小さな自然、その他いろいろ

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二、グルリ一遍(いっぺん) 「二宮金次郎」

2012年10月20日 02時04分37秒 | 歴史
サイタニのブログから、二宮金次郎の二回目を転載します。

ここ最近、gooブログにアクセスしようとしても、接続がリセットする状態がずっと続いていましたが、やっと投稿できそうです。

二 宮金次郎の伝記は子供の頃読んだ記憶はありますが、こうして読むと、ほとんど忘れていて、改めて金次郎さんという人が、日本人の努力型の偉人の原型のよう な人だと言う気がします。奉仕精神と、不屈のポジティブ思考、楽天的な考え方と創意工夫の達人、こうした考え方を子供の頃から身に着けていたというところ が驚きです。


こ こまで読んだだけでも、金次郎さんは心の持ち方の天才のような人で、このようなやり方をすれば私たちも金次郎さんという人に近づけるような気がします。幸せという のは、サイタニさんの仰るように、自分の中に幸福感をいかに抱けるかという問題ですから、金次郎さんの生き方というのは、幸福になるにはどうすればいいかという 見本なのかも知れません。幸福とは、なにも楽をすることではなく、自分が物事や、自分自身にいかに満足できたかということですからね。







金次郎のわらじ 
 
つづき
 
利右門(りえもん)は酒のつぼを押しいただきました。ちびりちびりと、久しぶりの酒を大事に味わって飲みました。
ぽっと赤味がさして生気(せいき)がでてきた父をかこんで、母も金次郎も友吉(ともきち)もにこにこと嬉しくなりました。
でも、貧しい生活はそれからも続き、身も心もすりへらして働いた利右衛門は、病気がちになり寝てすごす日が多くなりました。
 
村では、酒匂川の大水を防ぐための堤防づくりが始まりました。一軒から一人ずつ男がでて、土をもりあげたり石を積んだりするのです。洪水の恐ろしさは骨身にしみているので皆真剣です。父が病気なので、二宮家では十二歳の金次郎がでることになりました。
 
もっこで砂利を運んだり、石を持ちあげたり、大人たちに混じって金次郎はせいいっぱい働きました。
「金坊、よくやるね」
「とうさんの具合はどうだい」
と、村の人たちはあたたかい声をかけてくれます。
 
しかし金次郎は、自分が大人たちのように仕事ができないのを、申しわけなく思いました。
『何かおれにできることで皆さんの役に立つことはないだろうか』
そう思いをめぐらせながら働いていると、村人たちのわらじの鼻緒がはげしい重労働のためよく切れることに気づきました。
「そうだ」
にっこりとした金次郎は、村の人たちが帰ったあと、あちこちに捨ててある鼻緒の切れたわらじを拾い集めました。
そしてそれを家にもって帰ると、夜おそくまでせっせと鼻緒をすげかえます。あたらしいわらじも何足かつくりました。
 
翌朝、村人たちは、仕事場にていねいに繕(つくろ)ってあるわらじと新しいわらじが木の枝にかけてあったり、そこここに置いてあるのに気づきました。
はげしい土運びに鼻緒が切れた村人たちは、「ほう、これは助かるな。使わせてもらおう」
「うん。繕ったわらじが落ちてるなんて不思議だなあ」
と言いながら、わらじをはきかえて働くのでした。
 
次の日も、その次の日も繕ったわらじや新品のわらじは置いていてありました。
誰いうともなく、それは金次郎少年のしたことと知れて、村の人たちは深く心を打たれたということです。
 
 
 
※ 「働く」とは、はたを、楽(らく)にすることです。
   幸福になる法則があります。「与えよさらば与えられん」
   洗面器の水を両手で押すと水は手前に戻ってきますが、水を手前に
   両手で戻すと、水は逃げていきます。これと同じで、多くの人に
   親切を与えると多くの人から親切がかえってきますが、奪うと
   奪われます。
 
 
 
二 金次郎のニックネーム
 
金次郎は幼いときから良いと思ったことは進んでやりましたし、百姓の子供ながら学問がすきで、学ぶための時問をうみだす工夫もこらしました。他の子供たちと違ってみえたことも多々あったでしょう。ユニークなニックネームがつけられました。
 
