古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

阿倍比羅夫と⊿猿田彦神社-秋田湾-インチョン湾

2014年12月27日 23時46分55秒 | Weblog
前回、白村江の戦いと関連付けられなさそうだ、と書きました。
直角三角形になりそうでならないようにみえたからです。
しかし、落ち着いてやり直してみると、やっぱり
⊿猿田彦神社-秋田湾-インチョン湾は直角三角形になりそうでした。
私の考えでは、やはりこの直角三角形は白村江の戦いと結びついていることになります。



A地点は、猿田彦神社→奥穂高岳の延長線上です。


追加(12/30)




しかし、この阿倍比羅夫の蝦夷征伐658年は時期的に早すぎると感じます。
といいますのは、何度もやっていますように、崇峻天皇と蘇我馬子の対立は文武天皇と藤原不比等の対立です。
≪そして、その対立は(仲哀天皇⇔神功皇后・建内宿禰命)の朝鮮に対する方針の違いにも表れているはずです≫
文武・不比等の対立の706年当時でさえ、蝦夷を征伐できていなかったと考えます。(800年ごろの坂上田村麻呂まで待つべきではないでしょうか。)
そうしますと阿倍比羅夫の蝦夷征伐は時代と方位を違えた虚偽でしょう。
阿倍比羅夫の向かったのは白村江の戦いのはずです。
猿田彦神社→秋田湾の直線を時計まわりに90度変えたのが猿田彦神社→インチョン湾の直線です。
邪馬台国は奴国の南ではなく、時計まわりに90度変化させた東のヤマトだったからです。

ただ、そうすると変なのは、後に阿倍比羅夫も安曇比羅夫と同様に、白村江の戦いに向かった、と書かれていることです。
書く必要はなかったはずです。
おそらく、下種の勘繰りの類ですが、初めは、阿倍比羅夫は蝦夷征伐に向かったのであって、白村江に向かってはいない、唐に逆らってはいない、と表明したかったのではないでしょうか。
しかし、800年過ぎに時代の流れで、阿倍氏の 影響力が衰えて、白村江に参戦していたことを書き加えられたのかもしれません。
又は、140~150年も昔のことを気にする必要が無くなっていたのかもしれません。
または、その頃になると、白村江の戦いに向かわなかったことは、不名誉のそしりを免れなかったかもしれません。そこで、書き加えられてしまった、のではないか。

そこいらは、まだわかりませんが、阿倍比羅夫と安曇比羅夫は同一人物になると思えます。

猿田彦神社
北緯34度28分00.97秒 東経136度43分13.82秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342800.97&l=1364313.82

インチョン湾
北緯37度21分03.17秒 東経126度36分14.76秒

A地点
北緯39度59分28.83秒 東経139度41分22.08秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=395928.83&l=1394122.08

B地点
北緯39度51分36.08秒 東経139度45分25.03秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=395136.08&l=1394525.03

C地点
北緯39度40分21.65秒 東経140度07分32.00秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=394021.65&l=1400732.00

猿田彦神社→インチョン湾
 Ⅰ292°14′08.09″ Ⅱ106°17′24.97″ Ⅲ967,003.013(m)
猿田彦神社→A地点
 Ⅰ22°22′05.74″ Ⅱ204°10′00.64″ Ⅲ667,212.012(m)
猿田彦神社→B地点
 Ⅰ23°21′03.38″ Ⅱ205°11′15.16″ Ⅲ656,371.048(m)
猿田彦神社→C地点
 Ⅰ26°38′53.64″ Ⅱ208°42′11.77″ Ⅲ652,138.697(m)

インチョン湾→A地点
 Ⅰ71°31′36.83″ Ⅱ259°43′38.11″ Ⅲ1,174,661.465(m)

⊿猿田彦神社-インチョン湾-A地点
猿田彦神社での角度
 360°-292°14′08.09″+22°22′05.74″=90°07′57.65”≒90.1327度
インチョン湾での角度
  106°17′24.97″-71°31′36.83″=34°45′48.14”≒34.7634度
A地点での角度
  259°43′38.11″-204°10′00.64″=55°33′37.47”≒55.5604度

B地点で見るとすると、私がインチョン湾とした地点より東側にするか北側にすれば猿田彦神社での角度は直角になります。
またC地点にすれば、ソウルよりもかなり東側の地点にしなければなりません。
秋田湾と思える地点・八郎潟あたりとして、そこにすると猿田彦神社での角度が直角になるのはソウルになりそうです。

八郎潟の位置を
北緯39度55分35.42秒 東経139度57分53.01秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=395535.42&l=1395753.01

ソウル
北緯37度33分59.70秒 東経126度58分40.52秒

⊿猿田彦神社-ソウル-八郎潟
猿田彦神社→ソウル
 Ⅰ294°12′24.70″ Ⅱ108°28′00.56″ Ⅲ942,586.050(m)
猿田彦神社→八郎潟
 Ⅰ24°27′24.75″ Ⅱ206°25′14.69″ Ⅲ670,752.703(m)
ソウル→八郎潟
 Ⅰ72°54′56.26″ Ⅱ261°04′00.43″ Ⅲ1,157,845.589(m)

猿田彦神社での角度
 360°-294°12′24.70″+24°27′24.75″=90°15′00.05”≒90.2500度
八郎潟での角度
 261°04′00.43″-206°25′14.69″=54°38′45.77”≒54.6460度
ソウルでの角度
 108°28′00.56″-72°54′56.26″=35°33′04.30”≒35.5512度

白村江はインチョン湾に違いありません。
そして、日本側の上陸後の狙いはソウルだったのではないでしょうか。
(いくらなんでも、無理そうな気がしますが、そのくらいの奇想天外の作戦でないと百済復興はできなかったでしょう)
しかし、日本側の情報は、おそらく、筒抜けだったはずです。

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