風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

夏バテ対策

2009年08月20日 23時58分04秒 | 風竿日記

夏バテしていませんか?

僕もちょっと疲れ気味、おまけにちょっと古い辛子明太にあたってしまいました。

こんなときは心しずかに、いい音楽を聴くに限る。

1年前に始めたピアノに向かうもよし・・・・。

やがて秋の夜長、窓の下の虫の涼しい声を聴きながら一杯傾けるもよしである。

 

私の夏バテ対策はひたすらゴロゴロすること、体が悲鳴をあげているのだから

じっと回復を待つしかないのだ。

そのための頼れる友人が音楽なのである。

というわけで今日のスペシャルな一曲

古い映像と音で恐縮なのですが、70年代のアメリカ音楽シーンでソフトロックというジャンルを築き上げたブレッドをご紹介します。

「二人の架け橋」「イフ」とか有名ですね。

 <!-- Bread - Make it with you -->

少し新しい音源と画像もついでにご紹介しますね。

<!-- DAVID GATES & BREAD - Make It With You 1997 -->


晩夏のころ

2009年08月19日 23時59分59秒 | 風竿日記

通勤の道すがら

今まで何気なく通り過ぎてきた風景に、ふっと感動することが多くなった。

「多感なおじさん」になってしまっちゃったんである。

いいカメラ目線の原風景にでも出会った日には、あーた、それはそれは胸キュンなんである。

そしていつも方向のメルクマールとして、あの武雄の象徴「御船山」に護られていることに気づかされるのだ。

古の昔から、そうであったように、交通手段が多様化して、人々の往き来が活発になった現代においても、それは変わらないんである。百代の過客なんだもの。

人間関係が複雑化した現代においてもそれは変わらないんである。百代の過客なんだもの。

 

でもポラリスが決して北の空から動かないように、山もまた、静かに人々の暮らしを見守っているのだ。

御船山さんありがとう

夏も終わりに近づきつつあり、晩夏の夕暮れ時の御船山も実に味わい深いものがある。山はブレないから、どっしり構えているからいいんよね。

厳しさと、たおやかさと両方併せ持つ山は、そうそうはないと思うよ。

御船山さんありがとう

通勤の往復路、そんな他愛も無いことを思ったりしているんである。

そして、季節の移ろいの早いことといったら・・・・・。歳を重ねる毎に早くなる。

 

晩夏、太陽の申し子向日葵も、さすがにくたびれてきました。

どなたさまも残暑お見舞い申し上げます。お体ご大切に。

 

追伸   武雄よかとこ写真展23日までです。エポカル武雄までどうぞ。

 

 

 


逝く夏と武雄よかとこ写真展

2009年08月18日 23時58分55秒 | 風竿日記

武雄よかとこ写真展

がいよいよ今週末でフィナーレを迎えることになりました。

梅雨が明けて、すぐに夏が逝ってしまうような、そんな短い開催期間でありました。

この2年間GABBARSのメンバーそれぞれが、市民目線で記録し続けてきた、武雄の原風景の貴重なアーカイブなのです。

どうかエポカル武雄に急いで欲しい。是非、ちらりとでも良いですから、覗いてみて下さい。

23日(日曜日)午後6時までなんです。・・・・・さみしーい

「エビスの笑顔さん」の作品は武雄温泉楼門にスポットを

 

私の好きな一枚・・・・「YOGANAOさん」の展示作品から一枚宣伝のためにお借りしましたよ。

 

そしてもしも、もしも私にも舞台があったならば、展示したかった、という写真を僅かなストックから、・・・・・・誌上展示させて下さい。(汗)

帰宅途中の通勤路にて(橘町)

 

これも帰宅途中の通勤路にて(橘町)

 

来年も開催されるんであれば、山光さんと、Masaさんと三人の新入社員同士で、潤んだ瞳を漫画の主人公のように輝かせながら、「来年は絶対出そうね!」って・・・・固く手を握り合ったのであります。

 

