家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

未曾有でなくなった未曾有のこと

2008年12月18日 | 家について思ったことなど
米国が事実上のゼロ金利政策に移行した。

以前、日本がゼロ金利政策を解除しようという時に、「未曾有のオペレーションなのだからいずれ必ず解除されると確信していた。解除前にローンを組んで家を建ててよかった」などという話をしたが、米国ではあるがまたもや未曾有のオペレーションが生じている。日本も再びゼロ金利になる可能性が強まっているし、他国もそうなるかもしれない。こうなると何が未曾有なのかよくわからなくなる。
未曾有という漢字が読めない首相の時代に、未曾有が未曾有でなくなる状況を迎えるなんて、これは何かの罠なのか。未曾有が未曾有でなくなること自体が未曾有という皮肉か。

なお、日本が再びゼロ金利政策になったとしても以前とは環境が異なるので、家を建てるにはいいタイミングになったとは推奨できない。この先行きの暗さの中で家計に多額の負債を抱え込むのは資産形成の達人でなくともリスクが大きいことがわかる。実際のところ、ベストなタイミングで建てたなどとうそぶいていた我が家も悠長なことは言っていられなくなった。まだローンが残っているからだ。
余裕を持った返済計画を練ったつもりだが貧乏性の危機感がうずき始めている。貯蓄と返済について改めていろいろとシミュレーションしようと思う。

自分の行動基準を知る 「家づくりの出発点」よりさらに前

2008年12月16日 | 家について思ったことなど
某氏曰く
人間の行動における判断基準は以下のものに振り分けられる。
 善悪 勝ち負け 損得 好き嫌い 苦楽

この説にはうなずける。
善悪で動く人というのは、
「善いことだからやる。悪いことだからやらない」
勝ち負けで動く人というのは、
「勝ちたい(または勝てる)からやる。負けるからやらない」
損得で動く人とは、
「得だからやる。損だからやらない」
好き嫌いで動く人とは、
「好きだからやる。嫌いだからやらない」
苦楽で動く人とは、
「楽だからやる。苦しいからやらない」

むろん、善悪、勝ち負け、損得、好き嫌い、苦楽のうちの複数あるいはトータルに吟味して行動することは多いが、何を真っ先に考えるのかは人それぞれだ。
自分の価値観を公言していなくとも、その人の行動を観察していると、その人がどの行動基準に属するか見えてきたりする。
周囲からせこいと思われている人物の行動基準はおそらく「損得」だろう(逆は「真」ではない。損得で動きつつ、せこく思わせないすぐれた人もいる)。
物事に積極性が足りない人の行動基準は「苦楽」もしくは「好き嫌い」と推測できる。面倒なことはやりたくないというのが「苦楽」基準の人の特徴。「好き嫌い」が行動基準で、積極性がないように見える場合は世の中に嫌いなもの(事、人)が多い人物ということになる。好きなもの(事、人)が多い人だったら逆に積極的な人間に見えることだろう。

この説は、主にプラス面からのアプローチである。
「善いことだから」「勝ちたいから」「好きだから」・・・という部分を重視して、どうする(どうなる)と楽しい(うれしい)から行動するというわけだ。
私は逆に、人間を知るためにはマイナス面から考えることも重要であると気がついた。人間は「そうなるために行動する」こともあれば、「そうならないために行動する」こともあるからだ。

「悪い」「負ける」「損をする」「嫌い」「苦しい(大変)」というのはどれもいいことではないが、このうち何が自分にとって一番不快でイヤかについても考えてみよう。

プラス面とマイナス面の両方を思考して分かるのは
「一番実現したいことと、一番回避したいことは、反対語のペアになるとは限らない」
ということ。
例えば、
「一番楽しいのは『勝つ』 ことだけれども、一番不快なことは『負ける』ことではない。『嫌い』なモノ(事、人)に接することのほうが『負ける』ことよりもっとイヤだ」
というような人はいるわけである。

さらに、
「プラス事項の実現とマイナス事項の回避のどちらのウエートが高いのか」
も考えたい。
前述したタイプの例で言えば、「勝つ」と「嫌いなことを避ける」を天秤にかけてみる。
勝つためには嫌いなことに接することも我慢できるのであれば、プラス事項の実現のほうがその人にとって重要であるわけだが、「嫌いなことに接するくらいなら勝たなくてもいい」というような場合は、その人はマイナス項目を回避することのほうが重要というわけである。

行動基準の種類は多くないが、プラス・マイナスの組み合わせとそのウエート付けによってけっこういろいろなタイプに分かれることが見えてくる。

ネット上では、同じ目的を実現することについて語る場であっても、互いにリアルな人物像を知らず、それぞれの行動基準もわからないままに情報交換や議論が始まることが多々あるため、噛み合わない話になったり、反目したりすることがある。

家づくりでも同じこと。
「好きな家」を実現するためには手間や面倒、苦労はさほど問題にならない人と、そうでない人ではきっと違う選択や行動をするだろう。

気をつけたいのは、家づくりは多額のお金がかかるため、通常より「損得」基準が発動しやすいこと。もともと損得で動く人は損得基準の情報収集で満足できる家が建てられるかもしれないが、もともとは「好きな家を建てる」のが主目的の人が「家づくりで損をしたくない」のが主目的の人の情報に流されたりすると、よい結果にならないかもしれない。「損はしなかったけど特に気に入った家にはならなかった」というように。損得で動く人は極端な話、まったく同じ家を建てた他人と比べて安く仕上げた、というようなことに満足できる人である。

また、「勝ち負け」基準で行動している人も多いことに気づく。「自分が選択したやり方が他よりいいやり方だ」と主張したがる。「自分にとっては」というような立場から離れて、一般論的に他の家より優秀(機能・性能、デザイン、価格など優秀さの対象はそれぞれだが)であることを表現したがるのでそれが分かる。その行為は自分が「勝ち」に属することを確認する作業なのだ。「勝ち負け」基準で動く人と意見交換したりするときはへたをすると論争になりやすいことに注意したい。

さて、
「行動基準が違う人どうしは互いの意見を参考にするな」とは言いたくない。行動基準が違う人から気づかされることだって多々あるからだ。
そもそも何人か集まればたいてい違う行動基準の人が入り込んでいることだろう。
せめて行動基準が違う人がいるということを理解できればいい。そうすれば意見を整理して「気づき」も得られやすくなるし、冷静に有用な部分を拾い出す作業もしやすくなる。

