だからどうなんだ、が続きます。すみません。

何度もやっていますが、⊿天智天皇陵-恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡は正三角形です。
その中心に何があるかもしれない、ということで探してみました。
すると「大石龍門」という意味ありげな地名が現われました。
(次回考えます)
その前に、この正三角形の三辺を底辺とする二等辺三角形をつくります。
天智天皇陵-紫香楽宮跡、
天智天皇陵-恭仁京大極殿址、
紫香楽宮跡-恭仁京大極殿址を底辺とする二等辺三角形
△天智天皇陵-紫香楽宮跡-聖武天皇陵はすでにやっています。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f8c7d1e5c204f77b45894173ac7913a5
□天智天皇陵-継体天皇陵-恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡
2022年10月11日
また、同様に、恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡を底辺として上賀茂神社を頂点とする二等辺三角形もできます。
ならば、恭仁京大極殿址-天智天皇陵を底辺とする二等辺三角形も紫香楽宮跡の先にあるはずです。そこは聖武天皇と関わりがなければなりません。
さて、その前に,上賀茂神社も聖武天皇と何らかの関わりがなければなりません。
検索すると
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4996254.html
(1)上賀茂神社は、天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒の祈願が行われ、病が回復したことから、皇室との関係が深まりました。
その後、天平勝宝2年(750)には、孝謙天皇より御戸代田(みとしろだ)1町が寄進をされ、ますます、皇室との関係は深まりました。
御戸代田とは・・・神社が直接支配をして、その田から採れる米を神様にお供えをする。いわば、神社が直接管理する田のことです。「社領」とも言われます。
天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒の祈願が上賀茂神社で行われたとあります。
「続日本紀」のその部分を見たところ 天平17年(745)9月19日
天皇は依然として病気であるので・・・・・
《賀茂・松尾などの神社に祈禱をさせ・・・》とありました。





△恭仁京大極殿址-天智天皇陵-矢川神社
恭仁京大極殿址→天智天皇陵
①348°55′15.54″ ②168°53′21.97″ ③26,206.863(m)
恭仁京大極殿址→矢川神社
①55°35′10.00″ ②235°45′29.26″ ③33,336.333(m)
天智天皇陵→矢川神社
①101°54′13.28″ ②282°06′28.15″ ③33,256.572(m)
矢川神社での角度
282°06′28.15″-235°45′29.26″=46°20′58.89″≒46.3497度
恭仁京大極殿址での角度
360°-348°55′15.54″+55°35′10.00″=66°39′54.46″≒66.6651度
天智天皇陵での角度
168°53′21.97″-101°54′13.28″=66°59′08.69″≒66.9857度
やはり、頂角45度、底角67.5度の二等辺三角形を狙ったものでしょう。
矢川神社 ウィキペディア
社伝では、創建は天平年間、聖武天皇の紫香楽宮造営のときと伝える。平安時代の延喜式神名帳では近江国甲賀郡8座の筆頭に記載され、小社に列している。
△上賀茂神社-恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡
上賀茂神社→恭仁京大極殿址
①162°53′03.93″ ②342°56′49.64″ ③34,076.891(m)
上賀茂神社→紫香楽宮跡
①117°19′56.02″ ②297°31′17.55″ ③33,960.026(m)
恭仁京大極殿址→紫香楽宮跡
①49°56′12.91″ ②230°03′46.63″ ③26,339.314(m)
上賀茂神社での角度
162°53′03.93″-117°19′56.02″=45°33′07.91″≒45.5522度
恭仁京大極殿址での角度
360°-342°56′49.64″+49°56′12.91″=66°59′23.27″≒66.9898度
紫香楽宮跡での角度
297°31′17.55″-230°03′46.63″=67°27′30.92″≒67.4586度
やはり頂角45度、底角67.5度の二等辺三角形でしょう。
聖武天皇陵
北緯34度41分36.93秒 東経135度49分46.78秒
34°41′36.93″N 135°49′46.78″E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.693592/135.829661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
上賀茂神社
35°03′33.40″N 135°45′09.32″E
北緯35度03分33.40秒 東経135度45分09.32秒
https://maps.gsi.go.jp/#15/35.059278/135.752589/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
紫香楽宮跡
北緯34度55分05.80秒 東経136度04分57.86秒
34°55'5.80"N 136°04'57.86"E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.918670/136.082560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
恭仁京大極殿址
北緯34度45分56.39秒 東経135度51分43.69秒
34°45′56.39″N 135°51′43.69″E
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.765818/135.862041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
矢川神社
北緯34度56分06.44秒 東経136度09分47.38秒
34°56'6.44"N 136° 9'47.38"E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.935122/136.163161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
天智天皇陵
北緯34度59分50.92秒 東経135度48分25.10秒
34°59′50.92″N 135°48′25.10″E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.997489/135.807214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

