△生駒山-物部守屋墳-長屋王邸跡・東院庭園
△生駒山-聖徳太子御廟所-石上神宮
聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)の滅亡事件は、長屋王の事件と従来から似ているとされているそうです。
長屋王も聖徳太子のモデルの一人だと考えますから、似ていても不思議はありません。







以前に考えたことはありました。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6b453c397a92746d73b9894bf0026346
長屋王と山背大兄皇子の同一性・再考
さて山背大兄王は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
《皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。》
《結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる[注釈 1]。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。》
長屋王事件で生駒山は
《王が自殺した翌日、使者を派遣して長屋王および吉備内親王の屍体を生馬山に葬った。》
生馬山は生駒山だそうです。
長屋王御陵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B%E5%BE%A1%E9%99%B5
《「続日本紀」には、夫妻が生駒山に葬られたとあるが、近世資料に平群梨本の「長墓」「宇司墓」と呼ばれる二つの塚が夫妻の墓との伝承がみえ、明治末年頃、宮内庁により現在のように整備されている。》
△生駒山-聖徳太子御廟所-石上神宮
△生駒山-物部守屋墳-長屋王邸跡・東院庭園・(法華寺・海龍王寺)
確かに、生駒山は特殊な位置に見えます。
生駒山を頂点とした二等辺三角形が二つできています。
あと、以前にも考えたようなのですが、聖徳太子が物部守屋を倒したというのは、実は話が逆になっていそうです。
長屋王の祟りを藤原氏は受けたと思われたのでしょうが、
「長屋王の変」とされる事件は、長屋天皇に対するクーデターだったのでしょうが、
藤原氏だけではなく、物部氏も絡んでいたのではないか。
その後の天然痘の流行は、長屋天皇の祟りと考えられ、藤原四兄弟は亡くなりますが、実は物部氏の方が被害は大きかったのでないでしょうか。
そのために、物部氏は藤原氏に頼み込んで、守屋の時代に、滅んだことにしたのではないでしょうか?
物部氏は長屋王に逆らわなかった、と。
依然としてまとまりませんが。
ブログの引っ越しなんかできるでしょうか。
やれても続けられるでしょうか。
△生駒山-聖徳太子御廟所-石上神宮
聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)の滅亡事件は、長屋王の事件と従来から似ているとされているそうです。
長屋王も聖徳太子のモデルの一人だと考えますから、似ていても不思議はありません。







以前に考えたことはありました。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6b453c397a92746d73b9894bf0026346
長屋王と山背大兄皇子の同一性・再考
さて山背大兄王は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
《皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。》
《結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる[注釈 1]。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。》
長屋王事件で生駒山は
《王が自殺した翌日、使者を派遣して長屋王および吉備内親王の屍体を生馬山に葬った。》
生馬山は生駒山だそうです。
長屋王御陵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B%E5%BE%A1%E9%99%B5
《「続日本紀」には、夫妻が生駒山に葬られたとあるが、近世資料に平群梨本の「長墓」「宇司墓」と呼ばれる二つの塚が夫妻の墓との伝承がみえ、明治末年頃、宮内庁により現在のように整備されている。》
△生駒山-聖徳太子御廟所-石上神宮
△生駒山-物部守屋墳-長屋王邸跡・東院庭園・(法華寺・海龍王寺)
確かに、生駒山は特殊な位置に見えます。
生駒山を頂点とした二等辺三角形が二つできています。
あと、以前にも考えたようなのですが、聖徳太子が物部守屋を倒したというのは、実は話が逆になっていそうです。
長屋王の祟りを藤原氏は受けたと思われたのでしょうが、
「長屋王の変」とされる事件は、長屋天皇に対するクーデターだったのでしょうが、
藤原氏だけではなく、物部氏も絡んでいたのではないか。
その後の天然痘の流行は、長屋天皇の祟りと考えられ、藤原四兄弟は亡くなりますが、実は物部氏の方が被害は大きかったのでないでしょうか。
そのために、物部氏は藤原氏に頼み込んで、守屋の時代に、滅んだことにしたのではないでしょうか?
物部氏は長屋王に逆らわなかった、と。
依然としてまとまりませんが。
ブログの引っ越しなんかできるでしょうか。
やれても続けられるでしょうか。