自分の行動基準を自覚することは、家づくりの出発点よりさらに前であるべきかもしれないと思った。

フラット50なんてやめたほうがいい

2008年12月08日 | 家について思ったことなど

50年固定の住宅ローン「フラット50」などというものが企画されているらしい。

nikkei.netより↓
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住宅ローン「フラット」、金利50年固定の新型 住宅機構
 住宅金融支援機構は2009年4月をめどに、金利を最長50年間固定する新型の住宅ローン「フラット50」を発売する方針を固めた。「200年住宅」など長期間住むことができる性能が高い住宅が対象。満80歳までに返済を終えるか、子供にローンを引き継いで完済することが貸し出しの条件で、銀行の窓口などで申し込みを受け付ける。
 現在、大手銀行などの多くは最長返済期間を35年までにしている。国土交通省の試算によると、200年住宅は通常の住宅よりも2割程度高くなるが、50年間のローンを発売すれば普及を後押しできるとみている。
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何を考えているのだろう。
「200年住宅」の普及のため、などという目的を掲げているが、そんなもので真の200年住宅(要するに長寿命を達成する住宅)の普及に効果があるとは思えない。

30歳で家を建てた(購入した)として、返済が終わるのが80歳。
おそらく利用者の大半が30年から40年後に子供にローンを引き継ぐことになる。
家と同時にローンを引き継ぐシーンを考えてみてほしい。
その時点で譲り受けてうれしい家でなければ、子供は親を恨めしく思うことだろう。

30年も40年も経っていて喜んで譲り受けられる家とは、何だろう。
「ちゃんと問題なく機能している」というような要件は最低条件に過ぎない。その時点で残り20年もの住宅ローン残を引き継ぐことになる場合、「問題なく機能している家」程度のレベルであるならば「自分で借金して自分好みの新しい家を建てた方がいい」と考えるだろうから。

ローンを引き継いでもいいと思える条件があるとすれば、それは何か。
一つは楽しい思い出が家に刻み込まれていること、家に愛着を感じながら過ごしてきたという歴史だ。
そのためには家族がずっと仲良く暮らしていなければならない。その面では建物(ハード)の実力などより、住人の性質の方が重要になってくる。
逆に言えば、「子供にローンを引き継いでもらおう」などと子供に寄りかかった依存体質、問題先送り体質の親が、良好な親子関係を続けられるのだろうかという疑問がわいてこないでもない。

引き継ぐ気をおこさせる別の要件は、30年、40年経つことによって、新築ではかもし出すことが出来ない風格を生みだしていることだ。
「壊すのがもったいない」と思えるような家でないと、ローン支払い義務付きの家をもらおうとは考えたくもないだろう。だから、新築時に「30年後は新築時とは違う魅力が増している」と期待できるような建物にしておかないといけないと思う。
現在開発されている「200年住宅」はそれを考えているだろうか。
例えば、ホンモノのテクスチャーを真似たメンテナンスフリーの「ニセモノ」素材(関連エントリ LINK)は、30年後に魅力が増しているとは思えない。随時リフォームで取り替えていけばいいのだろうが、そういう素材ばかりで構成された住宅だったならば、受け継ぐ者に「いっそのこと建て直したほうがいい」という発想を浮かばせることになりそう。その家にしかないオリジナルな経年変化が楽しめる素材を使った部分は必要だと思う。
ファサード(外観)もそう。伝統的建築ならともかく、建てた時期の流行に乗る場合はよくよく考えたほうがいい。そのデザインがその時期の文化の一端を象徴するようなものであるならば、時代的価値を生むこともあるけれど、いかにもこの時代の流行はこれですよといった感じの大量生産的なデザインの場合は30年後には時代遅れ感が強まっていることだろう。住人が周囲の家と比べてデザインに引け目を感じるようになったら建て直したくなってくる。そのようなデザインが価値を持ってくるとしたら、おそらく築50年から100年以上は経った時期になるのではないだろうか。そんなスパンでは親子間の引継ぎというタイミングでは有効に働かない。

もうひとつ、50年ローンを有効に働かせようと思うなら中古住宅市場がちゃんと育っていることが重要だ。
前にも言ったが、プライマリー(新規売り出し)時点のことばかり考えてセカンダリー(流通)のことを考えないというのが日本人の欠点である。
現在のような築20年以上の建物に売値がつかないような状況では、古い家に資産価値はないわけで、子供はばかばかしくてローンを引き継ぐ気はおこらない。築年数とは別の評価軸で家の状態によって価格が算定されるような市場が必要だ。

「フラット50」のようなものが先行するのを見るにつけ、住宅の長寿命化より、「寿命が長くなるかもしれないちょっと高級な住宅」を売りさばくことに真意があるように思えてならない。

これも前に似たようなことを言っていることだが、本当に長寿命住宅を普及させたいのならば、50年ローンなどを用意するよりも、築50年の住宅を税金などで優遇するほうがはるかに効果があるはずだ。
実際に50年持たせると得をするのがわかっているなら、50年以上持つように住宅の性能もよくするだろうし、性能以外の点も熟慮して家を建てるようになる。あわせて、家を手入れするモチベーションも高まるし、いい家族を築いていこうという意志が生まれやすくなるというメリットがある。
そっちのほうが絶対にいい。


140円住宅まで登場

2008年10月18日 | 家について思ったことなど
米国の185円住宅で驚いていてはいけない。

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081016-00000030-maip-soci

 【ローマ藤原章生】「地中海を見下ろす石造りの家、売ります」--。イタリア南部シチリア島西方のサレミ市で古い住宅1000戸が売りに出されている。土地付きの値段は、1戸たったの1ユーロ。金融不安に伴うユーロ安もあって、日本円に換算すればわずか約140円だ。
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イタリアで140円住宅が登場した。
もっとも、これは「建築条件付き」。
記事によると、地震によって壊れた部分を地元業者による伝統建築で復元するという条件がついている。およそ1300万円かかるという。
140円という金額はいわば極端な「キャッチコピー」というわけだったのだが、伝統建築で復元なんて条件はステキだと思う。
地域ぐるみで家を大事にする。そういう文化があればこそ家の寿命は長くなる。
家単体のハードの性能だけ考えていたってだめなのだ。


「驚くべき物件」を凌駕する「驚くべき落札」

2008年10月06日 | 家について思ったことなど

差し押さえ住宅、185円=ネット競売で売却-米 (時事通信)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/n_auction__20081006_4/story/081004jijiX956/