何度もやっていますが、⊿天智天皇陵-恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡は正三角形です。
その中心に何があるかもしれない、ということで探してみました。
すると「大石龍門」という意味ありげな地名が現われました。
(次回考えます)
その前に、この正三角形の三辺を底辺とする二等辺三角形をつくります。
天智天皇陵-紫香楽宮跡、
天智天皇陵-恭仁京大極殿址、
紫香楽宮跡-恭仁京大極殿址を底辺とする二等辺三角形
△天智天皇陵-紫香楽宮跡-聖武天皇陵はすでにやっています。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f8c7d1e5c204f77b45894173ac7913a5
□天智天皇陵-継体天皇陵-恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡
2022年10月11日
また、同様に、恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡を底辺として上賀茂神社を頂点とする二等辺三角形もできます。
ならば、恭仁京大極殿址-天智天皇陵を底辺とする二等辺三角形も紫香楽宮跡の先にあるはずです。そこは聖武天皇と関わりがなければなりません。
さて、その前に,上賀茂神社も聖武天皇と何らかの関わりがなければなりません。
検索すると
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4996254.html
(1)上賀茂神社は、天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒の祈願が行われ、病が回復したことから、皇室との関係が深まりました。
その後、天平勝宝2年(750)には、孝謙天皇より御戸代田(みとしろだ)1町が寄進をされ、ますます、皇室との関係は深まりました。
御戸代田とは・・・神社が直接支配をして、その田から採れる米を神様にお供えをする。いわば、神社が直接管理する田のことです。「社領」とも言われます。
天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒の祈願が上賀茂神社で行われたとあります。
「続日本紀」のその部分を見たところ 天平17年(745)9月19日
天皇は依然として病気であるので・・・・・
《賀茂・松尾などの神社に祈禱をさせ・・・》とありました。





△恭仁京大極殿址-天智天皇陵-矢川神社
恭仁京大極殿址→天智天皇陵
①348°55′15.54″ ②168°53′21.97″ ③26,206.863(m)
恭仁京大極殿址→矢川神社
①55°35′10.00″ ②235°45′29.26″ ③33,336.333(m)
天智天皇陵→矢川神社
①101°54′13.28″ ②282°06′28.15″ ③33,256.572(m)
矢川神社での角度
282°06′28.15″-235°45′29.26″=46°20′58.89″≒46.3497度
恭仁京大極殿址での角度
360°-348°55′15.54″+55°35′10.00″=66°39′54.46″≒66.6651度
天智天皇陵での角度
168°53′21.97″-101°54′13.28″=66°59′08.69″≒66.9857度
やはり、頂角45度、底角67.5度の二等辺三角形を狙ったものでしょう。
矢川神社 ウィキペディア
社伝では、創建は天平年間、聖武天皇の紫香楽宮造営のときと伝える。平安時代の延喜式神名帳では近江国甲賀郡8座の筆頭に記載され、小社に列している。
△上賀茂神社-恭仁京大極殿址-紫香楽宮跡
上賀茂神社→恭仁京大極殿址
①162°53′03.93″ ②342°56′49.64″ ③34,076.891(m)
上賀茂神社→紫香楽宮跡
①117°19′56.02″ ②297°31′17.55″ ③33,960.026(m)
恭仁京大極殿址→紫香楽宮跡
①49°56′12.91″ ②230°03′46.63″ ③26,339.314(m)
上賀茂神社での角度
162°53′03.93″-117°19′56.02″=45°33′07.91″≒45.5522度
恭仁京大極殿址での角度
360°-342°56′49.64″+49°56′12.91″=66°59′23.27″≒66.9898度
紫香楽宮跡での角度
297°31′17.55″-230°03′46.63″=67°27′30.92″≒67.4586度
やはり頂角45度、底角67.5度の二等辺三角形でしょう。
聖武天皇陵
北緯34度41分36.93秒 東経135度49分46.78秒
34°41′36.93″N 135°49′46.78″E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.693592/135.829661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
上賀茂神社
35°03′33.40″N 135°45′09.32″E
北緯35度03分33.40秒 東経135度45分09.32秒
https://maps.gsi.go.jp/#15/35.059278/135.752589/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
紫香楽宮跡
北緯34度55分05.80秒 東経136度04分57.86秒
34°55'5.80"N 136°04'57.86"E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.918670/136.082560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
恭仁京大極殿址
北緯34度45分56.39秒 東経135度51分43.69秒
34°45′56.39″N 135°51′43.69″E
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.765818/135.862041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
矢川神社
北緯34度56分06.44秒 東経136度09分47.38秒
34°56'6.44"N 136° 9'47.38"E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.935122/136.163161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
天智天皇陵
北緯34度59分50.92秒 東経135度48分25.10秒
34°59′50.92″N 135°48′25.10″E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.997489/135.807214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1