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家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

楳図かずお邸の建築現場報告

2008年03月15日 | 家について思ったことなど
これまで、楳図かずお邸について過去3回エントリを立てている手前(LINK1 LINK2 LINK3)、新しいニュースが入ったことを報告しておく。


asahi.comの記事↓。
「紅白しましま『まことちゃんハウス』、東京吉祥寺に完成」
http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY200803140052.html

写真を見る限りそんなにドギツイ感じはない。
マッチョメマンの塔もおとなしい(笑)。

しいて印象を言えばレゴブロック風か。


記事にちょっとツッコミ。

>漫画家の楳図(うめず)かずおさん(71)の自宅が、東京・吉祥寺の住宅街に完成した。

これは完成じゃないだろう。足場が取れたというべきだ。




第三の選択――小用姿勢をめぐるあらたな攻防ライン

2008年02月26日 | 家について思ったことなど
男性の小用姿勢において、かつては立ってするのがあたりまえだったが、最近は座って用をたす人が増えているとの情報は得ていた。ところが、ここへきて、「ひざ立ちション」なる新たな提案がなされたようである。

http://www.j-cast.com/2008/02/25017089.html

上記記事によると、洋式便器で男性が小用するときにひざ立ちしてできるように、ひざを置く台が商品化されているという。
使用方法、詳細は下記サイト参照のこと。
http://www.rakuten.co.jp/kaiteki-ken/1861570/

飛散防止のために放出口と受け口を近づけようという発想は、かつて私が提案した「小用姿勢の問題を解決する便器」の発想と同じだが、こちらのほうが安価に実現できている。
ただ、ズボンを脱がなくても出来るという点で座りションより簡易でいいが、「ひざ立ち」という中途半端な姿勢に甘んじなければならない。
私は「これぞまさに妥協の産物」という感想を持った。
商品説明の絵にあるように、小便器があってもこれを使うのだけは御免蒙りたい。

「立ち」と「飛散防止」の攻防における新たな提案に、世の男性たちはどう反応するだろうか。

歓迎できないパターナリズム

2007年12月22日 | 家について思ったことなど
「パターナリズム」 wikipediaより↓。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
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パターナリズム(英:paternalism)とは、強い立場にあるものが、弱い立場にあるものに対して、後者の利益になるとして、その後者の意志に反してでも、その行動に介入・干渉することをいう。日本語では「父権主義」「温情主義」などと訳される。
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↑簡単に言えば、父親が子供に「テレビばっかり見てないで勉強しろ」って言う行為。一見正しいが、物事はそんなに単純ではない。例えば30過ぎた子供に「早く結婚しろ」って言うような介入になってくると状況は変わってくる。さらに…
別の部分の引用↓。
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国家と個人の関係については、国家が国民の生命や財産を保護する義務を負っているのは当然であるにせよ、少なくとも心身の成熟した成人に対する過剰な介入が、いわば「余計なお節介」であるとして批判が加えられている。
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耐震強度偽装問題も、食品の賞味期限偽装も、産地偽装も、しでかした人間と組織に最大の問題と責任がある。マスコミは政府を批判するのが大好きで、すぐに国の姿勢を話題にするが、いい加減にしてほしい。一部の不心得者による被害を防ぐために、国が過剰に介入しようという方向にもっていくのは賛成しかねる。結果的につまらないパターナリズムから役人を増強し税金が増えるだけだ。
だいたいマスコミの大騒ぎを受けて出てくる政策にはろくなものが無い。
耐震強度偽装問題を受けた対策で建築着工が急減するなんて、誰かが言っていたが「羹(あつもの)にこりて膾(なます)をふく」ということわざを適用する典型的な場面のようだ。ふく必要のない「なます」をふいて時間ばかりがかかっているわけだから。

不心得をしない人間が大多数なのに、すべての人間を対象に(不心得しないように)事前に国が手取り足取り指導するのはムダが多すぎる。せいぜい不心得者に対し、不心得をすると割に合わないことをわからせるように罰則を強化するだけでいい。

そもそものパターナリズムには、強者の弱者に対する「愛」という背景がある。それがたとえ「勘違いした愛」であろうとも。
マスコミには国に対する愛が感じられない。国民の不満を一面的に取り上げて政府叩きばかりに精を出す。だから別の視点からみた国民への「副作用」に言及できない。
マスコミが大騒ぎした結果、政府から出てくる政策にも国民への愛は感じられない。まるで老親が息子の嫁に、浮気した息子の「更正」を約束する発言のようで、愛というよりは哀。

そんな愛すらない勘違いから出来上がった規制強化に賛成したり、期待したりするのはよしませんか。

200年住宅を普及させる実効的な案

2007年12月11日 | 家について思ったことなど
これまで「200年住宅」に関連して何回かエントリを書いているが、本当に200年もつ住宅がこれから出てくるのか、実は疑問を持っている。
それだけの長期間にわたって品質や強度を保証する建材とか、工法とか聞いたことはない。
補修やリフォームがあってはじめて200年もつのではないか。
また、仮に優れた建材と補修を前提に長寿が保証されていたとしても、「新しいもの好き」という住人の意識が「建て替え願望」を呼び起こし、長寿命の障害になりそうなことは以前のエントリで指摘している。(関連エントリ LINK1 LINK2

したがって「200年住宅」と銘打った住宅が出てきても、実際に200年もつのかどうかあやしい。それなのに、普及を促進するために現時点で政府が打ち出そうとしているのは取得後数年の固定資産税の軽減策(関連エントリ LINK)。
これでは、「200年もたせることが可能な住宅」の普及には役立つかもしれないが、実際に長寿命住宅を増やすのには大きな効果はないように私は思う。