 【ニューヨーク4日時事】米ミシガン州サギノー市にある差し押さえ住宅がインターネット競売大手イーベイで売りに出され、4日までに1ドル75セント(約185円)で売却されたことが分かった。米国では差し押さえ住宅が急増しており、安値での売却が続けば住宅相場の下落に拍車を掛けることになりそうだ。
 米メディアによると、住宅は米投資会社が1セントで売りに出し、シカゴに住むジョアンヌ・スミスさん(30)が競り落とした。スミスさんは代金のほか、滞納されている税金や住居の清掃代など、総額約1000ドル(約106000円)を支払わなければならないという。 
[時事通信社]


当blogの関連エントリ↓

驚くべき物件――もしかしたら1万円で買えるビル


しかし、185円で住宅を売買って、何かの間違いじゃないかと思う。
税金、清掃代1000ドルをあわせたって法外に安い。
「驚くべき物件」のように余計な建築条件がついているとでもいうのか。
市場原理という言葉でも説明は困難だろう。

<いろいろなギモン>
・なぜこの会社はわずか1セントでオークションに出したのか
  出す意味あるの? 
・なぜ185円で落札できたのか
  チョコレート買う感覚で子供だって買える値段なのに、入札した人が少なすぎないか?
・185円ならいっそのことホームレスの人とかにあげちゃえばいいのに
  支援団体の人とかこのくらいのお金は出せるでしょ。

<記者にいいたいこと>
>米国では差し押さえ住宅が急増しており、安値での売却が続けば住宅相場の下落に拍車を掛けることになりそうだ。
この例を「安値での売却」というくくりで判断するってどんなセンスをしているんだろう。やがてみんなこんな値段になる、なんてわけがないのだ。

なぜそういう家にしたか

2008年08月26日 | 家について思ったことなど
読売新聞が運営する「大手小町」という読者コミュニティがある。
その中の発言小町というコーナーでは、相談事から、愚痴、雑談までいろんな人が問いかけをして、いろんな人がアドバイスしたり、批判したり、励ましたり、叱咤したりしている。
女性を中心とした広範囲な井戸端会議といったふうで、雑談好きな人などが集まってにぎわっている。

その中にあったひとつのトピ↓

「注文住宅・・・なぜそんなふうにしたの?(駄)」

ちなみに(駄)というのはトピ主自ら駄トピであることを宣言しているという符号のようなもの。コミュには深刻な相談も混在しているため、あらかじめわかりやすいようにする工夫である。まあそれはどうでもいいことで、肝心の問いかけの内容は以下のようなものだ。

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犬の散歩をしながら、新しい家・きれいな家を見て歩くのがひそかな趣味です。そ
の際、失礼ながら「なんでこんなふうに建てたんだろう?」と思ってしまうお家が
あります。

たとえば、シックな色づかいの家々の中に立つ、ビビッドなオレンジとか黄色とか
真緑の外壁の家。
目立ちたい?
それとも単にその色がお好きなだけ?
毎日窓からその外壁を見なければならないお隣のこととか、気にならないものなの
でしょうか。
あと、南向きも可能なのに、西向きの家。
やけに少女趣味な家。(←ご主人は抵抗を感じないのでしょうか?)

人の家に口を出すな、そもそも人の家を見て歩くのが問題、と言われれば全くその
とおりですが、その点は大目に見てくださる方、「私もこういうお家がわからな
い」と思ったことがある方、あるいは「それはこういう理由からです」と説明して
くださる方、いらっしゃいましたらお願いいたします。

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私も週末に早朝ウオーキングしながらハウスウオッチングすることがよくあるので興味深く読んだ。

最初に言ったように、大手小町というところはいろんな人が参加している。
親切な人、突き放す人、同情する人、興奮する人、さめた人、被害妄想気味な人…
このトピもせっかく(駄)ってつけてあるのに、眉間にしわを寄せた感じで意見している人がいたりする。
それも含めてこのコミュの面白いところだと思って読んだ方がいい。
(ちなみに私はROM専門)

どこかの匿名の人がどこかにある匿名(?)の家について論評するのだから、気楽に読めばいいものだが、そうもいかない人が多いようで…。
寄せられた意見を読めば
「個人の自由派」VS「周囲の景観重視派」
「素朴な疑問の答えが知りたいだけ派」VS「似たような家の住人(読者)に配慮しろ派」
「明るく開き直り派」VS「後悔・憂鬱派」
なんて対立(?)の構図があったりする。

家を論評することって面白いんだけど、いろいろ難しい(笑)。

読んでみたいと思った人は以下のLINKへGO.
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0822/200085.htm?g=01&from=yol


そうそう、このトピの中でちょくちょく出てくるのが「ピンク色の家」。
施主仲間のNさんの家がピンク色だったけど、どんな反応するかなあ。

私の予測は…



あるけど伏せます(笑)。






「家づくり、これでいいのだ」

2008年08月11日 | 家について思ったことなど
子供のころ、「天才バカボン」を読んでいた。
バカボンのパパが、大騒動をひきおこしたあげく、
「これでいいのだ」
と締めくくると、ちょっとまじめな子供であった自分は「困ったおじさんがいたもんだ」的なまっとうな(?)反応で笑っていた。

もう少し成長してくると、この言葉の持つ無敵さが気に入った。
登場人物のほとんどが「こんなのでいいのか」と思っているさなかに、
「これでいいのだ」
と言い切る。
本人がいいと思っているのだからいいのである。無敵だ。

アニメ主題歌の詞もすごい。
「西から上ったおひさまが東へ沈む」
「これでいいのだ」
そんなことまで認めてしまう懐の広さ。

いつのことか、この言葉には癒し効果もあると気づいた。
人間誰しも不安や懸念、心配事はある。そういうものが重苦しくのしかかっているとき、たまたまTVでバカボンのパパが、
「これでいいのだ」
としゃべるのを耳にした。
一気に気が楽になった。

やるだけやった人が
「これでいいのだ」
と自分の行動を納得する。
うまくいかないことがあっても
「これでいいのだ」
と割り切れる。
応用範囲がとても広い。

歳をとるにつれ、
「これでいいのだ」
は、すごい言葉だ、赤塚不二夫は天才だ、と思うようになった。
バカボンのパパに後光がさしているように思えたこともある(笑)。

タモリ氏による故赤塚不二夫氏への弔辞が話題となっている。
やはりタモリ氏は「これでいいのだ」という言葉のすごさをちゃんと理解していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080807-00000908-san-soci
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 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
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さて、家づくりblogとして…

