古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

琵琶湖・淀川の関所とシルクロード

2007年11月06日 13時01分44秒 | Weblog
今回も思いつきと引用だけで進めます。すみません。

北京と天津は、通恵河という運河と運河化された川とで結ばれていました。
ところで、淀川の河口にも、天満橋と天神橋があり、水運だけでなく陸上での交通でも重要な拠点だったようです。
http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/oosakaindex/yodogawarekishi/yodogawa.htm
≪淀川水系の歴史 ・水の都と八百八橋のルーツを探る!・・・古代から現代
交通の要衝・渡辺津の発展・・・熊野詣も!
旧淀川の天満橋から天神橋辺りは、10世紀の末頃から渡辺津と呼ばれた。淀川の河口に位置する渡辺津は、早くから瀬戸内海交通の要港であったが、特に延暦24年(805)に摂津の国府が設置されると人の往来や船舶の出入りが盛んになった。平安中期になると熊野・高野山をはじめとして天王寺・住吉大社などの参詣が盛んになると交通の重要な拠点の一つになった。・・・≫

天神橋(大阪)
北緯34度41分29秒,東経135度30分42秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344129&l=1353042
そういうこともあり、前々回では、天津と天神を結びつけたわけです。

北京(内陸)-天津=平安京(内陸)-天神

ところで、一般的に想像されている以上に、平安京は交通の便が良かったようです。
平安京は、日本海からは琵琶湖を通して、また瀬戸内海からは淀川を通じ、また内陸の交通の要衝でもあったようです。
我々には四神相応の風水都市のイメージが大きいために結構意外でした。

http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/story/story_15_1_2

「山田先生の平安京ゼミ」
ところで、どうして、京都が新しい都の場所に選ばれたのでしょう。
「京都は、交通の要衝なんです。東へは東海道や東山道、北へは北陸道、西へは山陰道や山陽道と、主要な道が全部通っていますしね」
交通の便がいいというのは、都が発展する第一条件ですね。人も物資も集まりやすいですしね。
「そしてね、京都は内陸都市でありながら、水上交通の上でも便利な土地なんですよ。淀川、宇治川、桂川を使うことによって大阪湾と直結できるんです。それに対して、大阪湾から平城京へ行くには、淀川を遡って木津川に入り、いまの木津町あたりに上陸して、山を越えなければならなくて、不便だったんですよ」

ところが、自然条件以外で交通の大きな阻害要因があったようです。
これが今回の問題です。
http://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/kouen-h15.html

第3回世界水フォ-ラム開会式における・皇太子殿下記念講演
京都と地方を結ぶ水の道-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-
≪琵琶湖では,多くの関所が延暦寺の造営費を捻出する目的で作られた≫、
≪淀川では,京都に住む公家や奈良の寺社により,15世紀末には400近い関所が設けられていた≫
≪こういった関所の濫設は,当時の交通の大きな阻害要因となっていました。こういう動きに対して,時の政治権力を握っていた幕府は,関所の数を減らそうと努力をしましたし,また輸送業者の中には,関所に対して破壊行為を行うものもありました。しかし,関所が全て撤廃されるのには,16世紀末の豊臣秀吉の出現を待たなければなりませんでした。≫

(引用は極めて不十分ですがご容赦ください。他の部分も‘へぇ~’です。)

 もしかすると、と考えたのは、これを読んだ直後、チンギス・ハーンは「全世界で自由市場、いわば‘楽市楽座’を実行した」(p71・堺屋太一が説く、チンギス・ハンの世界)という文章を目にしたからです。
「モンゴルの支配によって全シルクロードは初めて安全になり、物財が東西を流通するようになる。
 よく知られるように、東西貿易は中国からまず絹が、続いて陶磁器が、そしてお茶が輸出された。逆に、中国が輸入したのは金属である。ヨーロッパの銀や中東の銅を、主に貨幣金属として輸入していたようだ。
 『商業指南』という本がある。そこにはモンゴルがその通商の経路を自由通行にして一切関税をかけなかった、とある。ただ、税関担当の役人に小額の紙幣、つまりワイロを渡せばよかった。ワイロは必ず税金より安いので、結局非常に安くシルクロードを通行できたわけだ。こうして商業が急激に、またグローバルに発展した。」

 淀川の関所の多い状況は15世紀末のことで、源義経は1189年衣川で死んだことになっていますから、義経が見聞した京都は12世紀の中期以降となります。
 しかし、たぶん義経の時代にも琵琶湖・淀川の関所は多かったことでしょう。
 そして、人々の関所・関税に対する不平不満を聞いていたことでしょう。
 有名な「金売り吉次」は商人(情報屋でもあるそう)ですから、義経もそこいら辺の事情はよく知っていたと思われます。
 チンギス・ハーン=源義経と考えていますから、チンギス・ハーンがシルクロードで関税をかけなかったのは、そのためではないでしょうか。
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