では効果的な普及策とはなにか。
私は、(本当にもつかどうかわからない)「200年(もたせることが可能な)住宅」の取得時の優遇策より、現実に「築100年を超えた住宅」に優遇策を導入した方が長寿命化への効果は大きいと考える。
例えば、築100年超の住宅が建つ土地の相続・譲渡・売買に関する税を軽減する、なんていうのはどうか。受け渡す側も受け渡される側も優遇する。
そうすれば、長くもたせることのメリットがはっきり伝わる。
現状の日本では、土地の価値を算定する場面で、そこに築年数の古い建物が経つのはマイナス要因に他ならない。築年数が古い上屋は資産価値も算定されないし、解体費用が余計にかかるという理屈が付加される。
ところが、古い建物が建つ土地は税制面で優遇されるとなれば、話が変わってくるはずだ。住宅の所有者が「残していた方がいい」と判断できるケースが増えれば、実際に残すようになる。
100年という区切りが長すぎるのなら、築60年くらいから、長ければ長いほど優遇率を高くするような傾斜をつけた税制にすればいい。

このような政策を導入した場合に問題となるのは、築年数を偽る輩があらわれかねないことだ。そこで、築年数を公的に保証する「家暦書」の整備が重要になってくるだろう。



アーリーアダプターになれない人、ラガードにもならない人

2007年12月02日 | 家について思ったことなど
その後、社会全般に普及するものも、出発点から爆発的に普及するわけではない。
いくつかの段階を経て普及する。それを分析したものに「イノベーター理論」がある。

<イノベーター理論>
米スタンフォード大学の社会学者、エベレット・M・ロジャース教授が1962年に提唱したイノベーション(革新的技術)普及に関する理論。商品購入の態度を新商品購入の早い順に五つに分類したもの。
その5分類は以下の通り。http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/earlyadapter.htmlより引用。
■イノベーター(革新的採用者)
冒険的で、最初にイノベーションを採用する
■アーリーアダプター(初期採用者)
自ら情報を集め、判断を行う。多数採用者から尊敬を受ける
■アーリーマジョリティ(初期多数採用者)
比較的慎重で、初期採用者に相談するなどして追随的な採用行動を行う
■レイトマジョリティ(後期多数採用者)
うたぐり深く、世の中の普及状況を見て模倣的に採用する
■ラガード(採用遅滞者)
最も保守的・伝統的で、最後に採用する

このうち、イノベーターとアーリーアダプターを合わせた層(全体の16%といわれている)を超えて広がるとその商品は普及し始めるという。
ただし、アーリーアダプターとアーリーマジョリティの間には「キャズム」という大きな溝があると言われていて、これを乗り越えるのは簡単なことではないとされている。これを越えられないとマイナーどまりで、そのまま消滅するものもある。

イノベーター理論で、現在の日本の戸建て住宅における様々な要素がそれぞれどのあたりの層に普及しているのか、勝手なイメージで分類してみる。

[外断熱]
 アーリーマジョリティ層への普及がはじまったのではないか。大手ハウスメーカーの大和ハウスが本格的に採用して売り出し始めている↓のがその理由。
http://www.daiwahouse.co.jp/jutaku/shohin/xevo/
[オール電化]
 アーリーマジョリティ層での普及と推定。言葉の認知度は高いがレイトマジョリティまでシェアをとっている感じはない。新築マンションの場合はレイトマジョリティ段階にさしかかっているかも。
[太陽光発電]
 アーリーアダプター段階か。省エネ意識の高まりで普及はしているが、初期投資の高さ、太陽電池寿命への懸念などで新築住宅の一部の採用にとどまっている。大きな屋根にしにくい都会などではそもそも普及に限界がありそう。
[集成材]
 木造系ハウスメーカーでは集成材の使用がほぼデフォルトといっていい。レイトマジョリティ段階と推定。
[プレカット]
 ラガード段階か。今や大半の新築住宅がプレカットなので、もはや「これにしました」ととりたてて表明する人は少ないだろう。

上記は、あえて我が家で採用していない要素を挙げてみた。
このように、最後まで(かどうかは断定できないが)購入しない/採用しない層というものもある。
上記項目は我が家が採用しなかったものの、客観的に考えればこれからまだ世の中に普及するだろうし、定着もしていくだろうと読んでいる。

100%といわずとも結果的に9割方の人が採用しているものを採用しなかったということになったら、採用しなかった人は、変わり者か、へそ曲がりか、もの好きか、先見の明がなかったか、特殊事情があったか、ということになるだろうか。
逆に、半数以下の普及にとどまるようなものだったら、別に採用しなかったことは特に問題はなく、好みの問題ということでかたがつくだろう。
さらに、ほとんどの人が採用しなかったものはいわゆる「コケた」商品というわけで、採用した人の方が気恥ずかしい思いをする可能性もある。

ちなみに、我が家がイノベーターであるかもしれないものだってある。
[IH調理器]
IH調理器は現在、アーリーマジョリティ層に普及していると思うが、我が家はなんと「IH」という前、「電磁調理器」といっていた時代に、テーブルタイプの「ジョイクック」(ナショナル)を購入した(さすがに初代ではないが)。IHは失敗の歴史でもあり、本格的普及期に入ったのは最近のことである。以下サイトで「IHクッキングヒーターの歩み」を年号に注意して読んでみてほしい。
http://panasonic.co.jp/corp/news/official.data/data.dir/jn031113-2/jn031113-2.html
[ビルトイン食器洗浄機]
 旧宅でキッチンをリフォームしたときにビルトイン食器洗浄機を導入した。10数年前のことである。関連エントリ→「食洗機それぞれ

上記2点は広く普及期に入っているが、我が家はこれらの普及のスピードアップに一役買った実感はないのでアーリーアダプターではなく、イノベーターではないかと思っている次第。