いまさらになって思うのは、blogタイトルを
「家づくり、これでいいのだ」
にする手もあったか、ということ。

自分が
「これでいいのだ」
と思える家づくり。

おせっかいな人にいろいろ言われても
悩みぬいた決断も
「これでいいのだ」
と自分で納得する。

「これでいいのだ」
と宣言するのは、自己責任の覚悟でもある。
事業主たる施主(関連エントリLINK)が発するにふさわしい言葉とも言える。


ストレス耐性のある子供に育てたい 「快適でも不快でもない」ことの重要さ

2008年08月03日 | 家について思ったことなど
無差別殺傷事件が相次いでいる。
被害者の親族・友人の心中を思うといたたまれなくなる。
また加害者の親はいったいどのような心持ちであろうか。まともな人間であるならば親としての責任を考えずにいられないはずだ。育て方が間違っていなかったか、と。

どの加害者にも共通しているのは相当にストレスフルな状態であること。
孤独感、疎外感、失業への危機感、非モテ…
もちろん、どんなにストレスがたまっていようとあんなことをして許されるわけはない。憎むべき所業である。
ただ、「彼らにストレスがたまっていなかったら、あんなこともしなかったろうに」と思わずにはいられない。

私は自分の子育てを考える上で、ストレス耐性をつけることを意識している。
少々の不都合はストレスだと感じないように、ストレスを溜め込まないように…

我慢しすぎるとストレスを溜め込むことになるが、まずは我慢する能力を高めておかないとつまらないことまでストレスになってしまう。
子供は図太く、我慢強い性質に育てたい。また、いろいろな楽しいことを体験させてストレスを発散するスキルも身につけさせたいし、ささいなことでも幸福を味わえるような性質にしたいとも思う。

「子供は風の子、大人は火の子」っていう言葉がある。
これは生活の知恵なんだと思う。
子供だって冬は寒い、コタツに包まっていたいだろう。
しかし―、
風を知らなければ火のありがたさもまた知ることができない。
子供の環境適応能力を育むためにもコタツに包まりっぱなしではいけない、
方や大人は徐々に環境適応能力が衰えていく、
だから火のそばにいる時間は、子供と大人で異なっていていい。
そんなふうに解釈している。

現代の家ではコタツが必要でなくなってきている。それは家の性能が向上し全体を「コタツ化」できるようになってきたからだ。
だからこそ風の子の教訓を忘れないようにしたい。

当地方は温暖だ。厳寒の地と比べれば気候面で恵まれている。
家全体をコタツ化するのが可能であっても、やや寒い程度の時期は子供のストレス耐性をつけるためにもコタツ化するまでもないと思っている。大人の誰か1人が寒いと感じてすぐに全館暖房してしまったりすれば、子供にストレス耐性を身につけさせる機会をそぐことになる。「寒くなりはじめ」「温かくなりはじめ」くらいの時期は部屋の戸を閉める局所暖房でいい。省エネでもあるし。
「家の中で子供を鍛える」のではなく「日常生活における少々の負荷は慣れさせる」というイメージ。

今は夏。
猛暑日になることもあってさすがの我が家もエアコンを使う場面が出てきたが、稼動時間は短い方だと思う。通風によって涼がとれるとか、時には暑さを楽しんでもいいと思っていることもあるが、安直にエアコンの快適さに埋没したくないという気持ちがある。

快適なのは素敵だ、だけど、常時快適でなければ不幸だというようには私は思わない。
そもそも「快適でない=不快」と考えるからおかしいのだ。「快適」「快適でも不快でもない」「不快」の3つくらいに分けるべきだ。
「快適でも不快でもない」ことまで「不快」と感じてしまうのだとしたら、それは不幸だと思っている。
最近の住宅は快適さを競うあまり、「快適でも不快でもない」時期まで快適にしてしまうことがある。
そのために昔の人だったら何てこともない状況を現代の人は不快だと感じてしまう、そんな例が増えているように思う。貧乏性の私はそれは損なことだと受け止める。

社会では人間関係などで昔より精神的なストレスが生じるシーンは増えている。そうしたなかで身体面でもストレスを感じやすい性質に育ったならば、ストレスに押しつぶされるリスクは高まる。
逆に「快適でも不快でもない」とする環境の幅が大きい人間ならば、快適空間がストレス解消により有効に働く。常時快適空間にいて「快適でない=不快」と感じる人間なら、その効果も期待薄だ。

我が家は子育てにおいて、食べ物の好き嫌いをなくすことを心がけている。嫌いなものがあったとして、せめて「好きでも嫌いでもない」レベルにさせようと努める。健康のこともあるが、嫌いなものが少ない方が幸せに生きられるから。
それと同じように、少々の温度差や環境変化をいちいち不快だと感じるより、不快だと意識しない方が幸せに生きられると思っている。それには子供のころの日常の過ごし方が重要だと考えている。

自己満足に変わりはない

2008年08月02日 | 家について思ったことなど
斬新な家を建ててテレビなどで紹介された人がかわいそうなのは、口の悪い人間に「オ○○ー住宅」なんて陰口を言われてしまうことだ。
このような下品な比喩に突っ込むのもなんだが、使い方がおかしいと思うので一言。
「自分だけ満足している」状況を揶揄しているのだろうが、個人の注文住宅なんてすべて自己満足であることを忘れている。
そもそも他人を満足させるつもりで自分の家を建てるわけではない。なにより自分を満足させるために建てるのではないのか。
設計事務所に設計させようが、ハウスメーカーにまかせようが、輸入住宅を建てようが、赤白横じまの家を建てようが、ログハウスにしようが、古民家を移築・改装しようが、高高住宅を建てようが、ローコストで建てようが、やりたいようにやったのならどれも自己満足だろう。

結局、スタンダードなもので満足する人もいれば、変わったもので満足する人もいるということ。
冒頭の下品な比喩で表現すれば「オ○○ーをノーマルな想像でやるか、アブノーマルな想像でやるか」の違いということだ。どちらも自己満足であることに変わりはない。
したがって、もし異質な個人住宅を批判したいのであれば、「アブノーマルさ」について突っ込むべきであって、オ○○ー的であることではない。

