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Genの思いつ記(Gen建築設計所)

人はいろいろであります。いろいろな日常を思いつくままに記録していく建築設計事務所のブログです。

ケンチクテキ視点-15

2016年11月07日 | ケンチク ウラ話

 
最近なぜか仕事に追われていて、中々アップできない状態でしたが、

ようやく時間がゆっくり取れたので久々にアップ。

 

最近の仕事の1つをご紹介。初めて不動産屋という職業の方とタイアップしてプランを提案しているのですが、

とても報酬にシビア。(笑) まあ、わかっていたことですが。。。

それにしてもプランを提案してから建築主がすぐに出てくるという、ある意味カルチャーショックを受けています。。。

 

もう、まさに、世の中の住宅はカタログ販売かい!というような有様で、とても心が萎えてしまいます。

しかし、そこの不動産屋はシステムがなかなか工夫がされていて、建築士の力をうまく利用して仕事に結びつけています。

何となくシステム的には理解してきました。でも個人でやっているような事務所ではそういう対応は中々できません。。。

 

それとスピード感が違います。何より早いです。スピード感については反省しなければいけないことが多々ありますが、

思考するうえで必要な時間はあると思うのであきらめています。(笑) 納得した上で提案したいですからね~。

どうしても時間がないと、まっエエか、と正直なってしまいますが、それで十分通じるような甘いことが生じます。

 

世の中の住宅に少しでも貢献できたらと思いやってみましたが、建てる人の認識も、

もう少し知識があれば住宅が変わっていくと思います。

義務教育に住まいに関する授業があった方がいいかなと思います。

いろいろとわかってもらえれば住宅1棟建てるのにどれほどのことを考えているかわかってもらえると思いますし、

様々な要望も出てくると思います。

 

住宅は買うものではなく、つくるものです。

自分のライフスタイルにあった世の中でただ一つの建物です。

それが住宅を設計事務所に頼む醍醐味だと思います。

 
 
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ケンチク的視点-7

2016年08月22日 | ケンチク ウラ話

なぜか採用された設計事務所には5年間居続けることになりました。M設計ということで話を進めていきます。
この事務所では入社して6か月間は先生がついていてくれていろいろと指導をしてもらえました。そのせいか、

やめてから今でもずっと年賀状など交流を持たせていただいています。
 ...
当時、なにもわかっていない若者でありましたが、ケンチクをやりたいという一心で夢も希望も大きく持っていました。

入っていきなり、いろいろと意見を言ったり、今思えば若気の至りというか、青臭いことを言っていたと思います。た

だ、周りの方々は優しく見守ってくれてました。
 
ここで少しM設計のことを書いておきます。M設計というのはT工務店の下請けの設計事務所3社が労働闘争の末に

つくったという特殊な設計事務所でした。そんなことは全く知らずに入ったので入ってから知ったという感じです。

社員も会社がユニオンショップ制度を採用していたのでそのまま労働組合員になるというシステムでした。

なので後々、労働組合の方々とはいろいろとお会いすることになります。
 
そういうことで、この会社では、会議の場でも新入社員と年配者も分け隔てなく同等に意見を言えるという

変わった会社でもありました。それがよかったか悪かったか、意見を言うということが普通であり、

黙っていても何も変わらないということを経験させられました。
 
新入社員ということで回りの方々が興味を持ち、いろいろと誘われるということになり、この時代にお酒を覚えました。

先輩などには「お酒はどれくらい飲めますか」と聞かれて「升々飲めます」と2升ぐらい飲めると豪語していた

つわものもいましたし、一緒に飲みに行ったら今度、この庇を考えてみない?などと仕事の話をしてもらえる上司もいました。
 
年始の日に「新建築」(有名建築雑誌)を見て、この建物が見たい!という先輩がいて、そのまま仕事もせずに、

京都まで見に行ったり、タイル割(タイルの配置の仕方)を教えてやろうということで近辺の建物を観に行ったり、

時代もあるのでしょうがかなり自由に行動させてもらいました。
 
この事務所では「納まり」(部材間の取り合い)というものを徹底的に学ばせてもらいました。現場に出向して施工図(

実際に制作するうえでの図面)をかいたのもこの時代です。ここでの5年間は充実した時代であり、

人間的にも影響を受けた時代でもあります。
その辺りは次回から書いていきます。


ケンチク的視点-4

2016年07月18日 | ケンチク ウラ話

え~、3回目ぐらいから このシリーズを読んでもらえる人は少なくなったのですが、

めげずに書き続けます。一人でもいたら書きますので、面倒な人はスルーしてください。(笑)

