かつて日本は美しかったからの転載です。
日本がポツダム宣言受諾をするにあたっての、日本政府の迷い、有史以来の国体というものを護ろうとする願い、そうしたものを理解せずに、もっと早く終戦の決断ができたはずだとか言うのは、その当時に生きた人々の気持ち、心をあまりにも蔑ろにするものだと思います。これは政府だけでなく、多くの日本国民も同じ考えだったと思います。
戦後に占領軍によって洗脳されて、考え方が変わってしまった現代の思想で、当時を批判し、断罪し、あるいは軽蔑や冷笑で歴史を見る人々は、日本を愛しているとは決して言えません。小林秀雄氏は、本当にその国を愛しているなら、歴史に対しては、あたかも死んだ子の年を数える母親のような気持ちで、その歴史をいとおしむ気持ちになるのだという意味のことを言われていました。当時の人々の気持ちを理解することなく、他人ごととして、歴史を裁く人々は、けっして歴史を継承することはありません。
今回終戦を決断する日本政府の当時の人々の葛藤、苦悩、そして昭和天皇の身に変えても国民を守ると決意された意志の固さ、そうしたものを三連の記事で書かれています。これを読むと、天皇を始め、みな命をかけて決断していることがわかります。国民の中にも終戦が決まったときに、自決した人もいたのです。国民のためならと生命を投げ出す覚悟をされた天皇も、その天皇をお守り出来なかったと感じて自決した人も、当時の日本という国柄は、君民共治、君民同治の君民一体の意識の国でした。
アメリカは、だからこそ、この意識が日本の強さの根源だと知って、この日本人の意識を破壊することに全力を注いだのです。そうして日本人を完全に意識改造しようとしたのが、ウォーギルト・インフォーメーション・プログラムであり、一連の占領政策でした。
昭和天皇の聖断下る
昭和天皇の聖断で戦争は終わった。
昭和20年(1945年)8月9日深夜、御前会議が開かれます。御前会議 は本来儀礼的なもので、天皇陛下は一切発言しません。結論も決まっており、シャンシャンという会議です。ところがこの日の御前会議は前もって開かれた最高 戦争指導会議でも閣議でも結論がでないまま開かれた異例なものでした。実は鈴木首相は事前に昭和天皇に「終戦の論議がどうしても結論の出ませぬ場合には、陛下のお助けをお願いいたします」と了解を得ていました。
東郷外相
「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに・・・ポツダム宣言を受諾すべきである」
阿南陸相
「信頼のおけない米ソに、保障もなく、皇室の運命を任せることは断じてできない。あくまで抗戦してこそ、有利な和平条件も得られる」
梅津参謀長
「陸軍大臣と同意見である。本土決戦の準備は完了している」
■ポツダム宣言受け入れに対して国体護持の一条件のみ提示するとの主張
東郷(外相)、米内(海軍大臣)、平沼(枢密院議長)※1
■国体護持に加え占領は最小限であること、武装解除は自主的に行う、戦争犯罪人の処分は日本側で行う四条件を提示すると主張
阿南(陸相)、梅津(参謀長)、豊田(軍令部総長)
憲法上条約締結については会議で決定した後で枢密院に諮る(はかる)必要があります。状況が切迫しているので、平沼議長を直接参加させていました。これも 鈴木首相の策略であったといわれます。これで三対三です。このまま結論がでずに膠着状態になります。すると鈴木首相がこう述べます。
「意見の対立がある以上、甚だ恐れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮を持って本会議の決定といたしたいと思います」
このとき阿南惟幾陸相は「総理」と小さな声を発したと、同席していた速水久常書記長が述懐しています。
昭和天皇
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である」
「本 土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備もできておらず、又決戦し弾の武装すら不充分にて、これが充実は9月中旬以降となると云う。飛行機の増産 も思うようには行って居らない。いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことができるか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰 等、其等の者は忠義を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御 心持を偲び奉り、自分は涙を飲んで原案に賛成する」