赤の他人を満足させる家なんてそうそうはない。もしそういう家があったらすばらしいことだが、「オ○○ー住宅」という言葉の対比で考えれば「ソー○ランド住宅」なんて言い方になってしまうだろう。

筋が通った批判をするなら下品で余計な言葉など必要がない。そういう言葉を使うのは結局、悪口を言いたいだけなのだ。


「エコ自慢」での違和感

2008年07月07日 | 家について思ったことなど
洞爺湖サミットが開幕し、地球温暖化対策がテーマの一つとされているせいか、最近「エコ」が話題になることが増えてきた。しかしなぜかしっくりこない。


5kmを移動するとき

電車・バスなど公共の輸送インフラを使う
燃費の悪い車を使う
燃費のいい車を使う
原付を使う
自転車を使う
歩く

この中で何が一番エコか。
歩くことに間違いはないだろう。
ところが、歩いて移動している人より車で移動している人の方がエコで目立っている、なんてシーンが実は少なくない。

トヨタがハイブリッドカーのプリウスを製品化したことはほめられていい。開発者も自慢はしていい。
しかし、それは車を利用する前提での話だ。
同じ車を利用するなら二酸化炭素排出量が少ない車に乗った方がエコといえばエコ。
だけど車を利用しないで移動する人の方がもっとエコだ。
燃費の悪い車を所持していても、短距離の移動を自動車ではなく自転車でしているとしたら、毎回プリウスで移動している人間よりはエコである。

最近ペットボトルでも「エコボトル」なんてPET使用量の少ないモノが出てきている。それもペットボトル飲料を飲む前提での「エコ話」。ペットボトル飲料をできるだけ飲まないようにする方がさらにエコのはず。
住宅に関しても、高性能住宅に住まないとエコじゃない、みたいな論調は乱暴だ。
我が家は今シーズン、まだエアコンを稼動していない。いわゆる超高性能住宅というわけでもないので、やせ我慢なのかもしれない(べつにさしたる我慢もしていないが)。もし超高性能住宅の作り手でも、住人でも、もうエアコンを稼動しているのだとしたら、エコで威張られる筋合いはないと思っている(もっともコチラもエコで威張る資格があるというつもりはない:※)。

製品についてのエコ自慢はメーカー同士がやる分にはいい。
ただ、「使わない」という手段もある一般人が、所持する製品のスペックだけでエコ比較をやるのは何か変。
「エコ製品」を所持するより、「エコ生活」を実践するほうが効果が大きいなんてことは少なくないのだから。
優れたハードばかりにスポットライトをあてるのではなく、優れたソフトを評価しなければ、地球温暖化の防止もおぼつかないだろう。


(※)住宅はともかく、そもそも新幹線通勤なんていう行為はエコから遠いわけだ。


三角窓と省エネ

2008年06月21日 | 家について思ったことなど
我が家が購入した新車にはサイドウインドウの前部に小さな三角形の窓がある。
これを見ていて、前世代のクルマにかつて標準装備されていた「三角窓」の存在を思い出した。

新車の三角形の窓はフィックスしていて開け閉めできないが、かつての「三角窓」はクルリと回転させて外の風を取り込むことができた。角度によってたっぷりと風を受けることも出来るし、弱めることも出来る。
前世代のクルマではエアコンが装備されていなかったがゆえにこうした工夫がなされていた。
その後エアコンが標準装備され、車内環境をエアコンに依存するようになり、むしろ密閉性を高めるために開閉できる三角窓が排除されていった。工程や部品を少なくしてコストを下げる目的もあっただろう
省エネの観点からいうと、この三角窓は残しておくべきではなかったかと思う。これがあったら、エアコンを稼動させる時間を減らせるからだ。頭の方にしっかり風が受けられればエアコンをつけなくともよいという状況は少なくない。

私はクルマから三角窓が消えたようなことが住宅に関しても起きているように思う。
機械的空調に頼るシーンが増え、断熱性能と気密性能の重要度が増した。断熱・気密性能を高めることばかりに目が向かい、その分、通風性能がないがしろにされている。
気密性能を示すC値でいい数値を出すためにフィックス窓を多くした家なんてこともあるようだ。
クルマにしろ住宅にしろ、性能を高めることは総じていいことだが、その一方でいつのまにか別の性能が低下するのは考え物だ。

断熱・遮熱性能が高く、なおかつ風通しのいい家なら、エアコンを使わなくていい日や時間を増やせる。
エアコンを使うことを前提に、効率的にエアコンを稼動させる工夫もいいが、エアコンに頼らない時間も増やす。
省エネの工夫ってそういうことではないだろうか。

温暖化対策で省エネ性能の高い住宅を優遇するのはいいが、どんな住宅であっても実際に省エネな生活をしている人だって優遇するような策も考えるべきだと思う。
本気で省エネに取り組むのなら、期待より結果に重点を置いた方がきっといい成果につながるだろう。

クルマを買い換える

2008年06月20日 | 家について思ったことなど
 
15年以上使っていた妻のクルマをこの度、買い換えた。新車といってもどこにでも走っている大衆車で、とりたてて自慢するようなものでもないため、新車用に作ったオリジナルのキーホルダーだけ写真で見せておく(笑)。


さすがに今度のクルマは前のクルマより燃費がいい。
原油価格、ガソリン価格が高止まりしている現在、燃費がいいことは非常に助かる。

ただ前のクルマが最新のクルマと比べて燃費が悪かったことが買い替えの主たる理由というわけではない。そんな理由だったらもっと早く乗り換えていただろう。
いろいろなところにガタがきていて、総合的な判断から決めたことである。
前のクルマの歴史は、実は私達夫婦の歴史とほぼ同じ長さでもあった。本当のところを言うと、長年使用した前のクルマには愛着が生まれていて、できることならまだ使い続けたいという気持ちがあった。
新車と引き換えに前のクルマを置いてくるとき、「長いことありがとう」と車体に手を触れて感謝の意を伝えた。旧宅を解体する直前と似たような気持ちになった。

思い出の存在は、残したいという気持ちにつながり、モノの寿命を長くする。そんなことを以前も書いた(LINK1 LINK2)。頑丈であるとか、高性能であるとか、省エネであるとかいうこと以上に長持ちさせる効果があるかもしれない。

