古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

蘇我稲目の死亡の年は(569)、(570)のどちらか

2006年05月11日 00時01分47秒 | Weblog
 蘇我稲目の死亡年が『日本書紀』と『元興寺縁起』とやらで違っていました。
 前回
《欽明31年(570)蘇我稲目死去・・・(これが569年ならばいいのですが)
推古34年(626)蘇我馬子死去
皇極4年・大化元年(645)蘇我入鹿・蝦夷死去
645-626=19
626-570=56(1年足りない)
645-570=75(1年足りない)》としました。
 
ところが、【岩波文庫・日本書紀(三)p343の注12】には
『元興寺縁起には「己丑年稲目大臣薨」とある。己丑年は欽明30年にあたり、一年ずれる。』とあります。

ですから、『元興寺縁起』にのっとれば、
欽明30年(569)蘇我稲目死去です。
そして、以下の部分が『元興寺縁起』に載っているかどうかわかりませんが、書紀では
推古34年(626)蘇我馬子死去
皇極4年・大化元年(645)蘇我入鹿・蝦夷死去となっていますから、
645-626=19
626-569=57
645-569=76 となります。

これは大変な違いなのです。
そして、どちらが正しいか、間違っているかという問題でもありません。
最初の構想はどちらだったのか、ということです。
私の思い込みでは、日本書紀は何度も写本されているうちに、誤記されたのではないか、となります。
『元興寺縁起』は、そう何度も写本されるということはないはずです。
 
ただし、内容が『元興寺縁起』と「日本書紀」では違っているらしいので、確定的にはいえません。なにか、根本的な違いがあるのかもしれません。

ですが、現在残っている「日本書紀」が稲目の死亡年について「誤写」したものとした場合、書き写した人は「繰り返しの19」について知らなかったことになります。
もし「繰り返しの19」について知っていたとした場合、稲目の死亡年をずらすことにより、蘇我氏の「繰り返し」を拒否しようとしたことになります。
しかし、その場合、馬子と入鹿・蝦夷の死亡年の間の「19年間」をずらさなければなりません。
 それをしていないということは、書き写した人は「19」を知らなくて、稲目の死亡年を間違えて写した可能性が高いことになります。

では『元興寺縁起』のように「稲目の死亡年が欽明30年(569)」とした場合、いったい何を示していることになるのでしょうか。

追記・・前回の天皇方の即位年、崩年について付け加えます。

    元明即位(707)《・元正・聖武・孝謙・淳仁・》称徳即位(764)
     764-707=57
    聖武即位(724)《・孝謙・淳仁・称徳・光仁・》桓武即位(781)
     781-724=57
   蘇我氏滅亡(645)--持統天皇崩御(702)
      702-645=57
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