夏の終わりは なぜかさみしい

あたかも祭りの終わった痕のような

描きのこした絵を

秋風がカーテン越しに奪い去っていくような

逝く夏を ひぐらしが惜しむような

 

夕暮れどきの蝉時雨に

思わず西の空を見上げると

遠い山々の稜線に

ほら、秋が手招きをしているよ

 

 

  旅立つ秋  ミスリムから荒井由美

「旅立つ夏」と読み替えて味わってみて下さい。 


でけそこないにも五分の魂

2009年08月17日 23時59分11秒 | 風竿日記

表紙の写真はリンゴ・スターから見た演奏中のジョン・レノンの後姿です。 嘘です

 

昨日の花火の写真、有史以来のど下手カメラマンの風竿が撮影したものなのですが、キャプションを入れることにより、とってもイマジネーションが広がって、自分的には結構面白かったんであります。 直感の世界で遊ぶのは心が自由で愉しい。

それで今夜も懲りずに一夜限りの「でき損ない写真展」を開催致します。

駄作集ですから、忙しい人は時間の無駄となりますので、念のため・・・・。

作品No1 「God knows あやつり人形は踊る」

作品No.2 「孤独な水母(クラゲ)」

作品No.3  「パームツリーの木陰で風に吹かれて」

作品No.4 「サンバを踊るシバ神」

作品No.5 「光速宇宙船は時空を超えて、どこの銀河へ」

作品No.6 「音楽を聴く犬」

作品No.7 「海辺の貝殻は潮騒を聴きながら眠る」

作品No.8 「冬のライオン」

作品No.9 「貴婦人はピンクのパラソルがお好き」

作品No.10 「動物の謝肉祭」

さすがにもう飽きましたよね・・・・。駄作の中の秀作が一つだけありました・・・。僕の主観だけのハナシですからね。

でもイメージの世界で遊ぶのは、とびきり楽しいものです。そして脳が活性化する。

幼い頃は母が居ない寂しさもあって、よく目を閉じて宇宙を連想したものでした。

写真といえば、「武雄よかとこ写真展」23日(日)までエポカル武雄で開催されています。こちらはちゃんとした写真展であります。どうぞお運び下さいませ。


約束と武雄よかとこ写真展と花火   

2009年08月16日 23時46分59秒 | 風竿の音楽夜話

表紙の写真は、このたび新発見された深海に棲むクラゲ科の新生物の生々しい写真なんであります。・・・・・嘘です

 

 昨夜「青春の影」で昔の記憶を思い出しながら、書き連ねていて今日は、ふっと私の好きな歌である「約束」を皆さんにご紹介しようと、YouTubeを検索していたら・・・何と「あの頃の話」がそのままに貼り付けてありました。

チューリップの第一次メンバーであった、宗田慎二さんも末広信幸さんもちゃんと登場していて、その上に当時の懐かしいナンバーである「柱時計が10時半」の演奏を「照和」でやっている場面まで・・・・。 判らないお方は昨日のブログをどうぞ

懐かしくて、懐かしくて、ただ、ただ懐かしくてたまりませんでした。

「ええとこの子ののバラッド」という歌もいい歌でしたね・・・。

「ママがパパを愛したように」も素敵な曲でした。

「ちいほあき森、梟の歌」もいい歌でした。確かどこかにコンパクトLPがあった筈ですが・・・。 超レア、今ならプレミアムがついていますよね。

すみません知らない人ばかりなのに、マニアック過ぎて・・・・・。

上の写真は卵子に迫る精子のミクロ顕微鏡写真・・・・・これも嘘です

 

実は昨年の丁度今頃から、何を狂ったのか私ピアノを弾き始めました。

完全な独学で、唄いながら弾くという「弾き語り」のピアノなんですが、財津和夫が作曲して沢田ちかこが唄った「会いたい」をピアノを弾きながら、どうしても唄いたくなったからでした。

疲れたおじさんが、ピアノ弾いて唄うって意外性十分でしょう。

上の写真は「天国への階段」を上るレスポールさんの心霊写真です。・・・・しつこい・・・・。 全部嘘です。

 