「メイド」と「ビズ」で畳の普及って…

2008年05月26日 | 家について思ったことなど
畳の上でごろ寝が気持ちいい季節である。
こういう時、夫婦の部屋を和室にしておいてよかったと思う。
生粋の和室である古屋の座敷も当然、畳だ。
旧宅の建て替えに合わせて古屋も壁や屋根をリフォームしているが、畳はその前に変えていた。
両親が近隣市の文化財となっている脇本陣を訪問したとき、そこに収められた畳にほれてしまって、そこに納入した畳屋に頼んで入れたものだ。
国産イ草を使った伝統的な造り方をしている琉球畳である。価格もそれなりに高かったわけだが、古屋を愛する一家として奮発してしまった。

そんなこんなで畳には少々思い入れがある。
イ草農家や畳屋の減少の話などを聞くと残念に思う。
ただ「業界」でも手をこまねいているばかりではないらしい。

アサヒコムより↓
http://www.asahi.com/life/update/0525/SEB200805250014.html
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畳投げ、「飛ぶように売れて」と願い込め 熊本・八代
2008年05月26日06時18分

 全国一のイ草産地、熊本県八代市鏡町のふる郷(さと)愛鏡祭(あいきょうさい)で25日、名物・畳投げ大会があった。子どもから84歳まで30人が特産の畳を思い切り投げ上げた。
(中略)
 畳の需要は住宅の洋風化や安価な中国産に押されて低迷が続く。大切な商品の余興への利用に「景気づけです」と農協関係者。「飛ぶように売れて」の思いは届くか。
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「この方向性はちょっと違うだろ」と言いたくなる。参加人数が30人というのも、逆に盛り上がったのかと心配になった。これじゃあ町内会のお祭りレベルではないか。
しかし、これはまだいいのである。

問題はこれ↓。
http://www.asahi.com/life/update/0523/TKY200805230043.html
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畳部屋にお帰りなさいませ、ご主人様
2008年05月24日18時58分

 需要が落ち込む畳の人気を盛り返そうと、全国畳産業振興会が畳の良さをアピールする「畳ビズのうた」を作成、歌にあわせて踊る畳メードとともに、東京都内でPRしている。
 歌は、イグサが部屋の空気をきれいにし、地球環境にやさしいと強調。畳のエプロンと畳のネコ耳姿のメードが、畳を作るしぐさで歌にあわせて踊る趣向で、CDを全国約1万の畳店で売り出す。
(中略)
 メードの、みうなさんと苺(いちご)さんは「歌を通じて畳の良さを見直してほしい。畳の世界へお帰りなさいませ」。
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「畳メード」とやらの写真は↓。
http://www.asahi.com/photonews/TKY200805230043.html

脱力・・・・・・・・。畳メイドね。
畳は「和」の世界のアイテムだ。洋風のメイド(メードじゃなくてメイドでしょ→朝日新聞さん)と組み合わせてどうする。
畳部屋にメイドなんて、「ハチワンダイバー」からヒントでも得たのか?
マンガならその組み合わせはアリだと思うが、畳の良さをうったえるのなら、おかみさん(若女将)とか仲居さんとか女中さん、または腰元を採用すべきだろう。

もうひとつ言いたい。
「畳ビズ」って何?
もしかしてクールビズとかウォームビズに倣ったのか?
ビズの意味分かってますかー?

どんな歌詞になっているか調べてみたらコチラにあった↓
「畳ビズのうた」記者発表会 概要
「ビズビズ ビズビズ 畳でビズビズ」って・・・。 どう考えても「ビズ」の意味がわかってない(※)。
ビズとはそもそもビジネスのことですよー。
「畳ビズ」にしたら、「オフィスを畳にしよう」ってことになるんですけど…。(その風景、ちょっとあこがれたりして:笑)
流行モノの言葉を使えばいいってものじゃないでしょうに。

さらに調べてみたら、
あなたが踊る 『畳ビズのうた』 動画 大募集」なんてのまでやっている。
選ばれると、置きタタミ3畳がもらえるそう。予測応募数からしたら、畳GETの確率は高い。
新築やリフォームを考えている人はチャレンジだ。
『畳ビズのうた』で畳を施主支給・・・。
変わった施主支給をした我が家でもこればっかりは・・・。

<結論>
「畳の将来」より「畳ギョーカイの将来」の方が心配だ。



過去の畳関連エントリ

畳の日


※)一回聞いたら頭の中でリフレインし続けそう。ビズビズというより脳がグズグズになるかも。6月から全国1万の畳屋さんで販売開始らしい。興味のある人は畳屋さんにGO!

住宅情報におけるInformationとIntelligenceを意識する

2008年04月27日 | 家について思ったことなど
書籍・雑誌やインターネット、あるいは直接会って住宅関連業界人が発する情報を見聞するとき、以下のような点に注意したい。
・ライバル業態・業者の成功事例を無視し、失敗事例を選んでその業態・業者を語っていないか
・ライバル業態に属するレベルの低い業者を例に出して、その業態全体を語ってはいないか
・自分たち以外の複数のライバル業態・業者の失敗例をまぜこぜにして語っていないか
・ライバル業態・業者との成功事例を特殊なパターンのように語っていないか(例えば、施主が真実を知らないから成功したと勘違いしているだけ、施主が普通でないというだけ、特段おかしくはないが余計に金をかけすぎている、とか)

情報という言葉は意外と意味が漠然としている。
しかし英語では情報といってもインフォメーション(information)とインテリジェンス(intellgence)に分かれ、もう少し明確になっている。
おおづかみに説明すると、インフォメーションは、そこにある厳然たる事実を表したもので、インテリジェンスはインフォメーションを分析して組み立てた戦略のことである(※)。
<インフォメーションとインテリジェンスの関係についての簡単な例>
上昇しそうだった金利はむしろ低下傾向にある(インフォメーション)
不動産は値下がり傾向である(インフォメーション)
 ↓
マンションを買うのはもう少し様子をみてからでいい(インテリジェンス)