徹底抗戦を主張した阿南惟幾は伝家の宝刀「辞職」を使わなかったばかりか、会議終了後に鈴木首相に「総理、これでは約束が違うではありませんか!(陸軍省と最初にかわした約束は徹底抗戦)」と詰め寄った吉積軍務局長に「吉積っ、もうよいではないか!」と一喝しました。
77歳になる老宰相は17時間にも及んだ会議を乗り越え、「国体護持」の一条件をつけてポツダム宣言を受諾すると決定。中立国スウエーデン、スイスを通じて連合国へ打診しました。その際にはソ連の中立条約違反に異議をつけることを忘れませんでした。
阿南惟幾は陸軍省高級部員を全員集め、「聖断によるポツダム宣言受諾」を報告します。そしてこういいます。
「あえて反対の行動に出ようとする者はまず阿南を斬れ」
※1平沼枢密院議長は態度が不鮮明だったという説もある。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
昭和天皇(昭和7年のもの PD)
昭和天皇の二度目の聖断
聖断は二度あった。
昭和20年(1945年)8月10日、日本国政府は国体護持を条件としたポツダム宣言受け入れを中立国を通じて連合国に発信しました。
「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」
これに対して12日、連合国から回答が届きます。「バーンズ回答」と呼ばれるものです。
これで問題となったのは第二項です。
「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下におかるるものとす」
国体護持の条件回答が明確ではなく、「連合軍最高司令官の制限」の部分で、原文は「subject to」であり、外務省は意図的に「制限」と訳しましたが、これは「従属」「隷属」「服従」を意味しているもので、軍部はこれを正確に把握しており、反発す ることになります。
陸軍強硬派は梅津参謀総長と阿南惟幾陸相クーデター決行を迫りましたが、梅津参謀総長が断固拒否し、阿南陸相も梅津参謀総長に反対しなかったためクーデターは未発に終わりました。
8月13日、最高戦争指導会議で阿南惟幾陸相は国体護持について「再照会」を要求します。「subject to」の議論はエスカレートしていきました。そこで鈴木貫太郎首相は「どうも軍部は、言語解釈を際限なく議論することで、せっかくの和平の機会をひっくり返そうとしているかのように、私には思われます。専門家である外務省の解釈になぜ任せられないのですか」と図星をいい、これで軍部側は怒気に水をかけられたようになりました。しかし、結論は出ませんでした。
陸軍強硬派が暴発しかねず、御前会議も参謀総長と軍令部総長が判を押さねば開くことがでいません。鈴木首相は天皇直々の召集に打ってでます。昭和天皇は即座に同意しました。阿南陸相は総理室へ総理を訪ねていきました。
阿南「総理、御前会議を開くまでもう二日待っていただけませんか。その間に陸軍のほうは何とかします」
鈴木「時期はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうか、あしからず」
阿南陸相の顔に寂しげな影がよぎり、丁寧に敬礼をすると部屋を出ていきました。居合わせた小林軍医が「待てるものなら待ってあげては?」というと、総理は「今をはずしたら、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にも攻め込んでくる」と答えました。軍医は「阿南さん死にますね」というと鈴木首相は「うむ、気の毒だが」と答えました。
8月14日、御前会議は最高戦争指導会議のメンバーだけでなく、閣僚全員を出席させました。阿南陸相と梅津参謀長はポツダム宣言受諾に反対を唱えます。そして昭和天皇はこう述べられます。
「国体についていろいろと危惧あるということであるが、先方の回答文は悪意を持って書かれたものとは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答をそのまま受諾してよろしいと考える」
「国民が玉砕し君国殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、国民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることはわたしとしてはじつに忍び難い」
阿南惟幾陸相は号泣します。その阿南陸相に昭和天皇はこう述べます。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」
こうしてポツダム宣言受諾が正式決定し、中立国を通じて連合国へ正式に申し入れ「戦争終結の詔書」が発布されます。