 

専門学校の2年間というのはケンチクを学ぶには本当に少ない時間だと思います。

2年間授業はありますが、どうしても技術的なことに時間を割かれるため、思想とか考え方というのに

時間がなかなか取れない。それでいいという人もたくさんいるし、それが目的という人もいると思います。

ただ、ケンチクの醍醐味はその辺りだと思うので2年で終わるのはもったいないのです...

 

その分、働きながらいろいろと吸収していかないと面白味がわかってこない気がします。

まあ、それは後日に書くとして少し2年間の時間の使い方を考えてみたいと思います。
 
大学のように一般教養からなどではなく、4月から、いきなり構造や材料のことを学びながら、

歴史や意匠も同時に学び、2年になると早々に卒業設計という一大イベントに取り掛かります。

ですから、本当は1年の間にもっとスケジュール的なことを学生に話し、心構えを教えておく必要が

あるような気がします。

これはボクの体験上の話なので、そんなのはわかってますよ、と言われるかもしれないけど、

その当時は多くの学生が課題をこなすのに追われて先のことまでなかなか考えられない状況だったと思います。
 
それくらい2年間で一気に学べるという利点はありますが、他のことを考えるという時間的余裕がなくなります。

後は社会に出てから興味ある人だけやればいいというのも有りだとは思いますが~。


ある意味、大学を出ていても同じことがいえると思います。


ただ、社会にでて他の人と比べて自分の武器を持てる(ボクは技術や資格は社会で戦う自分の武器という表現で

学生に教えています)という利点をどう生かすかが、大切だと思っていました。

 

まあ、そう思いながら中々できない自分を情けなくも思った時もあります。実は技術や思想以外にも人生には

大切なことがたくさんあって、そのたくさんある中で自分が何を選択して何を目指していくのかが苦しい時に

踏ん張れる力になっていく気がしています。

 

話は、それてしまいましたが、短い2年間の中で最も充実した自分と向かう時間を過ごすのが

卒業設計ということになります。今はどんな風に進めているのか、わかりませんが、当時は

手を抜こうと思えばできたような気もしますし、真剣に取組めばいくら時間があっても足りない!

そんな感じだったと思います。

 

ただし、締切というものがある限り、必ず終わらせなければならないのです。

どんな仕事でもそうですけどね。ここまでという期限があるから終われるのだと思います。

話はあまり進みませんでしたが、長くなりすぎると読むのも書くのも疲れるので、

続きは次回からに書いていきます。(--)
 


ケンチク的視点-3

2016年07月16日 | ケンチク ウラ話

専門学校で2年間建築をケンチクを学ぶことになったのですが、実は現在、この学校の非常勤講師をしています。

まあ、部分的にしか知らないのですが、昔と今では大違いですね。今はやっぱり丁寧に教えてファカルティなど

学生から各科目のアンケートをとったりします。その評価をみてどうこう思いませんが、そんな時代になったんだなぁ~と思います。

 

さて続きの学生生活ですが、授業料は親に払ってもらいましたが、学校への交通費、課題の材料代等は全て自分で用意しました。

高校3年のサッカー部を引退してから新聞配達をしていて、専門学校の2年間も引続きやっていました。

そのお金で、小遣いも含め自分で都合をつけていました。こんな風に書くと苦学生みたいですが、そんなことはなく、

朝の2時間くらい少々眠いだけで苦にはなりませんでした。授業料出してもらっただけで親に感謝でした。

下に3人の兄弟がいたのでお金かかるやろな~と思ってましたので...