何とか人前でも唄えるようになって・・・レパートリーも30曲ほどになると、またまた財津和夫の歌に挑戦したくなりました。青春の影は歌っていましたので、何かいい曲はと・・・そして次に唄いたくなった歌がこの「約束」なんです。

財津和夫氏とはしばらくは親交があったのですが、「心の旅」が大ヒットして、佐賀に来たとき楽屋で話したのが最後でした。

「何でこんなくだらない曲を作ったのさ・・・・。もっといい曲を書く人が、よりによって!こんなミーハーな曲を・・・。」

「売れなければメシを食えんし、そんな悪い曲でもないと思っている。」

そんなやりとりをしたように覚えています。

さて、自分で唄ってみて思ったことは、「会いたい」と「約束」は同じレールの上にあるような気が・・・。アンサーソングみたいな。 

    約 束     TULIP   

さて、話はころっと変わって、今日は武雄よかとこ写真展を見にいきましたが、決して多くはなかったものの、お客様が切れずに訪れて下さっておりました。

かいぼー編集長の自信?作 水面とのシンメトリーが素敵

私のお気に入りの写真 IMAKOKOさんの作品です

力作揃いです。23日(日曜日)までエポカル武雄で開催中です。

是非ご覧になって下さいませ。

 

塩田の花火大会も開催されて、うちのテラスから撮影したのですが、タケタクさんの仰っていた通り、花火は難しい。初心者には難しすぎる。


青春の影

2009年08月15日 23時59分39秒 | 風竿の音楽夜話

今夜はマイ・フェバリット・ソングスです

「風に吹かれて」のharu-155 さんから大好きだって教えて頂いた歌・・・・いいですね。知ってはいたんですが、改めてじっくり聴いてみると、とても素晴らしい曲です。

よーし我がおじさんバンドで挑戦してみるか・・・・・。

<!-- Journey- Open Arms -->

 

そして我が青春のTULIPの代表作「青春の影」を今夜は是非聴いて下さい。

作詞作曲をした財津和夫さんとは、福岡天神の「照和」というフォーク喫茶に出演した折に知り合いました。

喉仏が異様に大きい人というのが第一印象でした。

今のTULIP  (といっても解散しているけれど・・・)のメンバーとは全然違う4人組みのアコウスティックなバンドでしたが、とても綺麗なハーモニーで、多くの出演者の中でも人気は飛びぬけていました。

私が今まで聞いてきたバンドの中でも3本の指に入るくらいに素晴らしいバンドでしたね。

私ごとですが、KBCTVのパンチ・ヤング・フクオカやKBCラジオの「歌え若者」にチューリップと出たこともあります。

宗田慎二というお方もとても歌が上手でしたね。末広信幸さんも上手かった。そして吉田彰さんがウッドベースを弾いていました。

そのときに「ライラック」という2人組みで、主にサイモンとガーファンクルをやっていたのが、姫野達也君、千葉和臣君でした。

姫野君は僕の下宿の近くに住んでいて・・・田島というところ

年齢も一緒だったので、時折話をしたり、{Beatles}の{Black bird}という素敵な曲のギター演奏のコピーを習ったりしていましたね。

千葉君は相棒の姫野を財津さんにとられて、その後あの武田鉄矢氏と中牟田さんと組んで第二次海援隊を組みました。

それでヒットしたのがあの「母に捧げるバラード」でした。

あの背の高いギタリストが彼です。第一次海援隊のドラムをやっていたのが、上田昌利氏だったと思います。

そして福大の{テキサス決死隊}というカントリー系のバンドの早弾きギタリストだったのが安部俊幸だったのでした。

オリジナルメンバーは「私の小さな人生」というシングルを東芝EMIレコードからリリースしてメジャーデビューを果たしたのでしたが、あまりというか、全然売れずに、すぐ福岡に帰ってきて、あえなく解散。その後「ストロベリー」というセッションバンドを経て、新生チューリップが結成されたのでした。

