古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

(こおり)郡・評についての感想

2014年01月12日 14時59分07秒 | Weblog
日本書紀以外の年号について思いつき12/23
にいただいたコメントの後半部分
≪701年 郡に変わりますが、評は誰がしたものでしょうか、改元前には何があったものでしょうか。よろしければそのあたりの事情をお教えください。≫

感想ということで、ご勘弁のほど。
教えていただきたいのはこちらのほうです。
701年に国が変わるような動乱が起きていた、という説があるなんて夢にも思いませんでした。
こういうご質問があって、検索してみたところ、ずいぶん前に「評」と「郡」について論争があった、ようです。
そういうことがあったことは、そういえば、読んだことはありました。
ただ、何を論争していたのか、読んだ当時は、理解できませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95
評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位。『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降であり、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている[1]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1
古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に郡(こおり)が成立したと記すが、当時は実際には評(こおり)と書いていた。大宝律令の成立の時に郡となり・・・、

「評」は、実際は701年以前に使われていた証拠があるのにもかかわらず、日本書紀には「評」は書かれていないそうです。
ではなぜ日本書紀は「評」を使わなかったのか、ということが問題のようです。
701年に「郡」に変わったのは「評」ではまずいことがあると考えられたからでしょう。そして、日本書紀にはそれ以前から「郡」が使用されていたことになっているのも同じでしょう。
しかし、動乱があったと考えるのは無理ではないでしょうか。
私には701年には動乱を想定できません。

明治維新の時でも、ずいぶんと時間がかかっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95#cite_note-6
大政奉還の後、江戸幕府廃止が1868年1月3日王政復古、
版籍奉還、明治2年6月17日(1869年7月25日)
明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県・・・・・・
大日本帝国憲法・・1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された

日本国憲法にしろ1945年8月15日の敗戦から公布が1946年の11月3日、施行は1947年5月3日のようです。1年と10ヶ月掛かっています。
《1945年(昭和20年)8月15日にポツダム宣言を受諾し
1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、1947年(昭和22年)5月3日から施行された。》

そこで、国が変わっていたとしても、大宝律令がすぐ公布、施行といけるでしょうか。無理でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4
《大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。》
《大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。》

そんな簡単に施行できません。
以前の国が占領されて、または滅ぼされて、大宝律令が公布されたとして、官僚行政組織がすぐさま行動に移れるでしょうか。
滅ぼされた場合は、行政組織だって壊滅しているでしょうから、一からやり直しになると、すぐ公布すること自体が不可能にも思えます。

私が思いついたのは、「評(こおり)」が「朝鮮」を感じさせるものだったからではないか、ということです。
朝鮮を感じさせるものだったら、拙いことが考えられます。

一応、701年当時のアジア情勢が問題なります。
670年から676年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E3%83%BB%E6%96%B0%E7%BE%85%E6%88%A6%E4%BA%89
《唐と新羅は、同盟を結び、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。》・・・
《676年9月・・唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、朝鮮半島から撤退した。この結果、新羅が朝鮮半島の三国統一をした。新羅は、戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた[4]。》

唐は(とう、拼音:Táng、618年 - 690年,705年 - 907年)で701年ごろは滅んでいたことになって705年に復活した。
となると、
まず、唐のことを考えたのですが、唐は新羅からも退却していたのですから、それほど、気にする必要はなかったかもしれません。
(それでも、663年の白村江の戦い後、私は、唐は日本に百済の王家の後継者が存在することを許せなかったはずですから、その後遺症は残っていたと思われます。その場合は、やはり唐にも気兼ねをしたでしょう。)

そこで、新羅です。新羅は日本に百済人、特に百済王家の後継者がいることを知ったならば、恐怖を覚えるかもしれません。
新羅を攻めて百済を復活させようとするのではないかと・・、ともあれ気を付けなければならない、となります。
そうならば、日本側は、わざわざ無用の外交的緊張を創りだすことはない、と考えます。
(特に下心がある場合は特に気を付けるでしょう。普通は・・)

《評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位。》だったそうですから、朝鮮の表現が日本に導入された可能性があります。
ともかく唐にも新羅にも気を使うには「評(こおり)」を使用しない方がいい、と考えたに違いありません。

〈評(こおり) 朝鮮〉で検索しますと
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/35904671.html
NEW 倭国にしかれた評(こおり)制は、韓半島の行政区域
「評(こおり)」は、「邑・村などを表す語と同義=朝鮮語のコオル[K∧-∧L←K∧-∧Li ]で同義語である。*1)なんと、中世までしか確実なことがいえない朝鮮語でも、はっきりとその語源を確かめることができる。
ウィキペディア
〈なお、中国正史には、高句麗に「内評・外評」(『北史』・『隋書』)、新羅に「琢評」(『梁書』)という地方行政組織があったことが記されており、『日本書紀』継体天皇24年(530年)条にも任那に「背評(せこおり)」という地名が登場することから、本居宣長や白鳥庫吉は、「評」という字や「こほり(こおり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するという説を唱えていた。これに対して金沢庄三郎は「大きな村」という意味の古代日本語という説を唱えている。〉