 

さて、学生時代ですが、はっきり言って真面目に不真面目でした、いや、不真面目に真面目かな。2年間でとれる単位の内、

2単位(1教科)以外はすべて取りました。1年の前期の試験が終わったとき、壁に貼りだされた試験結果をみてサッカー部の

先輩から教えろと声がかかり、以後、自宅へ勉強を教えに行くことになります。その時はたまに野球部の先輩も一緒に。。。
 

それだけならいいのですが、試験前にはノートをとっていないのでH君のノートのコピーを取りまくり(自分の分も含めて3人分・・・)、

先輩が授業も出ずに雀荘に行っているので勉強の時間なので呼びに行き、課題が出たら先輩ができないので仕方なく、

先輩の分までやり、ほとんどの課題は2人分以上やったと思います。さすがに卒業できた時は「おまえのおかげや。ありがとう。」

と言われましたが、まあ、どうにかなったので、良かったかなと思います。

 

何となく課題に追われた2年間という感じでした。その中でも講師の先生の実務的なことには非常に興味があり、影響されました。

こんな建物がある、みてみた方がいい、など言われ、H君と一緒に車で東京へ建物見学に行ったのも専門学校時代です。

本当に初めての首都東京で初めての新県築(最新の建築を紹介する有名書籍)の建物を観て感動し、「こんなんが出来るんやぁ~」

という驚きと感動と興奮で帰って来たのを覚えています。勝手に入って警備員の人に怒られたりしましたが。。。

これは建築を目指す人は必ず通る検問かと(笑)

 

そして学生時代のメインイベントのである卒業設計に没頭していくことになります。
 


ケンチク的視点-2

2016年07月10日 | ケンチク ウラ話

ケンチク的視点-2

18歳になったばかりの3月に高校を卒業し、4月には、希望に満ち溢れた気持ちで専門学校に入学しました。

ケンチクのことなど何一つわからず教えられることをとにかくやるだけの日々が過ぎました。

当時、設計というのは2種類あって、設計製図Ⅰ、Ⅱとあり、考える設計というは設計製図Ⅰになります。

設計製図Ⅱというのは所謂、製図を書くというものです。設計製図Ⅱはどうも苦手で評価は普通という感じでした。
 
しかしなぜか設計製図Ⅰは最初の課題から評価が良かったのです。

忘れもしませんが設計製図Ⅰの最初の課題は「自分自身のための空間」というもので図面と模型を作成するという課題でした。...
提出した時、なぜか評価が高かったのです。
 
当時の評価は松竹梅での評価でM(松)T(竹)U(梅)で松の手前はDMで(ダメ松)という感じで

松竹梅の中でも細かに評価されてました。そしてその初めての課題でなぜか松の評価をもらいそれが自分自身での

2年間のモチベーションにつながりました。


書く方はそこそこでも発想はいいものがあるのだと。自分自身でそんな勘違いをすることになりました。

その評価をしていただいた先生がT先生でその後、いろいろとお世話になることになります。
 
ざっと当時の専門学校の状況を言っておきますと、1学年はA~Hまでの8クラスくらいあり、1クラスが約40人、300人以上が

1学年という感じでした。そしてその当時、そのまま卒業できるのは100人くらい、約1/3ぐらいという、ある意味スパルタ的な感じの学校でした。

若者が少なくなった、今では考えられないことですが、当時はそれが普通でした。
 
そんな中、入学した時、クラスを見渡してびっくりしたのは、高校の先輩が二人いたことです。

一人はサッカー部の先輩で進学できずに同級になった方と、野球部の方で浪人して大学をあきらめで専門学校に入ってきた方です。
 

お互い高校の時に面識があったので挨拶は、しましたが、後にべったり2年間様々なところでかかわりあうことになります。


 
他にも今だに悪友?と思われる友人に出会うことになります。そんな濃い2年間を過ごすのですが、その辺りは次回にお話しします。