先日、地下鉄の車内で、なんとなく元気のなさそうな
青い顔の若い男の方が、ドアに背中を預けていて、何か
の間違いで、ドアが開いたら、彼はドアの外に放り出さ
れてしまうかもしれないと、気になったのだが、ちょっ
と離れていたし、私は気にしながらも、すぐ降りてしま
ったのだが、どうもドアにもたれている人を見ると
気になって仕方がない。
戦後、満員電車が、カーブに差し掛かった際に、ドアが
急に開いて、ドアに寄りかかっていた男性達が外に放
り出されて、亡くなった事件を思い出すからである。
大勢の方が外に放り出されたようなのだが、その一番
下になられたお二人が亡くなった。
多分、その頃の混みようはひどかったから、カーブに
差し掛かった際に、大勢の人が、そのドアに寄りかかる
ような感じになって、ドアが持ちこたえられなかったの
ではないだろうか。
その後はそんなことを聞いたことはないから、心配する
必要もないのかもしれないが、最近、あまりラッシュ
アワーに電車に乗ることがなくなったので、どのくらい
の混みようかわからないが、どう考えても、戦後すぐの
電車事情とは雲泥の差があるだろう。
戦後すぐの頃、私は女学生で、京浜急行の屏風ヶ浦駅近く
に住んでいて、屏風ヶ浦から平沼駅まで、毎日京浜急行
電車を利用して通学していたのだが、その頃の混みよう
ってなかった。その頃の人たちはとても思いやりがあり、
小さな私のことを、見ず知らずの方々がよく助けてくだ
さった。
女学校の4年生といえば、今では高校一年生、結構体格
では成人並か、それ以上でしょうが、その頃の私は栄養
失調、坂道を登る時には膝もがくがくしていたような
状態で、背もなかなか伸びず、祖母が千恵子はだんだん
小さくなっているのではないかと心配してくれたほど。
周りの方が、心配して次の駅で降りるから、あんた、
此処へ座りなさいと言って下さることも多かった。
本当にご親切はありがたいと思っていたが、実は坐る
のもあまり楽ではなかったのである。
何故かというと、その頃の椅子には、シートというものが
なかったのである。
いや、そもそも、電車の車両が作られた頃にはぴっかぴか
の立派な車両で、現代の電車と、そんなに違いはなかった
のだが、戦時中の何もない時代を経たおかげで、車輌は
傷み放題、その上、戦後、仕事のない人々が、占領軍の
兵士たちの靴磨きをして、何とか生計を立てていたこと
もあって、車輌のシートが靴磨き用の布にちょうどいい
ということを思いついたらしく、最初はほんの20センチ
四方ぐらいの大きさで切り取られていたのだが、そのうち、
だんだん大胆になり、座席の大きさのシートが切り取られ
るようになってしまい、ついには、シートがなくなり、
勿論クッシヨンもなくなり、板が張られているだけの椅子
になってしまっていたのである。
だから、膝の位置が前に立っておられる方々の膝の高さと
ほぼ同じで、電車が発車したり,止まったりする時には
膝と膝が強くこすりあう形になり、下にクッションはない
から、とても痛かった。
その頃には誰からともなく”立て!、立て!”と声が掛かり
椅子の上に総立ちとなる。 椅子の上に立つといっても、
それこそ鈴なりなのである。だから私としては、椅子の上に
立っている人の前面というか、床に立っている人の頭の上に
少し乗り出しているような格好のときが胸を圧迫されないの
で、一番楽であったのだ。
時間帯によっては、同じ混雑でも混雑の意味が違ってくる。
朝6時半頃の工場へ出勤される殿方が多い時には、最悪の状態
になる。 何故かと言えば、男性は体が硬いので、女性が
少しでも乗っている時間帯であれば、ちょっとはゆとりができる
のだが、男性ばかりの間に挟まってしまうと、鉄板の間に挟まれ
ているような感じにさえなるのだ。たまたま、背の高い方の後ろ
に立つことになるともう大変だ。 背中に顔が押し付けられたり
でもしたら、息することもできなくなるという訳。
あるとき週番で朝早く家を出て、工員さんばかりが多く乗って
いる車両に乗ってしまったら、その後猛烈に混んできて、危険
だから途中で降りたいと思っても、身動きすらできない有様。
胸が苦しくて、はーはー言っていたら、隣のおじさんが、
”大変だ。 この子が死んでしまいそうだ!”
