269°17′44.84″=90°04′44.64″≒90.0791度
皇大神社(元伊勢・内宮)での角度
 232°19′09.92″-179°21′48.10″=52°57′21.82″≒52.9561度
軽之神社での角度
 87°57′04.29″-50°57′35.39″=36°59′28.90″≒36.9914度



D軽之神社-出雲大社-皇大神社(元伊勢・内宮)
軽之神社→皇大神社(元伊勢・内宮)
 Ⅰ50°57′35.39″  Ⅱ232°19′09.92″ Ⅲ279,541.900(m)
出雲大社→皇大神社(元伊勢・内宮)
 Ⅰ88°28′50.88″  Ⅱ269°54′42.56″ Ⅲ224,269.928(m)
軽之神社→出雲大社
 Ⅰ357°36′45.84″ Ⅱ177°34′05.87″  Ⅲ170,519.026(m)

出雲大社での角度
 177°34′05.87″-88°28′50.88″=89°05′14.99″≒89.0875度
軽之神社での角度
 360-357°36′45.84″+50°57′35.39″=53°20′49.55″≒53.3471度
皇大神社(元伊勢・内宮)での角度
 269°54′42.56″-232°19′09.92″=37°35′32.64″≒37.5924度



すべて辺の比が5:4:3の直角三角形に近い。
大胆に推測すると、天武天皇系の皇太子・日嗣の皇子は軽皇子と呼ばれていたのではないでしょうか。

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3 コメント

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軽はか神社あり (羽曳野市の麻)
2013-07-13 16:14:25
羽曳野市に軽はか神社あり 明治までヤマトタケル陵の北にあり
通りすがりに失礼いたします。 (かずくん)
2013-11-23 01:13:33
>東宮古墳はどこだかわかりませんでしたが

東宮古墳は、(Google地図の)四国中央市の三島・川之江インターの東にある、「東宮公園」と書かれたところにあります。
自然の独立峰…というより丘陵に近い…を利用し、その頂上に石棺があります。

ここからは明治時代に金冠の残欠、銅矛や水晶切子玉、管玉や棗玉、銅鏡などが出土しましたが、ここを「陵墓参考地」と認めさせるのと引き換えのように、それらの品々は、宮内庁に召し上げられました。
昭和50年代に一度だけ、里帰りして、市民に公開されたことがあったそうです。

東宮古墳には石棺が二つあり、一つは長さ130センチ足らずのもので、こちらが軽大娘皇女の墓だと、地元の方々は信じていらっしゃいます。

また、もともと軽皇子が流された地はここではなかったかもしれないが、潮流の関係、、また風向きの関係から、西に(つまり松山方面へ)向かった船が流されて、燧灘の東端のこの地(旧川之江市浜田町付近)に流されてくることは、十分考えられることだ…とも。

現在でもこの地では、木梨軽皇子の命日とされる9月8日に、夜通しお祭りが行われるそうです。

関係ないことだったかもしれませんが、長々と失礼いたしました。
Unknown (永岡)
2013-11-23 09:34:50
ありがとうございます。グーグルアースも再び使えそうなので調べてみます。

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