古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

262年の既殿至と沙至比跪について、たぶん、無理な想像

2013年04月06日 23時58分36秒 | Weblog
262年・562年(560年)・660~663年の関係については、以前にも、やっています。
で、このたび韓国ドラマ《ケベク(階伯)》をみながら、以前視聴した《ソドンヨ》を思い出しながら、とんでもない連想をしました。

「推古朝こそ原帝紀成立期」池田定道p13近代文藝社
《神功62年(262)にも『百済記』を引用して、加羅が滅亡し、いったん百済に亡命した加羅王族が来日するが、その時、加羅王妹の既殿至(こでんち)が、沙至比跪(さちひく)を、新羅の美女を納れて裏切ったので加羅が亡びたと激しく非難して天皇に訴えたという記事がある。
ところが、この既殿至という名は、継体七年十一月条に出てくる「伴跛既殿奚」(はへこでんけい)や欽明二年四月、同五年十一月条の「加羅上首位古殿奚」と実によく似ているではないか。・・・・》

262年にも加羅が亡びていますが、その300年後の562年にも任那(加羅)が亡びています。
池田氏はこれを
「やはり、これは、欽明23年壬午の加羅滅亡事件が、干支五運繰り上げられて、神功62年壬午の加羅滅亡事件に架上されたとみる方が、合理的な見方といえるのではなかろうか」p23
と、されています。
262年と562年に同じことが起きていることになっているが、本当に起きたのは562年で、262年に起きたとされているのは562年をコピーしたものだ、というのが池田氏の考えでしょう。
私は、そうではなく、何度も言うように、262年のことも562年のことも660年百済滅亡とその後に関連しているのではないか、と考えています。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/09edc54419a2ab7c24a2fd019e1351f4
百済と任那の混同の意味2010年05月22日

ここでやったように、書紀には562年の他に560年という説も書かれています。
百済滅亡のちょうど100年前にもなるように細工されているわけです。

262+399=661年、(399=19×21)
または262+400=662年
562+100=662年
660~662年あたりのことが262年、562年に架上されているとみるべきです。

ただし、こう考えるには、加羅も任那も百済も混同されていることを認めなければなりません。
『魏志倭人伝』が東西の、北九州の「奴国」と近畿の「邪馬臺国」とを混同したのと同じ間違いを故意に犯しています。
「日本書紀」に引用される「百済記」は「日本に亡命してきた百済王族が記述したもののはずで、『魏志倭人伝』の間違いを重要視しているということは、亡命してきた百済王族は卑弥呼臺与(トヨ)の子孫であることを、もしくは卑弥呼臺与(トヨ)の子孫であるように見せかける必要から記述されたと考えられます。
というようなことは以前からの流れのままです。

で、今回付け加えるのは、加羅王妹の「既殿至」と葛城襲津彦の百済記の表記である「沙至比跪」についてです。
まず「沙至比跪」についてです。
新羅が朝貢しなかったために新羅を撃てと「葛城襲津彦」が派遣されます。
そして、「日本書紀」では、ここから「百済記」を引用しています。
「沙至比跪は新羅の美女二人を受け入れて、新羅ではなく加羅を亡ぼした。
加羅王族は百済に亡命した。百済は厚遇した。」

「沙至比跪」が「葛城襲津彦」ならば日本人になるのでしょう。
ですが、新羅の美女を受け入れた、ということからとんでもないことを思いつきました。
かつて、「ソドンヨ」という韓国時代劇を見ましたし、現在は「ケベク」(階伯)を視聴しています。
最後から二番目の百済王(武王・ソドン)は新羅の王女(ソンファ・善花)を迎え入れたようですし、最後の百済王義慈(ウィジャ)はソンファの子です。
百済のお家騒動はその新羅の血が混じっていることで起きた部分もあるようです。
ソンファは百済貴族テチャピョンの娘でもう一人の武王の妃のサテクに殺されたようです。サテクは王妃になります。(「ソドンヨ」ではわかりませんでした)
百済貴族の反発からソンファは殺され、息子のウィジャは無能を装い生き延びます。しかし、終には王になるようです。(今、4/5放映段階では、サテク王妃一族を破り、太子になったところです)
で、我ながら、ここからがぶっ飛びなんですが、「沙至比跪」は「サテク」ではないでしょうか。
「比跪」は「彦」のようで、日本の男にみえますが、「沙・至比・跪」となると「サテク」に見えないでしょうか。
(男女入れ替わりますが、『魏志倭人伝』に同じ間違いがあるはずです。持衰がそうだと考えていました。)
で、加羅王の妹の「既殿至」ですがこの「至」は敬称のようです。

「推古朝こそ原帝紀成立期」p13先ほどの引用の続き
《「至」は「遅」や「智」と同じ朝鮮語の敬称と考えられ、「奚」も人に付ける場合は「解」と同じく敬称とされるのであって、この敬称語尾を除いた「既(古)殿」という名は完全に“合同”である。

で、「既殿」「コデン」となるのですが「ソドン」と読めないでしょうか。
まぁ、無理といえば無理ですが、「ソドン」だとすると、最後から二番目の百済王・武王になってしまいます。これも男女変わっていることになります。

http://www.j-texts.com/jodai/shoki9.html
神功皇后
《神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)二月》六十二年。新羅不朝。即年遣襲津彦撃新羅。〈 百済記云。壬午年。新羅不奉貴国。貴国遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人。迎誘於津。沙至比跪受其美女。反伐加羅国。

神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)の(庚午二五〇)は(壬午二六二)の間違いと思われます。
その前の行が
《神功皇后摂政五六年(丙子二五六)》五十六年。百済王子貴須立為王。》ですから
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