インフォメーションの正誤を判定するのは比較的たやすいが、インテリジェンスの正誤判定はけっこう難しい。ものによっては意思決定者の制約や意思決定時間の違いによって正誤が変わったりすることもある。
情報発信者が、敵対する陣営に関し、第三者向けに流す情報について注意すべきことは、提示されたインフォメーションにウソはない場合でも、提示されたインテリジェンスが正しいとは言いきれないことである。
業者サイドが発信する情報は多かれ少なかれ以下のような傾向がある。
A:「自分達の成功例というインフォメーションを提供しながら、自分達を選んだほうがいいというインテリジェンスを提示する」
B:「敵対陣営の失敗例というインフォメーションを提供しながら敵対陣営を選ぶべきではないというインテリジェンスを提示する」
提示するインテリジェンスありきでインフォメーションを選び出している、と言えなくもないわけである。
分析に使われたインフォメーションの選び方に偏りがあるインテリジェンスをまともに受け止めると、情報の受け手はミスリードされるリスクがある。
したがって依頼先を選ぶ側としては、依頼先候補が提示していないインフォメーション(依頼先候補あるいは同種組織の失敗例、敵対者・業界の成功例)を探して見つけ出し、自分なりのインテリジェンスを組み立てることが重要なのだ。

ビジネスで顧客を自分の陣営に引き込もうとしたら、競合している相手への批判的な言動(上記Bのインテリジェンス)が出てくるのはいたしかたない。その指摘が当たっていることだって少なくないし、そういう言動をすること自体を声高に非難するつもりはない。
しかし、そのことに異様に力を入れている業者の情報はちょっと問題があると思われる。情報の裏に下記の項目のいずれか、あるいは複合した背景があるのではないかと疑ってみてもいい。
①競合が激しくて余裕がなくなっている
 実力に乏しい業者ほど「口撃」という手段に訴えようとするものである。逆に口達者な業者にお客が集まっているのが悔しくて、つい口撃で対抗することも。
②(邪教から一般人を救おうと考える)宗教的正義感による行動
 例えば、自分達のやり方が最高のやり方だと自信がある業者が、思ったように主流化しないことがおかしいと思い始め、他者を糾弾することで世間を啓蒙しようとしている、というようなこと。そのほかには、自分達の基準ではカルトだと思っている業者・業態が世間的に印象良く取り上げられていることに対し警鐘を発したくなっている、というようなこと
③ライバル業態になびく人々の性質が気に入らず、機会があれば批判を言わずにいられなくなっている
 例えば○○ファンの気質が嫌いな△△業界人が○○というカテゴリを見下すような行為(「○○」と「△△」の項目を、「ハウスメーカー」だの「建築家」だの「工務店」だの「分譲マンション」だのいろいろ組み替えながら置き換えてみるといい)。そもそもファンの気質が一律であるとみなすのはなんとも短絡的なのだが…。

情報発信者に上記のような背景がある場合、提示されたインテリジェンスの有効性はよくよく考えて判断すべきである。敵対者に対する憎悪や差別意識までインテリジェンスの内容に反映している可能性が高い。
とくに掲示板系の情報はそういうことを意識して読んだほうがいい。2chのように発言者の行儀の悪さが認知されているところばかりではなく、その他の普通の掲示板でも業界人と思われる論評はよく見かけ、上記のような背景がうかがえる発言は少なくない。
掲示板に限らず、こぞって批判的な発言を繰り返している場所・場面は「サイバーカスケード化」を意識しながら冷静に眺めたほうがミスリードされにくだろう。
ただそういう場所でも、提示されたインテリジェンスはともかく、パーツとして盛り込まれたインフォメーションが事実であることだってあるわけだ(関連エントリ→)。

情報を有効に使うには、リテラシーを意識しながら、役に立つ情報を丹念に拾い出して自分が判断することが肝要である。

さらにいえば、「百聞は一見にしかず」。
役に立ちそうなテキスト情報を拾い出したとて、リアルな場面に赴いて接する生の情報のほうがもっと大事だ。

(※)informationとintelligenceに関する本質的な考え方に興味がある人は↓がオススメ。
NED-WLT「重要度を増すinformationとintelligenceの違いに関して


「家づくり物語」――友人が書いた本をオススメする

2008年04月05日 | 家について思ったことなど
このblogではアフィリエイト・広告の類を極力排除している。
訪問者数から推測してそんなもので稼げるわけがない、という悲しい現実はさておいて、情報を探すためにネットを利用する私は、広告が無い・少ないページに好感を持っているからだ。
そのスタンスながら、今回は広告。広告といっても、弊BLOGの主題に沿った本の紹介であるので、いさぎよくエントリの本題とする。わざわざここに訪問してくれた人にとっては一般広告のような雑音性はないと思う。

広告対象は、ネットを通じて友人となった建築プロデューサーの朝妻義征さんが出版した書籍で、「家づくり物語」(幻冬舎ルネッサンス)という。
自分の家づくりに悩む桂子さんの、短期間だが刺激的な放浪記(?)である。

さて、本書はなにより、「家づくり(※1)を楽しみたい人」にオススメしたいのである。
家づくりは個人としては大金と長い時間を費やす大イベントであるから、私はできるだけ楽しまなければ損だと考えている。

楽しむために「押さえるべきポイント」というものがある。
家づくりを考える人は依頼先や工法、素材の知識を知ろうと、いきなり方法論から動きはじめがちだが、そのままやり手の業者に接触すると、いきなり相手に主導権を握られかねない。物事を楽しむには自分のペースで進めることが肝心だ。
だから方法論に入る前にやることがある。
「○○を実現するためにどのような方法でやるか」というときに、○○がはっきりしないことには最適な方法を見つけることができないはず。
本書に登場する「おじさんの妖精」ジンが主人公の桂子に教える「家づくりの秘訣」は、楽しむためとして提示するわけではないが、自然と家づくりを楽しむための重要なポイントをおさえていくことにもなっている。
ジンは桂子にいろいろな「秘訣」をなげかけるけれど、結局、自分の内なる要求と向き合うように導く。
実はそれは桂子にとっての○○、すなわち自分が本当にほしい環境を探す作業なのである。目に見えるモノから探すのではなく、気持ちのいい過ごし方を想像するところからはじめる、そうすればおのずとモノも選定しやすくなる。
自分のペースにあった依頼先を探すこと、工法、素材を選択すること、打ち合わせすること…いろいろなシーンで楽しめる。おせっかいな外野にミスリードされるリスクも減る。
合理化・効率化を追求する現代においては何事もシステマチックに進む。自分の軸を確立しないまま、方法論から一つのシステムに乗ってしまうと、第三者が見て問題ない家ができるとしても、自分自身が家づくりを楽しめなくなるかもしれない。