イノベーターよりアーリーアダプターの方が尊敬を集めやすい。
冒頭に紹介したサイトでは以下のように買いてある。
「革新性という点ではイノベーターが一番高いが、極めて少数であるうえに価値観や感性が社会の平均から離れすぎており、全体に対する影響力はあまり大きくない。それに対してアーリーアダプターは社会全体の価値観からの乖離が小さく、そのイノベーションが価値適合的であるかどうかを判断し、新しい価値観や利用法を提示する役割を果たす存在となる。」
実際イノベーターが購入したものの、先鋭的過ぎて普及しなかったなんて例は少なくない。その点アーリーアダプター層まで広がってくるとヒット商品になる確率が高まる。
ヒットしたあかつきには、普及初期に目立っていたアーリーアダプターが時代の先駆者のようにもてはやされるわけだ。アーリーアダプターはオピニオンリーダーといわれることもある。

ただ、イノベーターやアーリーアダプターの中には、自分が採用したモノが本格的に普及したとたんにつまらなくなってしまい、それを放り出して別のものに目を向ける人というのが少なからずいる。
プロダクトライフサイクルがそもそも短いものならアーリーアダプターにノせられても面白いが、住宅のようなプロダクトライフサイクルが長い(長くしたい)ものの場合はアーリーアダプターの発言・意図をよくよく噛み砕いて考えなければならないと思う。
アーリーマジョリティとレイトマジョリティあたりは、いわゆる普通の人。総じてこういう人たちが建てる家がその時代における無難な「普通の家」ということになるのだろうか。
ラガードは、なんやかんやと後ろ向きだったのに結局採用しているあたり、先見の明がなかったといわれてもしょうがないように思う。ただ視点を変えれば、そういう層にもまで広がったものは時代のメインストリームになったということができるかもしれない。
広く普及しているのにラガードにすらならなかった人は、良く言えば独特の信念を貫いている人、悪く言えば分からず屋の頑固者ということになろうか。

住宅にはいろいろな側面があるので、個々の住宅を見ても一律には語れない。部分部分で時代より早かったり遅かったりしているところがきっとある。
また、設計者、施工者の影響を受けつつも、施主それぞれに、時代に先行している部分や、時代の流れに乗っている部分、時代から遅れている部分があるだろう。そして、革新性を理解しながらもあえて時代の流れに乗ろうとしない部分、だってあると思う。
その点やっぱり「住人十色」ということなのだろう。




イノベーター理論については以下のページが分かりやすいかもしれない。
http://www.mitsue.co.jp/case/concept/02.html
http://www.jmrlsi.co.jp/menu/yougo/my02/my0219.html



「三丁目の夕日」作戦の陰謀に気づく

2007年11月28日 | 家について思ったことなど
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がヒットし、最近公開された続編も話題を集めている。

原作はビッグコミックに連載されている西岸良平のマンガである。

最初の映画が封切られた時、「『三丁目の夕日』って、原作のほんとうのタイトルは『夕焼けの詩』っていうんだよ」なんていう中年サラリーマンまるだしのどうでもいい豆知識をつぶやきながらも、映画館に足を運ばなかったへそまがりは、どこのどいつだ~い、と、「にしおかすみこ」に問われれば、「私だよっ」と正直に告白する覚悟はある。

さて、それはそれとして、頻繁に流される「ALWAYS 続・三丁目の夕日」のTVCMを見ていて、私は国家的陰謀に気がついてしまった。

この映画をきっかけに、「昭和30年代の風景」が大はやりである。書店には、映画の原作ばかりではなく、グラフィカルに当時の風景を映し出したムック本がいくつも平積みされている。
オジサン・オバサンは懐かしがり、若者は自分の知らない時代への一時のタイムスリップを楽しんでいる。
レトロなものが魅力的に描写されていて、映画を見ていない私もこのムードは悪くない、などと思いながら、映画を宣伝するTVCMを見ていたときだ。
「まてよ、これはもしかして大衆を扇動する目的があるんじゃないか」との考えが頭に浮かんだ。

どんな目的が?
映画の動員数を上げようなどという誰にも分かる目的のことではない。
政府による「200年住宅」普及のための地ならしをしようという目的がひそんでいると見た(注)。

200年住宅に関連する以前のエントリで、私は以下のような指摘をした。
「200年住宅を現実化するためには、耐震強度や省エネ構造、スケルトンインフィルといった物理的要件を満たし、税制や住宅ローンなど経済的要件での後押しをするだけではだめ。古いものへの価値観、例えば築100年の家を『すばらしい』『カッコイイ』と思える価値観・文化を社会的に醸成するべきである。そして、たぶん、それに一番時間がかかる」

そう、上記でいうところの「時間がかかる」部分の対策についても、政府はひそかに着手していたのだ。
「三丁目の夕日」では特に住宅がクローズアップされているわけではないが、昔のもの、古いものの良さを観客の深層心理に植え込んでいる。こうしたことの積み重ねによって次第に「古いもの=ぼろいもの」「古いもの=かっこ悪いもの」という価値観を「古いもの=味のあるもの」「古いもの=かっこ良いもの」へと変化させていくという戦略。
あの時代の住宅の質は高かったとはいえないが、今の段階では、とりあえず「古いものもいいものだ」という価値観を醸成する方向に向かせさえすればいい。

日経新聞の今日の記事によると、政府は2008年度の税制改正で、200年住宅の普及のために固定資産税を4分の1にするという支援策をまとめた(↓)。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20071128AT3S2702027112007.html
こうした税制面での整備と同時に、価値観の醸成策もすでに取り組んでいたとすると、前回揶揄した自分を反省し、「福田、なかなかやるなあ」と素直にシャッポを脱いでしまおう(←昭和30年代の表現をあえて入れてみた)。

映画の関係者すら意識せずに、このような隠された意図のあるプロジェクトが、極秘裏に進められていたとすれば、日本政府はこの計画・実行をメフィスト・コンサルティング・グループに委託していると推測する。いろいろな人をいつのまにか何かの陰謀に加担させてしまうのは彼らが得意とする戦術だ。
メフィスト・コンサルティングは謀略を業とする組織だが、古い家を愛する私としては日本政府がクライアントになったこの陰謀については、乗せられてしまっても好都合である。
いや、むしろ既に知らないうちに工作員にさせられているかも。だったら、「何か報酬ください」ってとりあえず言っておこう。

なお、今回の「三丁目の夕日」作戦の実行責任者が誰かは知らないが、ひとこと注意しておく。

「コマーシャルの回数おおすぎ」 と。

たくさん流しすぎて、「オール電化」CMの陰謀が発覚した東電を他山の石とせよ。

あまり目立ちすぎると、そのうち岬元自衛官に気づかれて妨害されてしまうゾ。


注:今回のエントリは、このカレンダースケジュール(→LINK)の予定にしたがって書いた。



機器の魔力?