  青春の影 TULIPー

財津さんは当時相当ビートルズに傾倒していて(特にポールに)The Long and winding roadに影響を受けた曲がこの青春の影でありました。

私も時々ピアノを弾きながら唄うのですが、何度唄っても飽く事がない名曲だと思っています。

そしてそれこそ、本当に私の青春時代を思い出させる曲でもあるわけです。

追伸 偶然にもこのブログに書いていることが、YouTubeにありました。大発見したような気持ちです。

ちょっと重たくなるかなぁと心配しつつ、貼り付けちゃいます。

こやじいとか、ストロベリーの松浦とか、秀司は喜ぶよね。

<!-- 同窓会紀行 第一次チューリップの仲間 1 -->

<!-- 同窓会紀行 第一次チューリップの仲間2 -->

<!-- 同窓会紀行 第一次チューリップの仲間 3あの柱時計が10時半も -->

<!-- 同窓会紀行 第一次チューリップの仲間 4 -->

<!-- 同窓会紀行 第一次チューリップの仲間 5 -->


戦後64年と日本的経営の考察

2009年08月14日 23時59分43秒 | 風竿日記

日本人が310万人も亡くなった太平洋戦争が終戦を迎えて明日で64年が経過する。

戦後生まれが64歳となるのである。

これは先の戦争の風化に、益々拍車がかかっていくことを意味しているといえよう。

日本人が310万人というが、大日本帝国大東亜圏全体では1000万人が亡くなっているというのだから、いかにヒステリックな戦争であったのか、私たち戦後生まれとはいえ、「戦争を知らない子供達」では済まされない大事件なんである。

改めて昭和の御世の検証をきちんと整理しておくことが、日本人として極めて大切なことなのである。

わが国が、自称プロサーファーなどと吹聴して、「ゲイノージン」の妻と、ちゃらちゃらして麻薬に耽り、遊びまわっているバカな輩で溢れかえっていては、まったくもって困るんである。

             

私の愛読書に「失敗の本質」という佳書がある。初版から28年ほどが経った今でも名著として名高い本なのだ。

この本は大東亜戦争における日本軍の6つの失敗を分析してそれを戦略的見地から、現代おける経営組織と社会学的研究のテーマとして甦らせた点が、この著作の秀逸なところである。

本書編纂のリーダーたる野中郁次郎氏は「経営組織論」の大家でもあるから当然ではあるが・・・。

なぜ日本軍は敗退したのか・・・物量・兵器装備の根本的格差や、技術面に大きな国力の違いがあったことは良く知られるところではあろう。

原子爆弾に竹槍で戦おうとしていたようなものだからである。

しかし、もっと根本的な問題、つまり闘う以前の問題が隠れていたことを本書がちゃんと問題視しているのである。

あなたの会社は、旧日本軍になってませんか?

というキャッチコピーが通用するくらいに、その根本的な問題が、現代社会の経営論に通用する内容であるから、経営者は必読の書なんである。

意外なことだが、戦略と戦術の区別がつかない、戦略・戦術というからには敵がイメージされてないと空論となってしまうのに、敵が誰なのかすら見えていない経営者が多いんである。

私も随分と若い時に出会った本であるが、その後の戦略策定に際して大いに参考になった次第なんである。

本題に入ると・・・・

先の大戦における不幸な有史以来の敗戦は、日本の戦略策定における原則的な考え方や組織上の問題点などが一番の問題だったということである。

日本軍の組織が日本的集団主義、つまり官僚制を採用しながら情緒性を重視する中途半端な組織であったために、一つの失敗が多くの失敗を誘発してしまったという考え方を一つの柱として考えて見ること。

これは旧日本軍に限ったものではなく、現在の日本の政界および会社組織にも十分に当てはまることであり、現在の日本の失われた15年ともいえる状況は、まさに失敗の本質を十分理解し、反面教師としない、目先の問題処理型社会を構築して来た日本人的「長いものに巻かれろ」に代表される農耕型民族の典型的思考に基づくものであるのかもしれませんね。