このときの大御歌
「国柄をただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
この後、昭和天皇は今生の別れを意識して皇太后陛下にお会いになりました。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
まほらまと草子「かえるうぶすな」南出喜久治(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)
日本のいちばん長い日
子供の頃、「日本のいちばん長い日」という映画をテレビで見た記憶があります。白黒でした。
昭和20年(1945年)8月14日、御前会議で聖断が下り、ポ ツダム宣言受諾が決定し、終戦が決定します。終戦と言えば聞こえはいいですが、「敗戦」です。阿南惟幾陸相は青年将校を集め御前会議の報告を行います。徹 底抗戦を信じていた若者たちは愕然とし、「大臣の決心変更の理由をお伺いしたい!」との声に阿南陸相はこう答えます。
「陛下はこの阿南に対し、苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としてもはやこれ以上反対を申し上げることはできない」
「聖断は下ったのである!今はそれに従うばかりである!不服のものは自分の屍を越えてゆけ!」
阿南陸相は深夜近く、鈴木貫太郎首相を訪ねました。
阿南「総理・・・」
鈴木「はい。何ですかな」
阿南「ここへ至るまでに、いろいろな事を申し上げ、総理を煩わせたことをお詫びします」
鈴木「とんでもない。今日まで内閣を支えてくださって、こちらこそ感謝しています」
阿南陸相が陸相を辞任して陸軍が後任を拒否すれば内閣総辞職でした。そして軍政となり本土決戦に向かうところでした。阿南陸相は辞任を拒み通したのです。
阿南「これは貰い物の葉巻です。総理はお好きですから、すってください」
鈴木「ありがとう。何よりの物です。遠慮なく頂戴します」
阿南「では、おやすみなさい」
鈴木「おやすみなさい」
連合国への正式回答の打電は陸軍の妨害によって午後10時過ぎにやっとおこなわれます。そして昭和天皇は皇居、表拝謁の間で終戦の詔勅をNHKラジオ放送用録音盤に録音しました。昭和天皇はご自身の御意志で2回録音されました。
この録音盤を奪取しようと近衛師団の青年将校が師団長を殺害。ニセの師団命令を流し、宮城各門を占拠します。録音の仕事を終わって退下する情報局総裁や技 術員等を逮捕し、皇居警察に封じ込めました。この報を東部軍司令部が聞き、田中静壱大将は単身数名の憲兵を引き連れ、15日夜明けを待ってお濠を迂回し、 大手門、竹橋の街路を通って近衛師団(現在の科学技術館、武道館のあたり)に乗り込み、青年将校の一部を逮捕し、宮中に参入。叛徒を退散せしめました。 (宮城事件)
阿南惟幾は15日4時40分に割腹し、7時10分絶命。
<遺書>
一死以って大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾
神州不滅を確信しつつ
<辞世の句>
大君の 深き恵に 浴みし身は 言いのこすへき 片言もなし
この阿南惟幾陸相の自決は徹底抗戦派を抑える決定打となりましたが、水戸の陸軍で は近衛師団のクーデター失敗が伝わらず、東京上野公園に集結し美術学校を占拠します。しかし、クーデターが失敗したことを知り愕然とします。近衛師団で クーデターを起こし、身柄を拘束されていた石原少佐が説得を買ってでますが、一部の将校が発砲し、石原少佐は死亡。その将校も斬られて死亡。直属の上官は 自決。他の将校も数名、水戸に戻って自決しました。(上野事件)
近衛師団の反乱に昭和天皇はこう仰られました。
「いったい、あの者たちはどういうつもりであろう。この私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」「わたしが出て行こう」「兵を庭に集めるがよい。私がでていってじかに兵に諭(さと)そう」
阿南陸相の自決についてはこう述べられています。
「阿南は阿南の考えがあったのだ。気の毒なことをした」
15日正午、玉音放送が流されました。鈴木首相はその日の午後、辞表を提出しました。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
別冊正論「遥かなる昭和」『皇国護持ヲ念ジツツ本夜自決ス』岡村青
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
添付写真
終戦の日の皇居前(PD)
終戦の詔勅 (玉音放送)