 
一、ドテ坊主
ド テとは土手のことです。堤、または堤防ともいいます。酒匂川(さかわがわ)は、たびたび洪水をおこしては堤防を破りました。父利右衛門が田畑を全部流され たのも、洪水で堤防が切れたためです。村の人たちはいつも、どうやって堤防を守るかという話をしていました。金次郎も実際にひどい目にあいましたし、堤防 に行っては、
「うーん、どうしたら洪水がふせげるだろ」と考えるのでした。幼いころから堤防を遊場のようにしていましたので、小さなくずれはなおしたりします。堤防にはいつも金次郎の姿がみられ、人々は彼のことを「土手坊主」と呼ぶようになりました。
 
堤防を調べに役人がきますと、金次郎はその役人にぴったりついてまわります。
「そこをそうしては水あたりがつよいよ」
「ここをもっとなおしたほうがいいよ」
と口だししてまわりの人々をはらはらさせました。
 
また、こんなこともありました。十三歳の頃のことです。
金次郎はとなり村の農家で十日間ほど子守をして働いて、袷(あわせ)一枚と銭二百文をもらってわが家に帰るところでした。前方の枯れ草の上に一人の老人がうずくまっています。
 
「誰かこの松の苗を買ってくれる人はおらんかのう。せがれが病気なんだが薬も買えないんだよ」
「いくらなの。おじいさん」
「二百文でいいよ。二百本あるよ」
困ったようなおじいさんと二百本の松の苗をみていて、金次郎はあることを思いつきました。
 
「酒匂川の土手にこの松の苗を植えたらどうだろう。きっと村を洪水から守るのに役にたつぞ」
「おじいさん、おれに売って下さい」
 
金次郎はもらったばかりの二百文で二百本の松の苗を買って、一番洪水に弱いと思われるあたりに一本一本ていねいに植えていきました。
 
この松の苗は大きく育って村を洪水から守ったということです。
 
 

 

二、グルリ一遍(いっぺん)  
 
 
今日は雨です。雨の日の仕事に米搗(こめつ)きがあります。臼(うす)に入った玄米を杵(きね)で搗(つ)いて糠(ぬか)をとりのぞいて白米にするのです。
 
金次郎は米搗きをしながら本を読むにはどうしたらよいか考えました。臼のそばに箱を高く積み重ねて置き、その上に『大学(だいがく)』や『論語(ろんご)』の本をのせます。
まず一節読みます。それを味わったり唱(とな)えたりしながら杵で米を搗き、臼の周囲をぐるりとまわります。そしてもとの場所へもどってきたとき次の一節を読む、というふうにして読書しました。それで金次郎のことを「グルリ一遍」と呼ぶようになりました。
 
 
三、キじるしの金さん
 
 
金次郎は、こうして日々を明るくいそしんでおりましたが、寛政十二年 (一八○○年)、父は病の床についたまま、ついに帰らぬ人となってしまったのです。母よしは、三人の子どもを育てながら家を支えていかねばなりませんでした。
 
「みんなで力を合わせてやっていこうよ」
母 を励ましながら金次郎は田畑へでて働きました。朝はうす暗いうちに起きて山に行きます。木をきって薪(まき)をつくり、それを町へ持っていって売るので す。夜は縄(なわ)を綯(な)い、わらじをこしらえます。それらを売ったお金で日用品を買うのです。わずかなお金ではありましたが、金次郎の家にとっては 有り難い、なくてはならないお金でした。
 
そして金次郎は、暇(ひま)をみつけては以前父に手ほどきしてもらった『大学』や『論語』などの本を読みました。本を読み、考えます。
 
生活しながら考え、自然を見つめては考え、また読みます。働いて一家を支えている金次郎に、学問は生きる道すじや物事の理(ことわり)を示してくれ、未来に明るい光を感じさせてくれるものでした。
 
ですから金次郎は風呂を焚(た)きながらも本を読みます。薪(たきぎ)を背負(せお)って町に売りに行くときも手放しません。
「おいみろよ。キじるしの金さんだよ」
「百姓に学問なんかいらないのになあ」
「本を読みすぎて頭がおかしくなったんじゃないのか」
と村人たちがうわさします。
 
突然、金次郎の声がします。それも大声です。
「大学の道は、明徳(めいとく)を明(あきら)かにするにあり。民(たみ)に親(した)しむにあり。至善(しぜん)にとどまるにあり」
 
声高らかに『大学』の中のことばを口ずさむのです。いつでも、どこででも、本を読み高らかに唱えるのですから、
「やっぱりキじるしの金さんだなあ」
と村人は語りあうのでした。
 
つづく
 

財団法人新教育者連盟 「二宮金次郎」より