蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「秋は山桜の葉末から…」

2007-09-07 01:54:46 | 田舎暮らし賛歌
 9月6日(木)終日雨。嫋々、時々俄かに雨脚強く…、台風9号接近中とか。
 
我が家のアンテナの設置箇所が悪いためか、NHKしかまともに視られないTV。それが、ほとんど台風の接近に伴うニュースばかり、同じ場所、さっき聞いた話を、またしつこく繰り返している。
 何故か波しぶきのかかる岸壁がよく出てくる。その画面の裏から、中継カメラの傍からか絶叫口調のレポートが聞こえてくる。
 そこには、国政選挙報道の時とは違った、この国の毎年欠かすことのできない季節行事でもあるかのような、お祭り気分(不謹慎は承知のうえで)のような、一種のハシャギめいたものを感じるのは、天邪鬼な私だけだろうかと、ふと思ってしまう。

 そんな嵐が接近中の我が画廊に、今日は一人の来客もあるまいと、きめてかかってアトリエで手仕事をしている夕方近く、母家の玄関前の小砂利を踏み込む車の気配した。
 雨脚の小止みの表に出てみると、止まった車の助手席から、ニコニコと親しげな笑顔をして、私と同年輩のご婦人が降り立った。
 一瞬、何方だったかと記憶を手繰りつつ、取り合えず「いらっしゃいませ」と迎えた。しかし、次の瞬間、運転席から降りた男性の顔が目に飛び込んで、疑念は一気に氷解した。

  先日の土曜日、近くのテーマパークで似顔絵を描いたカップルだったのだ。

  婦人は「先日は、ありがとうございました。よく似てるってみんなで大騒ぎしました。早速、来ちゃいました。近いですね。家から15分ぐらいかしら」と挨拶した。

 家人が、お二人を母屋の玄関から半地下の画廊へ案内した。

 たいして広くもない画廊である。一渡り壁に掛けてある絵をあれこれ見終わったところで、家人が椅子を勧めお茶を運んできた。

 その席に私も加わって、先日の出会いを、家人にお互いから説明し、延々2時間を超して、ご婦人のお話をきくはめになった。

 最初、仲の良いご夫婦かと思っていたら、そうではなくて、男性は、近所の農家の人で、婦人が東京から越してきて、畑仕事で何かと世話になっており、車も運転できないので、その男性に運転手がわりもしてもらっている。その日頃のお礼に、先日の土曜日は、男性の70歳とかの誕生日だったのを祝って、テーマパーク内の私の似顔絵コーナーに出会ったのを、良い機会に、描いてもっらって、贈ったのだとのこと。

その際、帰り際の二人に、手渡した私の画廊への案内状を持参して、今日の来訪となった次第であった。

婦人は、何故、自分がここで暮らすはめになったか。夫は、東京に部屋を借りて、仕事をし、週末にだけこちらに帰ってくるとのこと。何故、そうしているか。
結婚してから一人息子を難病で17歳で亡くした話。その間の生まれた時からの苦労話等々、彼女の人生のあらましを、聞かされた。

話をするのは、4人の中で、ほとんどご婦人だけ。男性は、横で穏やかに耳を傾け、家人は話の内容によって大きく頷いてみせている。
私は、時に先ほどまでのやりかけの仕事のことを思い浮かべる。
小窓越しの外はいつのまにかほの暗くなってしまった。

 男性に促されてようやくご婦人のお御輿があがった。
ご婦人は、芳名録に住所氏名を記名しながら、ぜひ今度自宅へ遊びに来てくれと告げて、男性の運転する車の窓から手を振りつつ宵闇の林道に消えた。

  このご婦人の話しっぷり、つい先ごろまでの私ではなかったか。この、画廊を開く前までの私は、家人が仕事に出た後、日常、こちらからどこかへ出かけない限り、ほとんど誰一人尋ねてくる人も無かった。
  そんな時、たまたまこの地での少ない知人がくると、私は日頃胸に貯まっていることを、相手の迷惑を考える事もなく、しゃべりまくっていたのではなかったか。
  大方の人間にとって、他人(ヒト)と会話することが、植物に水が不可欠である具合に必要であるかということではないだろうか。

  この間、私は、その代償行為として、ブログに記すことに夢中になったが、何のコメントもかえってこないときには、それは所詮、半ばは、土に掘った穴に向かってしゃべっているような虚しさを覚えるものだった。
  
  それに比べれば、生身の人を相手にするときは、こちらの言うことに相手が上の空でもどうでもいいのである。生きた実在の相手に向かって何かをしゃべることは、ほんの僅かの反応でも、こちらの心の訴えの渇きを、いくらかでも癒してくれる気きがするのではなかったか。

  ささやかではあるが、小さな画廊を開き、日に一人、二人ではあるが、来客がある。お陰さまでいつの間にか百人を超えた。
  絵があるということで、来られる方々は、皆さま、静かで、会話して楽しい方ばかりである。
  今、私は、しゃべる側から、身勝手な私に苦手な聞く側に回る。
  少し大げさに言えば、知らず知らずの内に人生の一場面での役割の交代ということであろうか…。
  
  と思うこの頃、秋は、庭先続きの小藪の山桜の葉末から茜色に色付き始めた。

  遅くなった夕食には、先ほどのご婦人から戴いた手作りの黒米(クロマイ)とかのお赤飯を、キリン秋味で美味しく戴いた。

  台風、9号の雨脚は、先ほどのTVの予告どおりか、次第に強まってきたようである。