2007年11月26日 | 家について思ったことなど
産経新聞の企画記事に「溶けゆく日本人」シリーズというのがある。連載9回目の先日(23日)の見出しは「機器の魔力 便利さが自分を見失わせる」だった↓。
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/071123/sty0711230834001-n1.htm

カーナビ、携帯電話、PC、IH調理器に頼りすぎて「失敗」した事例が載っていた。
新聞記事というのはセンセーショナルに危機をあおることが多く、そのまま鵜呑みにしてはならない。
記事中で特に気になったのは以下のくだり。
「オール電化の家庭で育った小学生が、学校の理科の実験で燃焼器具のそばに不用意にノートを置き、燃やしてしまった。自宅では火の出ないIHクッキングヒーター(電磁調理器)を使っており、近くに本やノートを置いても問題はなく、火の怖さを理解していなかったのだ。ノートに火が移っても対処の仕方が分からず、友達が水をかけて火を消すのを、ぼんやりとながめていたという」

正直、IH調理器批判派の作り話ではないかと疑っている。
なぜなら、例えオール電化の家だとしても理科の実験で火を使う年齢までに、そこまで火の恐さを知りえないというのは相当にまれなケースだと思うから。
私の息子は、仏壇のろうそくの火がきれいに見えて、火に指を突っ込んで火の恐さを知った。
たしか1歳半くらいだったと思う。最近は仏壇もない家も多いけれど、誕生日などでケーキにろうそくを灯すなどの機会もある。火が危ないものであることを知る機会が皆無ということはまずなく、一回でも熱い思いをしたら火の恐さは刻み込まれる。

そんなこんなで事例に「まゆつば」感がある記事であるのだが、テーマの本質には基本的には賛同している。
記事中の
「快適さは一度手に入れたら簡単には手放せない。ものごとをよく考えることができる人でも機械がやってくれると頼ってしまう。快適な環境に置かれると、それまでの不便だった生活を忘れ、今の環境を当たり前だと受け止めてしまう」
という心療内科医の中川晶・大阪産業大学教授の指摘は、私がいつも気にしていることである。

私がIH調理器で気になるのは、「火の恐さを覚えられない」ことより、「火の使い方を覚えられない」こと。機械が何でもコントロールしてくれるので「火加減」というものを覚える必要がない。
既に「火加減」が何たるかを知っている大人ならIH調理器にしてもなんら問題はないが、最初から家庭にIH調理器しか存在しなければ、その家の子供たちは「火加減」を覚える機会がなくなる。
「火」を使える唯一の動物である人間が火を使えなくなったとしたら、それは個としてある面で退化していると思う。

IH調理器を導入するのは悪くない。ただ、その一方でもっと原始的な調理器「七輪」をも導入すればバランスがとれてよいと思う。
てんぷらなどの揚げ物は温度調節ができるIH調理器がとても便利でうまくできるが、焼き鳥や焼き魚など焼き物は炭火のほうがうまいものができる。そういう使い分けができるならそれはそれで進化といえると思う。
(ということで、最近、七輪の普及に一役かっているaiaiさんにトラックバック)



料理ではないが、「火加減」を覚えるなら薪ストーブを導入するのも効果的だ。

なお、薪ストーブを入れると「オール電化」契約をしない電力会社があるらしい。
私はIH調理器の利点を認めているが、そういう電力会社を知ればオール電化の導入はさらに後ろ向きにならざるを得ない。

姉歯問題とサブプライム問題を眺めて――ローリスクでやりたい放題

2007年11月14日 | 家について思ったことなど
姉歯元一級建築士による耐震強度偽装事件における東京地裁判決は、懲役5年、罰金180万円だった。姉歯被告は12日、この判決を「量刑が重過ぎる」として上告した。
殺人を犯したわけではないので一個人に負わせる量刑としてはこんなものなのかもしれないが、社会的損失を考えると「こんなものなの?」って感じる。
幾つのビルを取り壊したろう、何人が無駄な住宅ローンを負わされることになっただろう。
そして建築基準法の改正(改悪?)でどれほど着工が減ったことだろう。
全責任とは言わないが大半の責任がある人間の処罰がこの程度なのである。
社会的損失の大きさと比べるとやりきれない。

姉歯被告の判決よりもっと釈然としないのが、米国のサブプライムローン問題だ。
姉歯被告は偽装をしても「儲け」はたかが知れていたのに対し、サブプライムローン問題をここまで大きな問題にした人間達はそれまでにかなり儲けている。
返済能力が疑わしい人に信用を供与してローンを組んだ会社が起点になっているが、それよりも、そのローンを証券化した人間、その証券をろくに審査もせずに高い格付けを与えた格付け機関、その証券をレバレッジをきかせてファンドに組み入れた人間…、そういう人たちがリスクを何十倍も大きなものに膨らませていった。
信用力が低いのだから利回りが高いのは当たり前である。それが金融のプロによって証券化されてオブラートに包まれたようになり、まともそうな格付けが与えられる。それを運用担当者が購入する。結果論から見れば「誰が悪い」というより「みんなバカなことをやった」。
タチが悪いのは、当事者達は決して本当の「バカ」ではなく高学歴のエリートだったこと。
なんでそんなバカなことをエリート連中がやったんだ、といえば、「競争のため」というしかない。

