蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

怖い夢をみた―高齢者安楽死センター―

2014-05-09 22:58:27 | 日常雑感
 5月9日(金)晴れ。暖。午後から雲多く風強し。

 午前3時半、怖い夢で目が覚めた。
 
 私は、大勢の人々の後ろに並んで何かの順番を待っていた。私の目の前の先に鉄柵があった。その中は何かのセンターのような場所らしかった。白い看護服のナースの人たちが忙しそうに行き来しているのが遠目にみえた。
 私の前後に並んでいる人々の明るい話し声から、その行列は施設内での安楽死の順番を待っているらしかった。

 中へ入れば、薬を与えられて、最後の晩餐としての食事のあと、快適な寝室のような部屋のベットに横たわりその薬を呑めば、ほどなく何の苦痛も無くこの世から消え去っていけるところらしかった。
 ここがそのための施設であることを、自分でも納得してここえ私は来たようだった。
私はもう十分生きてきたと思った。もうこの先、何か心躍る恋をするような楽しみもなにもかもなくなったようにも思えてここへ来たのだった。

 私は贅沢かもしれないが生きていることに厭きてしまったように思ったのだったらしい。
 しかし、行列はなかなか前に進まない。私は少し気分転換したくなった。列を離れて少しその辺を散歩したくなった。
 それで列を離れてゆっくりと歩き始めた。

 すると、いつの間にか、脇に妻がついっとと云った感じでやってきて、私を鋭くなじった。「貴方だけ逃げるの…」と。

私はその瞬間まで妻のことは露ほども意識していなかった。しかし、妻が傍に来ればそれは当然のこととして納得もできたのだった。
 私は、「いや別に…。待っているのに退屈してちょっとそこらを散歩してこようと思っただけだよ」

 私たちはそこから暫く歩いて小高い丘にたっていた。全体に灰色っぽくはあるが遠くまでひろびろとした風景が広がってみえた。
 足元の一隅には、今、離れてきた安楽死センターも小さく見えたような気がした。
 急に今の今まで現実感のあった「安楽死」という選択が何か現実ばなれしたもののように感じられた。
 その瞬間、私は、死ぬのが急に怖いというか恐ろしいことのように思えてきた。「もっと生きていたい。そうだ、そしてこれからの歴史をみてみたい…」と喉が渇いたような感覚とともに思った。

 私は、その安楽死センターの施設に行って、「死ぬのを止めます」と断らなくちゃーと思い、施設にむかった。
 受付ホールのようなところに入ると、死に向かう長蛇の列が続いていた。その列に並んでいる人々と行き違いに顔が会った。その中にかっての仕事仲間の同期で親しい友の顔がいくつかあった。

 先方はいぶかしげに私をみとめて「どうしたんだい?」と訊いてきたようだった。
 私は「もうちょっとこの先の歴史が知りたくなったんだよ…」と答えた。

 瞬間、その相手は「もともとお前は、そういう奴だったなー…」と言いたげな幾分か私を軽蔑した皮肉っぽい微笑をみせた。
 同時に、答えながら、自分自身でもなんて気障なセリフだろうかとも思った。
 
 私は、その施設から離れられたようだった。ああ、よかった。死ななくて…と安堵した。
 
 そこで目が覚めたのだった。よかった、夢で。私は生きている…。と思いつつ暫くベットの上で天上の闇を見つめていた。
 
 なんでこんな夢をみたのだろうか…。

 このところ、メディアで急速な我が国の高齢化を耳にたこが出来るほど聞いている。私自身、古希をすぎてまだ一向に体力気力の衰えを感じない自分にありがたくもあれば、反面何かに対してすまないような申し訳ないような気持ちにもなるのである。

 そして、いつも思うのは、鮭なんかは自分の子どもの顔も見ないで産卵しただけで死んでいく。それに対して、我々人類は今や、子どもは愚か孫、ひ孫までみるのがあたりまえになってきた。
 生殖能力は愚か、生産活動能力も衰えてきた高齢者。若い人々に負担をかけるだけになった存在。そんなものが何時までも生きながらえていていいのだろうか…。

 自分が不要となったと自覚したら苦痛無く死ねる安楽死という選択も、これからは有りではないのかと漠然と考えているからだろうか…。

 僅か百年足らず前、エスキモーの人々は、老いた父母を氷原に僅かなアザラシの肉片を残して置き去っていくのが生きていく必然だったと読んだことを思い出す。

 このままでは、高齢者の安楽死について、大きく重い政策課題になる日もそう遠いことではないのではないだろうかと思えるのだが…。