80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

学徒動員(2)トンネル内での出来事

2009-04-29 07:39:21 | 戦争体験
 その日は海軍航空技術省支廠に通勤することになった第一日目であった。
朝5時頃から警戒警報が発令された。
 
 私たちは、警戒警報の時は任務に就け、空襲警報がなったら、家で待機せよと言われていた。

 その日はすぐには空襲警報が出なかったので、途中で空襲警報になって、防空壕を探してうろうろするよりは早く支廠に着いておく方がいいかと考えて、6時半に家を出て、黄金町駅に向かった。

 電車はまだ走っていたので、どこまで行かれるかなと思って乗っていたら、

”空襲になりました。次の杉田で降りて防空壕に避難してください”とアナウンスがあった。

 杉田は自分の通った小学校の近くの駅ではあったけれど、防空壕ができるようになってから降りたことがなかったので、右へ行ったものか左へ行ったものかわからず、まごまごしていたら、
”電車がとりあえず行けるところまで行きますので早く乗ってください”というアナウンスがあったので、慌てて乗り込んだが、結局金沢文庫で降ろされてしまったのである。

 支廠は金沢文庫から金沢八景までの長い間口と釜利谷の山の方までの奥行きを持った広大な工場群であったので、金沢文庫の駅前と、金沢八景に入口があって、それぞれに番兵が立っていた。

 私の部署は金沢八景の入口から入ってやや暫く歩いていったところだったが、その日は文庫側から入って斜めに行こうと思ったのである。

 門を入ると、駆け足で行けと言われたので、駆けていったが、疲れて歩き出したら、工場の入口の番兵から”駆け足”と号令が掛かり、仕方なく駆けたのだが、また歩くと、再度駆け足の号令。栄養失調の私には辛くてとても長い道のりだった。

 その日も一日空襲だった。

 次の日母にどうしても行ってくれるなと泣きつかれた。行かなければ、憲兵に捕まって大変なことになると心の中では思いながら、それでも、またここから逃げなければいけない時には、母の体調がよくなかったので、私がいなければ困るだろうと思い、また、どうせ死ぬなら、家族一緒でという思いもあったので、家を出ることができなかったのである。

 その日の空襲では、京浜急行の富岡のトンネル内に避難していた電車があった。
そのトンネルの両側の入口に同時に爆弾が落ちて、その爆風で、電車内の大勢の乗客が、飛ばされて、トンネルに貼りついたままの形で亡くなった。

 後日友達から聞かされた話だが、もし、私がその日出かけていたら、もしかしたら、京浜急行の富岡のトンネル内で起こった大惨事に巻き込まれていたかもしれなかったのである。


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2 コメント

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おはようございます。 (sunstarpapa)
2009-05-01 07:07:41
過日テレビで、重い病気の方が一生懸命生きていく姿を拝見しましたが、その中で『命は当たり前じゃない』とありました。

・・・戦争とは。
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ありがとう (80ばあちゃん)
2009-05-01 08:13:35
sunstarpapaさん
何時も読んでくださってとても嬉しいです。
いよいよ明日は横浜のセンター南駅で12時30分から15時まで09憲法リレートーク集会と言うのがあって、そこで戦争体験の話しをさせていただきます。私の話はたった五分ですが、それでも頑張らなければと思っているのですが??? ありがとうございました。
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