そもそも彼らは悪いことをしているなどとは思っていない。誰よりも大きなリターンをとるために行動しているにすぎない。それが自分の報酬に直結するからだ。より大きなリターンを得るためにはリスクを覚悟しなければならない。ハイリスク・ハイリターンである。
リスクの大きさを推し量るために「格付け」があるが、その格付けもまったくあてにならないものであった。
格付け会社には構造的な問題がある。他の格付け会社より低い格付けを与えることが評判になると、お客(証券を発行する会社)が次第に逃げていくのである。したがって高めの格付けに誘導されやすい。
資金の運用者は、いい格付けで高い利回りの証券があれば購入したいと思うのは当然だが、そもそも利回りの高さと格付けの高さは相反する関係にある。そのことを疑問に思うべきではないか。それをレバレッジをきかせて組み入れたとしたら、運用者は商品のいびつさに目をつぶり、他の運用者との競争に勝つことだけを考えていたのではないだろうか。

マネーマーケットの住人達は高給取りだ。それは資金の出し手に高いリターンを供給することによって保証される。だから彼らは高いリターンにするため積極的にリスクをとる。
しかしこの問題を振り返ってみると、彼らにとってはハイリターンでローリスクだったのではないか。サブプライムローン関連商品のおかげでうまくいっているときは億単位のボーナスをもらっておきながら、問題が表面化して人から預かった運用資金に損失をもたらしても、最悪、会社をクビになるだけなのである。犯罪ではないので姉歯のような処罰もない。
何年か稼いで手元に何億円ほどもたまっていたとしたら、クビになることなんてたいして深刻なことではない。高水準のフロー(収入)がなくなるものの、高水準のストック(資産)は残る。
ローンを組んで破綻した住人のほうは、住宅を手放したうえ借金がまだ残ることになる。フロー(それも高い水準でない)は持続するかもしれないが、ストックは根こそぎ奪われる。ローンを組む前より悪い状態だ。得られたリターンといえば、自分の信用力では本来は手に入れることのできなかった住宅を購入して短期間、夢をみることができたというだけ。

なにか、おかしい気がする。

サブプライム関連商品で報酬を得た人の社会的な貢献を見てみると、自分の所属する金融業界のみならず、米国の住宅業界に好景気にをもたらした。建設業者や建材業者、不動産屋を儲けさせたし、雇用も創出しただろう。後の悪い結果を考えなければその時点では評価されていい。勇気のあるものがリスクをとることで社会がよくなったならばふさわしい報酬を得る資格はある。

しかし…
仕事に対する報酬というものは誰かの役に立ったときにもたらされるべきなのだが、逆に人に被害を与えたら責任をとるべきではないのか。
製造業にはPL法というのがある。製造物責任というヤツだ。欠陥品を作って提供したら、被害の内容に応じて賠償しなければならない。
金融商品にもこれを当てはめることはできないだろうか。
返済能力のないのが分かって組んだローン商品、破綻するリスクを過小評価したローン証券化商品、その証券に不釣合いな格付け、そんな証券を組み込んだファンド…、みんな誰かが作った商品だ。製造物とはいえないのだろうか。
実はリスクが大きかった高格付け商品なんて、廃鶏を使った比内地鶏商品と同じだ。

外資系金融機関の報酬の与え方にも問題があるとも思う。
短期間に稼いだ利益を短期間で評価して報酬を与える――、商材によってはそれでもいいかもしれないが、ローンのように長い時間をかけて決済するものを絡めた商品を作って、短期間に儲けたとして、それに対する報酬を一度に与えていいのだろうか。決済し終わるまで「最終的に」人の役に立ったとは言いがたいのに、売った時点だけの儲けで巨額の報酬を与えているのである。
その報酬が巨額なだけに、「無茶をしたもの勝ち」な状況になっている。そしてその「無茶」には、とても一人では背負いきれない被害をもたらすリスクをはらんでいる。

それを踏まえたうえで、どうしたらいいか考えてみた。

まず、金融商品にも製造物責任の考え方を導入する。
商品の責任者には、当初もたらしたリターンを評価して支払う報酬(ボーナス)は巨額になってもいい。ただし年金のように月単位で、組み込んだローン商品の期間に比例するような期間で報酬を支払う。
そして、後になって商品に欠陥が見つかったら、売り出した会社が責任度合いに応じて「被害者への補償」をすることとする。商品の担当者に対しては、そのあとの年金的報酬の支払いを減額ないし停止する。会社から見たら、社内の「責任者」に対して支払う予定だった巨額の報酬の残り分を、「被害者への補償」の一部にあてることができるというわけだ。
被害額によってはボーナスのみならず、基本給も減額、さらにコンプライアンスに違反していたら担当者個人に法的に損害賠償を求める。
このくらいにすれば、商品の開発者に社会的責任感が生まれ「無茶」が抑制される。逆に、真に「いい仕事」をしさえすれば最終的にはしっかりと大きな報酬を得られる。

例によって妄想的思い付きで、実現可能性がどんなものかは分からないが、耐震偽装問題のときに考えた「今後の」対応策と同様、自分なりにちょっと面白い「今後の」対応策ではないかと思っている。むろん、私は業界の人間でも当局の人間でもないので何の実行力も持っていない。問題を解決したい誰かのヒントになったらうれしいという程度のものである。



「認知的不協和」な家づくり指南

2007年11月05日 | 家について思ったことなど
「認知的不協和」(はてなダイアリーより)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%C5%AA%C9%D4%B6%A8%CF%C2
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心理学の用語。

1975年、アメリカの社会心理学者フェスティンガーが提唱。
人は何らかの物事に遭遇した場合(認知)、それが自分が持っている「認知」と相容れない場合(不協和)、その「不協和」を解消しようとすること。(不協和の逓減)

