空襲で焼け出された後、父の親友のご好意で、日の出町の山の上の防空壕に住まわせていただいたことがあった。防空壕と言っても、ちゃんと大工さんが建てた新築の家のような、防空壕としてはしっかりとした立派なもので、13の階段を下りて行くと畳が4枚か敷いてあった。その上に家があって土間と6畳とがあってさらに簡単な炊事場があり、トイレは外の少し離れたところにあった。その上の6畳の方には親友の親類の方とそのお父様が住んでおられて、昼間は息子さんは仕事に出られるので、おじいさんの面倒を見て欲しいと言うことと、空襲の時は下の防空壕に一緒に入るということで住まわせていただいたのである。
今では考えられないであろうが、焼けた後人々がみんなどこかへ行ってしまって、当時日之出町の山の上にはその家一軒だけがあった。 多分その両隣の山の上にも一軒づつしか家はなかったようで、何か配給物があるときには、向こうの山の方から、”おーい、練炭の配給が○○であるから、取りに行ってください。聞こえたか?”と連絡が入ると、”ありがとうございました。”と返事して少し歩いていって、反対の山の方へ向かって同じことを叫ぶのである。
たまたま外出の時に空襲にあい、近くの防空壕を見つけて入ったりすると、高射砲の陣地がすぐ近くにあったので、地響きがして、頭の上から土がぱらぱらと落ち、白い人骨らしきものの破片がいくつか転がっていた。
ある時空襲になり、みんなで防空壕に入っていたら、一番下の弟が”おしっこ”と言い出した。 頭の上では高射砲がうなっていたので、すぐ近くに敵機が来ていることは間違いなかった。もう少し待てないかと言ったが、小さい子のことで、もう我慢ができないと言って泣くので、私が抱っこして、外へ出た。一、二歩行きかけたところで、敵機の銃撃を受けた。びっくりして、13階段を転げ落ちるようにして防空壕に入り難をのがれたのだったが、階段を踏み外すこともなく、二人ともどこも階段にぶつかりもしていなかったので、今でも神様が守ってくださったとしか思えない。 空襲が終わってから、外へ出てみると、私の足跡から約1メートル20センチぐらいしか離れていないところに弾痕の一つがあったのである。
今でも、その時敵の飛行士と目が合ったような気がしてならない。
後でわかったことだが、その飛行機は黄金町の駅にいた人々を銃撃し、多くの死者を出して、さらに日の出町の山の上に向かって高度を上げてきたP51戦闘機であった。P51は小型で小回りのきく飛行機だったのである。
今では考えられないであろうが、焼けた後人々がみんなどこかへ行ってしまって、当時日之出町の山の上にはその家一軒だけがあった。 多分その両隣の山の上にも一軒づつしか家はなかったようで、何か配給物があるときには、向こうの山の方から、”おーい、練炭の配給が○○であるから、取りに行ってください。聞こえたか?”と連絡が入ると、”ありがとうございました。”と返事して少し歩いていって、反対の山の方へ向かって同じことを叫ぶのである。
たまたま外出の時に空襲にあい、近くの防空壕を見つけて入ったりすると、高射砲の陣地がすぐ近くにあったので、地響きがして、頭の上から土がぱらぱらと落ち、白い人骨らしきものの破片がいくつか転がっていた。
ある時空襲になり、みんなで防空壕に入っていたら、一番下の弟が”おしっこ”と言い出した。 頭の上では高射砲がうなっていたので、すぐ近くに敵機が来ていることは間違いなかった。もう少し待てないかと言ったが、小さい子のことで、もう我慢ができないと言って泣くので、私が抱っこして、外へ出た。一、二歩行きかけたところで、敵機の銃撃を受けた。びっくりして、13階段を転げ落ちるようにして防空壕に入り難をのがれたのだったが、階段を踏み外すこともなく、二人ともどこも階段にぶつかりもしていなかったので、今でも神様が守ってくださったとしか思えない。 空襲が終わってから、外へ出てみると、私の足跡から約1メートル20センチぐらいしか離れていないところに弾痕の一つがあったのである。
今でも、その時敵の飛行士と目が合ったような気がしてならない。
後でわかったことだが、その飛行機は黄金町の駅にいた人々を銃撃し、多くの死者を出して、さらに日の出町の山の上に向かって高度を上げてきたP51戦闘機であった。P51は小型で小回りのきく飛行機だったのである。
米兵の顔まで見えたそうです。
黄金町はかなりの方がなくなったそうですね
コメントありがとうございます。
お父様も機銃掃射を受けられたのですね。ご無事でよかった。
私も敵兵の顔を見た記憶があるのです。P51は本当に小さい飛行機でした。今でもそのときのことが目に見えるようです。その時黄金町の駅の上を何回か旋廻して打ったとか、大勢の人が銃撃され、亡くなったと聞いています。おそ
ろしいことでした。