細分化すると・・・・

①ある空気によって支配される議論と空気

②その場しのぎの中途半端な行動

③コンティンジェンシー・プランの欠如

③超エリート集団の強固で濃密な人的ネットワーク

④「間柄」中心の組織意思決定、その遅れと重大な失敗

⑤相手の過小評価と自己の過大評価

⑥知識・情報の共有の欠如

⑦何でもすぐマニュアル化しようとするオペレーショナル志向

⑧士官学校、陸大での暗記中心、定型的な金太郎飴型教育

⑨信賞必罰の不徹底

など、どれをとっても現代日本社会にあるようなことで、当時の若かった私は、多いにインスパイアを受けたのである。

さて、ちょっと偉そうではあるが、私が分析するところに依れば日本軍には短期戦略は存在したが、アメリカの国力から判断して、当然長期戦になることが予想されたにも拘らず、長期戦略が無かったことが、見るも無残な敗戦へと結びつき、何の罪もない国民や周辺のアジア各国国民に塗炭の苦しみを押し付けたということにつきると思います。

経営者や政治家は決して自信過剰になってはいけない。物事が正しく見えなくなるからです。日本軍司令部のように・・・・。

このような負け戦を強行した軍部の暴走を許してはいけなかったのです。その意味で日本国憲法の9条はそれ以降の日本に平和をもたらしたことは護憲論者は勿論、改憲論者も一定の評価を下すべきであります。

そして、大東亜戦争のような馬鹿な戦争は二度と繰り返してはならないことを今の平和ボケしている若者に教えるのが、私たちおじさんの正しい役割なんであります。

ああ久しぶりに真面目にやったんで疲れたバイ。

最後までお付き合いしてくれた奇特なお方には、ご褒美としてスペシャルな画像をプレゼントしましょう。

戦後強くなったものとして、靴下と女性が揶揄されるのですが、その典型ともいえる強烈ばあちゃん・・・・。半端じゃなかバイ

何とベンツのオープンカーに当て逃げを・・・エアバッグまで・・

 凄いおばあちゃん ベンツに当て逃げ


見上げてごらん空の星を

2009年08月13日 23時20分52秒 | 風竿の音楽夜話

今夜はこのYouTubeをクリックしてから、素敵なBGMを聴きながら、そのままお読み頂ければ大変嬉しゅうございます。

後半のBarry Harris のテナーサックスは心に染み入りますよ。

 Yoshiyuki Yamanaka with Barry Harris

         見上げてごらん夜の星を


昨日は坂本九が御巣鷹山で航空機事故史上最悪という非業の死を遂げて24年の歳月が経った、という命日でありました。わずか43歳の若すぎる死は、彼の明るいキャラクターも手伝って、日本中を深い悲しみに包み込みました。

日航の123便は今でも鮮烈に覚えているし、私自身日航機で福岡空港を飛び立つ時は、今でもちょっと嫌な感じがします。

因みに彼は普段は絶対にANAしか乗らないひとだったとか・・・たまたまお盆のラッシュでJALしかチケットが取れなかったらしいのですね。運命の巡り合わせの非情さを思わされます。

 

彼は日本が誇る、あのBillboard Hot 100に三週間も第一位を記録した男。1963年からその後46年間、第一位を獲得した日本人は誰一人として彼をおいては、居ないのであります。

九ちゃんは1941年12月10日生まれだそうで、もし生きていたら67歳、ぼくよりも10歳年上なのですね。

エルビス・フレスリーやバディ・ホリーが大好きだったそうで、九ちゃんの独特の歌唱はその影響が大きいそうです。

彼の芸能生活のスタートは1958年、なんとあのドリフターズにギターで入ってからだそうです。そのあと知る人ぞ知る「ダニー飯田とパラダイスキング」を経てソロでデビュー、初めはアメリカンポップスのカバー曲ばかりを歌っていました。