不協和の逓減には以下の3つがある。
1「認知」を変える(現実を変えたり、考えを変える)
2「認知」の重要性を低くする(事実を軽視したり、無視する)
3新しい「認知」を追加する(屁理屈や問題のすりかえ)
1や2のように、「変化」をさせたり「否定」をすることはコストが高いため、実際には、3が選択されることが多い。
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例えば、クルマを買った人は、別のクルマではなく、買ったクルマのカタログやチラシを眺めることが多いという。「自分が買ったクルマより、もっといいクルマがでているんじゃないか」「もっと安く買えたんじゃないか」と気になる。これが認知的不協和で、買ったクルマのカタログやチラシを見るのも自分の選択が正しかったと思いたいがために、認知的不協和の逓減を図ろうとする行為というわけである。

人間というものは認知的不協和を逓減するために自分に都合のいい解釈をしがちなのである。
その解釈は決して間違っていると言い切れるわけでもなく、プラス・マイナスそれぞれの要素があった場合、プラス面を重要視し、マイナス面を軽視する、といったようなもの。
それは決して計算づくの行動ともいえない。自分が選んだものを信じているから、その人の目にはプラス要因がすばらしいものに見え、マイナス要因は大して気にしなくていいものに見えているのである。

家づくりの世界でも、そうした「認知的不協和」が絡んだシーンを見かける。
例えば、「○○工法」を採用したビルダーも、そのビルダーに建ててもらった施主も、自分の選択を信じようと「○○工法」にいろいろな理論や物語を肉付けする。プラス面を賞賛するコメントを無批判に歓迎し、マイナス面についての指摘には目をつむったり、直接関係のない理論や他の条件が付随しないと弱点を回避できない理論を持ち出したりする。
対象は別に「○○工法」に限らず、建材だったり、依頼先の業態だったり、人間そのものだったりもする。

人間は普段もなにげなく、認知的不協和に端を発する行動をしているもの。特に人に指南するシーンで認知的不協和が変に絡んでくるとミスリードの恐れが出てくる。
それを客観的に意識しておきたい。

「これしかない」というような強い思いは行動のエネルギー源にもなるが、その思いが行き過ぎると他人による別の選択を許さない原理主義者のようになってしまうことに注意したい。
だから私は家づくりに絡んだ様々な指南について、「これがいい」という指南はさらりと読んでも、「これしかない」といっているかのごとき指南は注意して読むようにしている。
「これがいい」というのは別の「いいもの」の存在を許諾する余裕があるのに対し、「これしかない」というのは、それ以外の選択肢を劣っているものとみなしている。それを一般論にしようというのは原理主義的宗教と似たような空気を感じるのだ。

家を建て終わった私も、ブログなどにおいて多かれ少なかれ「認知的不協和の逓減」的な行動をしていると考えられる。
ただし、「これしかない」と思っても、あくまで「自分にとって」という前提をおいて、原理主義に陥らないよう注意し客観性を維持しようと思っている。
その反動として、万人に対して「これしかない」って言っているような家づくり指南に批判的なのかもしれない。



ガスの日に家庭のエネルギー源を考える

2007年10月31日 | 家について思ったことなど
10月31日は「ガスの日」。
以下にガスに絡んだ昔のエントリを紹介。
ガスコンロ
オール電化「CM」批判  (注:ガスに関連する文が多いのは本文よりコメント欄)

「ガスの日」にいうのもなんだが、オール電化に関して、その後新しい(といっても7月ごろの話)検討材料が出た。
例の柏崎刈羽原発事故である。この事故を受けて東電はオール電化のCMを自粛した。夏場の電気使用を抑えるよう要請する手前、流しにくくなったということだ。
私は過去のエントリで表明したように「東電の」オール電化「CM」に批判的だったので、自粛を歓迎した。
私は、CMはともかく「オール電化」そのものについて批判するような姿勢ではないものの、個人として導入には後ろ向きだった。
理由は、上記紹介エントリにあるようにガスコンロを施主支給することにしていたことのほかに、家庭内のエネルギー源を一本化することに抵抗感があったためだ(関連エントリ→LINK)。
この抵抗感は具体的に原発事故まで想定していたわけではないが、こうして事故が起こってみれば、漠然とした抵抗感もあながちはずれていなかったように思う。
事故だけではない。今月26日には住民による浜岡原発の運転差し止め訴訟の判決があった。今回、棄却はされたものの、どこかの原発に対して差し止め請求が通れば電力供給量が大幅にダウンすることになるだろう。
原発依存度をこれ以上高めたくない人(私もそう)は多いし、家庭のエネルギー源を一本化することのリスクはそんなに小さくはない。リスクヘッジ手段は持っていたほうがいい。今回は電気の世界で起きたが、ガスの世界でも供給に支障がでるような何かが起きる恐れはある。

さて、我が家はガスコンロのほかにヘンなものを施主支給している。床下に「炭」を自家製造して敷いたのだ(詳しくは過去のエントリ→LINKを参照のほど)。
この床下炭は主に調湿を目的としているのだが、実は別の隠れた目的もある。
ここまでくれば推測がつくかもしれないが、「非常時のエネルギー源になる」ということである。
我が家には七輪も長火鉢もある。炭は床下に240袋も敷いてある。これだけあれば非常時にご近所さんまで助けることができる。電気もガスも止まる事態は起きてほしくはないが、「第三のエネルギー源」を持っていることで少しは安心感があるのであった。

残したいものがある家

2007年10月19日 | 家について思ったことなど

この柱は残したい
この壁は残したい
この天井は残したい
この廊下は残したい
この梁・桁は残したい
この建具は残したい
この塀は残したい
このカウンターは残したい
この部屋は残したい
この家の輪郭は残したい
この庭木・庭石は残したい

新しいうちは残すも残さないもないけれど、古くなっても残したいものがたくさんある家は(少なくともその家族にとって)「いい家」なんだと思う。

そういう家になってほしい。


楳図邸判決で考えたこと

2007年10月12日 | 家について思ったことなど
楳図かずお邸の建築差し止め仮処分申し立て(関連エントリ→LINK1 LINK2)に対し、東京地裁は12日、申し立てを却下する決定を出した。
(詳細は下記リンク記事を参照のほど)