住宅に関する多くのパブリシティ(宣伝)本や、上から目線の啓蒙本に共通しているのは、ある工法、素材、施工者、設計者、業態等々を取り上げて「これが正しい」「これが最高」と主張している点である。
特定の尺度においては、それらの主張は間違っていないと思う。それらの本から様々な有用な情報だって拾い出すことも可能だ。しかしそれぞれが、一神教的に自分が正しい(そして異論を唱える他の人間が間違っている)と主張しあっているために、読者側は惑わされることが少なくないのだ。
他人の理論に振り回されないためには、自分の尺度をできるだけ明瞭にすることが大事だ。妖精ジンは桂子が迷うたびに登場するが、ポイントを教えつつもやはり自分で決めることを示唆する。何が大事かを決めるのはあくまでも施主だということだ。

著者の朝妻さんは建築家・設計事務所との家づくりのお手伝いを事業としているし、そういうシステム(※2)でビジネスしているゆえに、手厳しい人から「本書もこれはこれでパブリシティ本だろう」という指摘があることは想像できる。
ただ、少なくとも「これが一番」といって、特定の業者のやり方を大前提に展開するパブリシティ本よりも、まずは読者(施主)が業者のペースではなく、自分のペースで自分の家のことをよく考えようと導いている点において、良心的であろう。
本書は、家の性能判定や工法や建材などについてまったく具体的に指南していない(笑)。そのことこそが、請け負う側の理屈より発注する側のことを考えている証拠でもある。
朝妻さんはハウスメーカーとは業務関係がないようだが、相談に訪れた人がハウスメーカー向きであることがわかったら、ハウスメーカーにしたほうがいいと助言するという(この段階では朝妻さんにはまったく利益はない)。
建築家・設計事務所との家づくりのことを知らないまま(※3)他のやり方に行ってしまうのが残念と考えているものの、家づくりの仕方は様々だということを前提としている。他にとられまいと引き止める業者よりは誠実ではないか。本書で桂子は結局建築家との対面作業に入ることになるとはいえ、そこにいたるまでの検討・思考は、どんな依頼先との家づくりであっても役に立つことだ。
一施主としての私は、一般論として依頼先は建築家が最高と主張するつもりはまったくないし、依頼先の選定は人それぞれ自由にさせてもらいたいとも思っている。
ただ、最終的にどんな依頼先を選定しようとも、「楽しみたい」のならば、依頼先の選定より前に、できるだけ自分の軸を確立しておくべきだとは施主側全般に伝えたいと思っていて、その点でジンのガイドには太鼓判を押したいのだ。

一部のパブリシティ本の筆者は、自分がよいと考えるやり方に読者(施主)を引き込もうとするあまり、部分的にでも施主の生活慣習や価値観を軽視したり、不安をあおったり、方向転換させようとしたりする言説を展開していることがある。施主は家づくりにおいては経験不足かもしれないが、自分の普段の暮らしにおいてはしっかりと経験を積んでいる。家の性能面の一般的評価なんぞものともせず、すばらしい生活をしている人もいる(こういう人とかこういう人)。
そういう暮らしの達人とは言わないまでも、ちゃんと生活している人に気に入った生活パターンを変えさせようと導くのは的外れな説教に近い。
私はある工務店主の書いた本を読んで、ハードとしては品質の高い家を建てるだろうと感想を持ったが、子育てや家族のコミュニケーションに対する考え方がかなりズレていたので「依頼先としては不適」と判断した。いくら性能が良くても、自分と異なる生活様式を優と決め付けた理論を元にした構造や間取りを押し付けられるのはゴメンだからだ。
ほんとうにくどいけれども、楽しんで家を建てるには、依頼先となる業者・業界人の論理・尺度を前提に自分が合わせるのではなく、自分の論理・価値観をまずは尊重(※4)してくれる依頼先を探すという順序であるべきなのだ。

誤解されないように言っておくが、すべてを自分の尺度に合わせるように依頼先に要求するのは無理というものだし、細かな部分まですべて自分では判断しきれないものでもある。
だから自分が大事にしたい部分についてはきっちり要求しても、そのほかの部分においては依頼先に主導権をゆだねることもアリ、である。
要するに、ゆだねていい部分とゆだねたくない部分というのも施主が判断すべきことなのだ。本書を読めばそういうこともそれとなくわかってくるだろう。


フェアーな判断の一助となるよう、私と朝妻さんの関係を少し公開しておく。
私の家づくりに朝妻さんはかかわっていない。私が家づくりをはじめて、blogをはじめてから、ネット上で知り合った。
「業界唯一完全独立系建築プロデューサー」という肩書きに少々ひきつつ(失礼)、気軽に意見交換させてもらった。その後オフで会ったら、実に魅力的な人物だった。
もしこの本が売れても私に金銭的利益はない(この広告もアフィリエイトではないし…)。ただ、朝妻さんの懐が豊かになった事実を知ったら、それとなく「一杯おごって」と言える間柄にあることは表明しておく。そういう意味で利害関係が完全な「0」(ゼロ)ではない。状況によってはある程度のリターン(※5)が得られるかもしれないのだ(笑)。
この「広告」にバイアスはあるかもしれないが、ビジネスではない一般人による広告行為であることはわかって欲しい。

(※1)何度も言っていることだが、「家づくり」は竣工までのことではない
(※2)建築家・設計事務所との家づくりもそれはそれで一つのシステムなのだけれど、他のやり方よりはシステマチックではないことを言い添えておきたい。例えば、素材や設備などの選択において、よりフリーな立場から出発するので、限られた選択肢からポンポンと選んでいくような流れにならない。施主がどういうモノを望むのか建築家に伝え、建築家は世の中にあまたある製品の中から施主に合いそうな製品の候補を絞り込んで施主に提示する。施主がそれに納得しなかったら別の製品を探す、または一から作る、というような工程だ。それは、よりマッチングを重視した作業なのだが、他のシステムほど効率的ではない(ゆえに時間がかかる)。どちらがいいかは価値観とスタンスの違いでなんともいえない。
(※3)建築家・設計事務所のことを良く知らないで、人から聞いた知識だけで敬遠する人はけっこう多い。逆に、勝手に都合の良いイメージを膨らませてギャップに落胆する人もいる。何より「知る」ことが大事だ。
(※4)「前提」ではなく「尊重」であることに注意。施主は知識不足ゆえに実現困難な要望をもつことは往々にしてある。丁寧な意見交換のあと変更することもありうる。
(※5)こういう状況の場合、アフィリエイト広告がもたらすスズメの涙ほどの報酬より、期待効果を大きく想定(想像ともいう)できて楽しめるわけである。