monologue
夜明けに向けて
 




しばらく、2A06病室で生活していると犬塚健市氏が退院するという声が聞こえてきた。
犬塚健市氏は89才という高齢の患者でヘルパーや看護師に「ワンちゃん」と呼ばれて親しまれていた。
わたしが前にいた、2B06病室の場合は急性の患者を収容していたので入院後すぐに治って退院する患者があった。わたしはその時、名前も知らないうちに退院する患者に、良かったね、という祝福の気持ちと残される者として羨ましく感じたり仲間の去る一抹の寂しさを感じたりしたものだった。

2A06病室の犬塚健市氏は慢性期の患者でかなり療養生活が長かったようだ。担当医師やヘルパーや看護師は「ワンちゃん」の退院をどのように感じているのか「おめでとう」や、「お元気で」と普通に送るだけなのだろうかと思った。それではなにか物足りないような気がした。その日が来て退院の前に看護師が犬塚氏の検温をすると体温が高かった。それで犬塚氏は静養することになりその日の退院が見送られたのだ。みんな、退院の日に風邪をひいてはいけないとかなんとかいいながらなんだかほっとしたような雰囲気が漂った。わたしはその時、犬塚氏はよほど親しまれていたのだなと思った。
しかし、やっぱり退院の日は来て犬塚氏は今度は熱を出すこともなかった。わたしは入口左の犬塚健市氏のところへ車椅子で行って「おめでとうございます、これから素晴らしい余生をお過ごしください」と声をかけた。
fumio



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