漫画家・楳図かずおさんの自宅問題、住民側の建築差し止め却下
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071012i307.htm?from=main3

私は、施主の楳図かずおという人間の社会遺産的価値を鑑みて、どちらかというと建ったほうが面白いだろうなあと思っていたので、この決定に特に不服はない。
ただ、いろいろと気になったことがある。

まず、記事中の
「決定で、森淳子裁判官は『建物は社会的に容認される範囲内』とする判断を示した。」
という部分。
違法建築かどうかの判定ならともかく、外観について「社会的に容認される」か否かを判断するのが裁判官という職種でいいのだろうか、ということ。
森淳子裁判官は常識的な美的センスを兼ね備えているのだろうか。また、美的センスが違う裁判官だったら判決が変わったりするのだろうか。

次に、
「楳図さん側は、『建物も作品であり、自己表現の場。建物の色やデザインは近隣住民の権利を侵害しない』などと反論していた。」
という部分。
過去に、建築家が設計した住宅を「作品」と呼ぶことについて思うことを書いたことがある(→LINK)。
明らかに「施主の作品」というべき楳図邸によって、「作品呼称問題」に新しい切り口があることに気づいた。
楳図邸の例から考えれば、設計のプロではない一般施主がハウスメーカーに依頼して家を建てる場合(楳図邸は住友林業という大手ハウスメーカーの施工である)でも、外観等の仕様に施主のオリジナリティが色濃く現れるならば、施主による「作品」と呼んでいいわけである。
こう考えると、オリジナリティのある住宅ならば「作品」と位置づけられるのは別におかしなことではない。
いいかえるとこういうことになる。
「建築が『作品』であるか否かは、建築家が設計したかどうかによって決まるのではなく、オリジナリティの有無によって決まる」


ただし、住人の立場としては家を「作品」と呼ぶ・呼ばれるのはやはりしっくりこないように思う(笑)。

大人と子供と家――「オン」と「オフ」の違い

2007年10月10日 | 家について思ったことなど
大人の場合、職場がオンタイム、家はオフタイムと区分けすることができるが、子供の場合はオン・オフの区別はあいまいないし柔軟だ。学校でオフ(遊び)になることもあるし、家でオン(勉強)になることもある。また「遊び」から身につける能力もあり、成長するのが仕事である子供にとって、なにがオンでなにがオフとも判断しにくかったりする。
子供はあらゆるものから学んだり、鍛えられたりするが、すでにある程度の能力を身につけてしまった大人はそうでもない。大人と子供ではオンとオフの状況に違いがあって当然に思う。
そして、子供に限らないが人間が成長するためには刺激が必要だ。
刺激の中には環境変化もある。ストレスとかプレッシャー(負荷)は心理的には敬遠したいとは思うが、理性で考えれば、ストレスやプレッシャーがまったく無くなったら人間は成長もしないし、堕落する恐れもある。逃げるだけでなく、うまくつきあっていくことが重要だと思っている。

漠とした変な前振りになってしまった気がするので、そそくさと本題に移ろう。

基本的に、家は家族がやすらぐ場だと思っている。
だからできるだけ気持ちのいい、くつろげる場所であったほうがいい。
ただし、気持ちよさにもいろいろあると思うし、どこまでも快適さを追求し続けることについては疑問がある。
考えたいのは、大人の快適と子供の快適は違うということ。
そして、子供を「大人の快適さ」に浸らせっぱなしにしていいのか、ということ。

私が家を建てるにあたっては、「誰でも老人になるということを考えよ」というアドバイスに納得した。だから、家の性能の重要さを意識した。
しかし、よく考えるとそればかりではいけないと気づいた。「大人、老人が快適に感じる環境」というのは子供にとってもよい環境か、という問題意識がわいてきたのだ。
快適にもいろいろあるが、特に子供にとって、「身体的負荷をなくすことによって得られる快適さ」というのは要注意だと思う。
子供の場合、どんなところに成長のためのタネが転がっているか分からない。大人の好みで、なにげない負荷まで排除した快適空間を作り出し、そこに子供を浸らせたら成長が阻害されたりはしないかということを考える。
私達が子供だったころ、季節の移り変わりによって家の中にもそこそこの負荷があった。今の子供はそうした負荷から開放されることで、私達が何も意識しなくて自然に身につけたことが身につけられなくなるかもしれない。

先日、こんなニュース↓を読んだ。
(読売新聞ニュースサイトより)
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/kyousei_news/20071008-OYT8T00076.htm
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子供の体力 危機的レベル
ゲーム遊びや塾通い 運動不足定着

 小学生の運動能力は20年前をピークに低下し始め、ここ10年間は低水準のまま推移していることが7日、文部科学省が公表した「2006年度体力・運動能力調査」の結果で明らかになった。
 同省は現状について、「これ以上下がりようがない危機的な水準ではないか」と指摘している。

(中略)

 文科省生涯スポーツ課は、「真っすぐ走れなかったり、飛んできたボールをよけられずにケガをしたりする子供も多い。運動能力の低下傾向に歯止めがかかったというより、最低限のレベルまで落ちてしまったと考えるべきではないか」とする。原因としては、ゲーム機の普及や塾通いなどで、運動不足の生活が定着していることを挙げている。
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記事には「これ以上、下がりようがない危機的な水準ではないか」というコメントがあるが、私は今後まだ身体能力が下がるかもしれないと危惧している。運動能力というよりストレス耐性が弱くなる方向で…。
その要因になりそうなのが、大人にとっての快適さを追求する高性能住宅の普及である。
これまで家作りに関する情報を見ていて、「超高性能住宅で負荷のない環境で暮らすことが子供をひよわにしかねない」という警鐘に対し、「子供というものは外で鍛えるものだ」という反論があったことをいくつかの場所で目にしている。
「なるほど、たしかに別の場所で意識的に子供を鍛えればいい」と、その時点ではおおむね納得していたのだが、この記事を見れば、我が家はともかく社会的にはそれもなかなかに難しい情勢になっていると思える。そして良く考えたら、子供はオンとオフの境界があいまいなのである。
親が何も気にしないで、子供をぬるま湯のような環境に置き、ゲームばかりやるのを許していたりしたら、基本的身体能力すら身につけにくくなりはしないだろうかと危惧する。

