monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインagainその52
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 わたしたちの住んでいた家の日本人大家さん、エディ・辻本氏がその前年に老齢で亡くなりわたしはその柩を霊柩車に運び込み、仏式の葬式に出席した。それでこの十年間にアメリカで経験すべきことほとんどを済ませたようだった。そしてわたしたちは発展のために一旦日本に帰って再出発をすることを決めてあれこれ帰国の用意を始めていた。

 そんなある日、息子が「カラテキッド2」のオーデションの時に所属した事務所から電話がかかってきた。今度、エディー・マーフィー主演でゴールデン・チャイルド 役の子のスタント(代役)を息子にやってほしいというのだ。子役は学業などの関係でひとつの役を交代に演じるらしかった。

 チベットの少年僧の役なので頭を剃ってほしいという。たしかに坊主頭にしてしまえばみんな似たように見えるかも知れないと思った。でももうすぐ日本に帰国するつもりだし息子につきあっていると帰国が遅れるし、とちらっと考えた。それで息子に訊いてみた「頭を剃って映画に出る?」と。しかし息子は頭を剃るということがどういうことかピンとこないようなので「マルコメ味噌の宣伝の子供みたいな頭にして映画に出るかい?」と言い直した。するといやがった。こんな子供でもやっぱり坊主頭はいやなのかとちょっと感心しながら「息子はノー、といっています」とわたしはエージェントに伝えた。

 するとエージェントはあわてて、出演料は3000ドルですよ、と言い出した。その頃の3000ドルはかなり価値があった。しかしわたしは息子の意志を尊重してあらためて断った。何度も翻意を促そうとエージェントは3000ドルを繰り返していたが、わたしはこれでもう映画の撮影の関係で帰国予定が狂うことはない。あの撮影所に長時間縛られずにすむ、となんだかほっとしていた。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその51
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そのころのアメリカは子供の誘拐が流行っていて物騒だった。ミルクのパッケージに「ミッシング・チルドレン」として行方不明の子供たちの写真が印刷されていつも市民の情報を求めていた。それで親たちは自衛のためにキンダーガートゥンや小学校に子供を送り迎えしていた。わたしたちも息子の幼稚園小学校時代、送り迎えしていた。空手道場は小学校二年の子供が歩いて通うにはガラが悪い地区なのでその道場にも車で送っていった。映画「カラテキッド」の影響で道場は盛況だった。地区のせいかラテン系の生徒が多かった。そしてつぎにコリアン系が多く、黒人の生徒はひとりだった。わたしはいつも窓から稽古風景を見学していた。するとだんだんかれらの勢力図が見えてきた。先生のいうことをなかなかきかないラテン系のリーダーがいてみんなをしきっていた。どこにでも悪ガキはいる。

 ある日、そのラテン系の生徒に練習をまかせて先生が休んだことがあった。わたしがいつものように息子を連れて行くとかれはみんなで遊び始めた。空手ではなくレスリングのようにつかみ合いして投げ合うのだ。わたしを子供の送迎をする甘いただの「親ばか」とみなしてべつに目の前で遊ぼうが平気だったらしい。

  先生のいないのをいいことにわたしはその日初めてその道場に上がり、道着を貸してもらった。十数年ぶりに帯を締めてみんなにかかってこさせた。本気でつぎからつぎにつかみかかってくる生徒たちを全部柔道でひょいひょいと投げると、かれらはどうして歯が立たないのか不思議がっていた。わたしは中学高校と6年間柔道をやっただけだが日本でなんらかの武道の修業をした人にとってそんなことは不思議ではない。海外にいる日本人をみかけで判断するとえらい目にあう。かれらはサムライの魂をもって海外で活躍しているのだから。
fumio


 

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カリフォルニアサンシャインagainその50
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 宮下富実夫は81年に自分のユニット「富実夫FUMIO」をふたりの気のいい黒人、向かって左LANCE FOOKS(guitar) と右CALVIN HARDY(bass)とで結成して「DIGITAL CITY」というポップなアルバムを作った。「DIGITAL CITY」 の見本盤を見ると宮下は「to fumio yamashita family FUMIO富実夫1981 10 31 」と細いペンで手書きしている。そしてしばらくしてかれはアメリカを去った。それから日本での本格的活動が始まる。宮下の歩むべき道はアメリカではなく日本に用意されていたのである。
fumio



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