で、郡(こおり)はどうかといいますと、
http://kotobank.jp/word/%E9%83%A1
ぐん【郡】 [古代]
 律令国家の地方行政組織の一つで,国の下におかれた。〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に評(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。

「郡」という表現は中国発祥のもののようです。
しかし、読みは「郡(こおり)」でも「評(こおり)」でも同じです。
戸籍は作られていたでしょうが、まさか戸籍謄本とか戸籍抄本や住民票を発行するわけではないでしょう。
すると、一般住民には(~郡の~村の住民)だろうと、(~評の~村の住民)だろうと、同じ(~こおりの住民)で何の変化もありません。
役人だけが知っていればいいことになります。(役人でも全員が知っている必要はありません)
中国の「郡」に、従来の「こおり」という読みを当てて導入しただけで、これだけでは根本的な変更とはいえません。

701年当時日本の政治情勢はむしろ安定していたと考えています。
安定していたからこそ、新しい律令を公布できて、さらに安定させるための改革を目指した、といえるでしょう。
ただ、その改革は中央集権化で、初めの方向では問題ないにしろ、不比等はそれを「百済復興」にも役立てたいと考えたことでしょう。
701年当時は軽皇子(文武天皇)はまだ政治を担える年齢に達していません。(18,9歳ぐらいかな)
不比等は文武天皇のためとなる改革のつもりでいたのですが、文武天皇は徐々に不比等に対する反感(政治だけでなく他のことでも)を募らせていったと考えています。文武天皇は不比等を排除しようと画策するも、それは不比等に漏れてしまいます。そして706年に激突したはずです。
そこで、問題にしたいのが、
大化の改新・孝徳天皇の時の「改新の詔」というより、以前からやっている『孝徳天皇』自体です。
・・・・・・・・
1/13 0:32追記
すみません。大宝律令の公布はこうでした。正確かどうかはともかく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4
《700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。》

701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成
同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。
翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日
大宝律令を諸国に頒布した。》

これだと、動乱期をまたいでもできないこともないのではないかとも思えますが、安定期でもこのくらいの時間はかかるでしょう。
証明といっても難しいでしょう。
ただ、高市皇子(天皇)崩御の時に混乱があったでしょうが、それを乗り越えれば705,706年までは動乱を招くような混乱は考えられないのですが、・・・。
まぁ、文武天皇と藤原不比等の確執が理解されないと無理ですか。

・・・・・・・・・・

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5 コメント

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Unknown (いしやま)
2014-01-22 16:28:59
木簡が出なければ、天智が大化の改新で中央集権制を実施したとなっていたわけですが、明治以前には大化など何の評価も受けていなかったのです、明治以後です天皇制とともに。評制とは地方分権制度で、郡制 中央から国司を各地に派遣してそのもとに軍事支配する。各地の白鳳寺院は破棄されて、国分寺が成立するようになる。相当な大変革で、地方勢力が素直にうんというようなものではないと思うのですが。天智の業績はなくなり、下剋上の山部の正当性は失われてしまう ではないかと。
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Unknown (永岡)
2014-01-23 01:35:04
申し訳ありません。私は天智天皇は実在しなかったと考えております。
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Unknown (永岡)
2014-01-28 11:32:24
『評制』とは地方分権制度で『郡制』は中央集権制と読めますが、本当でしょうか。701年大宝律令施行まで地方分権だとすると、663年の『白村江の戦い』に日本側はどうやって戦闘態勢に入れたのでしょうか。
返信する
天智は不在 (いしやま)
2014-01-30 21:03:53
天智は白壁-山部 新政権の血筋正当化のため百川以後の藤原氏が創作したものと思います。その実績として大化を大宝から内容を移し替えて、701前後の変革をできるだけ薄めて低く見せていると思います。持統ももちろん創作、この辺りは全く違うものにしているのだろうとおもうのです。その形はどうなるのでしょうか。
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Unknown (永岡)
2014-02-01 12:30:57
以前から何度も書いていますが、
天智天皇は『白村江の戦い』の責任をすべて押しつけるために創られたスケープゴートと考えています。豪族たちと時の王権の地位にあったであろう天武天皇は予想される唐の責任追及を避けるために天智天皇を創りだしました。
また、天智天皇の実在しない理由はそのありえない天武との姻戚関係から推測できます。
ただし、これだけでは藤原氏が天智天皇を不比等の父かのようにみせかける動機としては不十分でしょう。
「天智」は極めて縁起の悪い名前というのは井沢元彦氏の説です。
それは正しいと思われます。
問題は、もう一段階あったようです。
いただいたコメントでひらめいたのは、
藤原氏は豊璋を見放した、天武と豪族たちが創りだした虚構・フィクションを逆手に取ったのではないか、ということです(少し舌足らずでしょうが)
しかし、701年に動乱があったとは思えません。
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