大人向きにどこまでも負荷を軽減しようとする風潮と、子育ての関係には注意しておきたいと思っている。行き着くところまでいったら、逆に三鷹天命反転住宅(関連エントリ→LINK)のように、家の中にわざと負荷を作り出すようになるかもしれない。

新築した我が家も、「超」とまではいえないが結構高性能化している。家を「閉じる」ことで身体負荷が小さい環境を以前より容易に作り出せるようになった。
ところが、我が家は窓を開けていることが多い(注)。風が抜けるように越屋根地窓もある。

それは季節感を積極的に享受したいとか、風が好きというような動機だけではなく、ちょっぴり子供のことも意識しているのだ。



(注)さすがに真夏や真冬に開けっ放しなんてことはない。


住宅価格の変動のしかた

2007年10月03日 | 家について思ったことなど
昨日のエントリで、欧米の中古住宅市場のことを好意的に紹介したものの、ミスリードする恐れに気づいたので補足しておく。

少なくとも米国においては、現在、住宅価格が下落している。
そう、最近話題のサブプライムローン問題がその背景にある。住宅の購入が難しかった低所得層に住宅ローンを組ませたことが住宅価格の上昇をあおる一因となり、住宅価格の上昇に陰りが出てくると、行き過ぎた信用供与がアダになってローン返済が困難になった人が住宅を手放し、市場に放出されることになった。なまじ住宅の売買市場が発達しているだけに供給がダブつけば中古住宅の価格も簡単に下落するわけである。
こうなると、いかに家を手入れしていい状態を保ったとしても、資産価値の劣化は免れない。いかに「よいもの」であっても市場における需給の原則の前には金額的な価値は保証されない。

サブプライム問題はこれからむしろ大きな時限爆弾が破裂すると言われている。クレジットクランチの行末はともかく米国の住宅相場の先行きは暗い。

じゃあ、日本のほうがリスクがなくてよいのか、というとそんなことはない。
そもそも日本では、家屋を新築したとたんに、ほっといても家屋の資産価値がエスカレーター式に劣化していく仕組みになっている。これはリスク以外のなにものでもない。
それに、やはり需要が供給を大きく上回れば価格は下落する。
足元を見れば、業者が、日銀の利上げや消費税の税率アップを読んで駆け込み需要を狙って仕込んだ物件が大量にあり、それが当てが外れて在庫整理に動くと言われている。やはり住宅相場の先行きは明るくない。

まあ日本では、住宅取得後に値上がりするなんてそもそも期待していない分、個人は痛手とは思わないかもしれない(相当に安い物件が出てきたら「待てばよかった」と思うかもしれないが…)。また、これから家を…と考えている個人からしてみても、価格が抑えられてラッキーとも言える。
つらいのは住宅業界。駆け込み需要での一儲けを企んだ業者から損失覚悟の在庫整理物件が出終わったあとに、利上げや消費税率の上げがあったら、住宅市場は相当に冷え込む。
荒れ模様のなか、良質な造り手が淘汰されたりしないことを願う。


セカンダリーを考えない国民性――あるはずの価値が生まれない

2007年10月02日 | 家について思ったことなど
日本で中古住宅市場が発達しないのは日本人の性向と関係しているのはたぶん間違いない。
住宅とは違う市場を見ても、それがうかがい知れる。例えば、企業が発行する社債もプライマリー(新規発行)市場はそこそこの規模はあるが、既発行債のセカンダリー(流通)市場はとても貧弱だ。
日本人が「初物好き」「新品好き」というのはよく言われることだが、もうひとつ「寝かせる・塩漬けする」のも好きなのではないか。
いや、もしかしたら単に「めんどくさがり屋」なのかもしれない。
周囲の人と比較して相対的に損しないで「買う」ことに全精力を注ぎ、あとは余計な労力は使わずただ持ち続けるだけ、というような考え。そこには、買った時点より価値を高める発想は見受けられない。

以前のエントリ「住めば住むほど得する住宅」で紹介したように、欧米では家の資産価値を今以上に高める努力をする人々が多い。だからこそセカンダリーマーケットがちゃんと機能する。

プライマリーマーケットでの価値しか考えない日本は、総体として大きな損をしていると思う。「家の価値を高める」ということは国の経済にとっても大きな意味があることなのに…。

例えば、日本の住宅着工件数はここのところ1月あたり10万戸前後で推移しているが、仮に一棟2500万円として計算したら、10万戸なら2兆5000億円、1年なら30兆円の資産となる。
この額を念頭におきながら、年をおうごとに一律に価値を落としていく日本と、価値を維持ないし上昇させている欧米とを比べれば、国全体としての資産形成でどんどん差が付けられていくことが実感できるのではないか。

日本の家にだって価値を高められるポテンシャルがある。それなのに一律に築年ごとに価値が下がるという乱暴な制度(税制)と未熟なセカンダリーマーケットのおかげで国全体の資産価値も上がらない。ものすごくもったいないことのように思える。
古い家だって、市場がしっかりしていれば市場価格がつき、ちゃんと資産価値を生み出せるはず。現在、資産価値がないのは家のせいではなく市場のせいなのだ。未熟な市場が価値を創出できないのであれば、一個人として価値を認識するのみ。
世間は価値を理解しなくとも自分が理解できれば豊かに暮らせる。そして、いつかまっとうな市場になることを想像して大事に家を維持していこうと思う。


  「人間の定義とは何か? 価値という観念を理解するかしないかだ」
      冲方丁 「マルドゥック・スクランブル」より