と叫んでくれて、周りの人々と、
”よいしょ。 よいしょ”と言いながら、押し返し てくれたの
である。 私は有難くて、大きな声でお礼が言いたかったが、
如何せん、胸が痛くて、やっと小さな声でお礼を言って下車した
が、その後、当分の間、胸が痛くて閉口した記憶がある。
(続く)
青い顔の若い男の方が、ドアに背中を預けていて、何か
の間違いで、ドアが開いたら、彼はドアの外に放り出さ
れてしまうかもしれないと、気になったのだが、ちょっ
と離れていたし、私は気にしながらも、すぐ降りてしま
ったのだが、どうもドアにもたれている人を見ると
気になって仕方がない。
戦後、満員電車が、カーブに差し掛かった際に、ドアが
急に開いて、ドアに寄りかかっていた男性達が外に放
り出されて、亡くなった事件を思い出すからである。
大勢の方が外に放り出されたようなのだが、その一番
下になられたお二人が亡くなった。
多分、その頃の混みようはひどかったから、カーブに
差し掛かった際に、大勢の人が、そのドアに寄りかかる
ような感じになって、ドアが持ちこたえられなかったの
ではないだろうか。
その後はそんなことを聞いたことはないから、心配する
必要もないのかもしれないが、最近、あまりラッシュ
アワーに電車に乗ることがなくなったので、どのくらい
の混みようかわからないが、どう考えても、戦後すぐの
電車事情とは雲泥の差があるだろう。
戦後すぐの頃、私は女学生で、京浜急行の屏風ヶ浦駅近く
に住んでいて、屏風ヶ浦から平沼駅まで、毎日京浜急行
電車を利用して通学していたのだが、その頃の混みよう
ってなかった。その頃の人たちはとても思いやりがあり、
小さな私のことを、見ず知らずの方々がよく助けてくだ
さった。
女学校の4年生といえば、今では高校一年生、結構体格
では成人並か、それ以上でしょうが、その頃の私は栄養
失調、坂道を登る時には膝もがくがくしていたような
状態で、背もなかなか伸びず、祖母が千恵子はだんだん
小さくなっているのではないかと心配してくれたほど。
周りの方が、心配して次の駅で降りるから、あんた、
此処へ座りなさいと言って下さることも多かった。
本当にご親切はありがたいと思っていたが、実は坐る
のもあまり楽ではなかったのである。
何故かというと、その頃の椅子には、シートというものが
なかったのである。
いや、そもそも、電車の車両が作られた頃にはぴっかぴか
の立派な車両で、現代の電車と、そんなに違いはなかった
のだが、戦時中の何もない時代を経たおかげで、車輌は
傷み放題、その上、戦後、仕事のない人々が、占領軍の
兵士たちの靴磨きをして、何とか生計を立てていたこと
もあって、車輌のシートが靴磨き用の布にちょうどいい
ということを思いついたらしく、最初はほんの20センチ
四方ぐらいの大きさで切り取られていたのだが、そのうち、
だんだん大胆になり、座席の大きさのシートが切り取られ
るようになってしまい、ついには、シートがなくなり、
勿論クッシヨンもなくなり、板が張られているだけの椅子
になってしまっていたのである。
だから、膝の位置が前に立っておられる方々の膝の高さと
ほぼ同じで、電車が発車したり,止まったりする時には
膝と膝が強くこすりあう形になり、下にクッションはない
から、とても痛かった。
その頃には誰からともなく”立て!、立て!”と声が掛かり
椅子の上に総立ちとなる。 椅子の上に立つといっても、
それこそ鈴なりなのである。だから私としては、椅子の上に
立っている人の前面というか、床に立っている人の頭の上に
少し乗り出しているような格好のときが胸を圧迫されないの
で、一番楽であったのだ。
時間帯によっては、同じ混雑でも混雑の意味が違ってくる。
朝6時半頃の工場へ出勤される殿方が多い時には、最悪の状態
になる。 何故かと言えば、男性は体が硬いので、女性が
少しでも乗っている時間帯であれば、ちょっとはゆとりができる
のだが、男性ばかりの間に挟まってしまうと、鉄板の間に挟まれ
ているような感じにさえなるのだ。たまたま、背の高い方の後ろ
に立つことになるともう大変だ。 背中に顔が押し付けられたり
でもしたら、息することもできなくなるという訳。
あるとき週番で朝早く家を出て、工員さんばかりが多く乗って
いる車両に乗ってしまったら、その後猛烈に混んできて、危険
だから途中で降りたいと思っても、身動きすらできない有様。
胸が苦しくて、はーはー言っていたら、隣のおじさんが、
”大変だ。 この子が死んでしまいそうだ!”
と叫んでくれて、周りの人々と、
”よいしょ。 よいしょ”と言いながら、押し返し てくれたの
である。 私は有難くて、大きな声でお礼が言いたかったが、
如何せん、胸が痛くて、やっと小さな声でお礼を言って下車した
が、その後、当分の間、胸が痛くて閉口した記憶がある。
(続く)
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