「素敵なタイミング」「悲しき60歳」「ビキニスタイルのお嬢さん」などです。どれも今は懐かしいとても洒落た曲です。

そしてあの「上を向いて歩こう」の大ヒットでスターダムへ

この歌は前向きで、ポジティブな歌のように思われていますが、

「一人ぼっちでとても切なく、苦しくて辛いから、涙がこぼれないように・・・上を向いて歩こう・・・

という、元来はとても悲しい歌なのだそうです。

九ちゃんが歌うと明るい歌になってしまうのでしょうか。

         

 

そんな中、米国に住むbusybeeさんは、こちらでは「Sukiyaki Song」が有名だけど、私はこの歌が好きですとYouTubeのアクセスを教えていただきました。

僕もこの歌が大好きです。友人のタカシも大好きで、彼が遠く千葉県でガンとの壮絶な闘病生活を送っていたとき、僕ら悪友達は、この歌を唄いながら彼を想い、途中で詰まってしまい、よく泣いたものでした。

            

昭和38年にいずみたくさんが作曲された歌ですが、46年後の現在でも全然古さを感じさせない素晴らしい名曲だと思います。

いずみたくさんは、CMソングもたくさん作っておられます。

チョッコレート チョッコレート チョコレートは明治

伊東へ行くならはとや 電話はよいふろ

あーいのスカイライン

そしてあの妖怪アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌も・・・

生涯で15,000曲を作曲したというのだから凄いです。

「夜明けのうた」「希望」などもいい歌ですよね。

そして作詞は永六輔さん。この詞がまたいいんですよね。

それでは、坂本九と平井堅のデュエットでお届け致しましょう。 ごゆっくり味わって下さい。

 見上げてごらん空の星を  

それではどちらさまも、幸せで良い夜と、健やかな睡眠を

では、では、おやすみなさい


哀しいペンギン・・・あるボランティアの会合にて

2009年08月12日 23時59分28秒 | 風竿日記

今夜はあるボランティアクラブの例会でした。

知性を磨き、相互理解の精神を養うボランティアのサークルなのですが、ゲストをお迎えしてお話を伺っているのに、ペチャクチャと隣の人と雑談に興じる人が・・・・。

会の大先輩で、マナーとか規則に人一倍うるさい人が、私語に夢中なのでした。

それは自由ですよ。どうしようと、自由です。お互いの責任のもと。

でも何のための例会なのか・・・・。

だいいち、講話をなさるゲストに対して失礼千万でしょう。

人の話もまともに聞けずして何がボランティアなのか?

まったくもって哀しくなってしまいました。

無私の精神を持って奉仕に、心と体と富をかけるのが、ボランティアの本質でありましょう。

私自身も人に偉そうに物申せる人間ではありませんが、こんな調子ではやがて会が成り立たなくなると思わされました。

しかし面と向かっては言えないんですよね。人と交わる難しさと辛さを思いますね。

荒野の氷に閉ざされた世界で生きていくには、人と交わってしか生きてはいけないし、極地に暮らすぺンギンはどうやってコンミューンを維持しているのかなぁ。

一度聞いてみたいものであります。

今夜はネガティブモードなので、早目に寝ます。

ばあちゃんがいつも言っていた「寝るより楽はなかりけれ」

 

 

 


線香花火

2009年08月11日 23時47分27秒 | 風竿日記

今年もお盆の季節となった。

仏壇に燈明を灯し、軒先に打ち水をして提灯を飾り、迎え火を焚いて父と母とおばあちゃんを心しずかにお迎えする。

生前厳しかった父から叱られないように、庭先の草もちゃんと払って、ちょっとしたお供え物を準備した。

お帰りなさい。二泊三日の短いご滞在であるが。

父は54歳で他界するまで、田舎の中学校教諭を務めていた。

 

私たち子供の前では極めて口数が少なく、厳格そのものの人であった。

人生何が面白いんだろうと子供心に思ったこともあったくらいに・・・・。

酒を呑むと低い声で・・・おいら岬の燈台守は・・・と歌った。

夏になると目をつむって冷やしソーメンをズルズルと食べていた。まったくもって、今の私のようにである。

消化器系からの異常出血でよく原因も判らぬまま、入院してわずか4日で逝ってしまった。

来春には「校長の資格を取った」と密かに張り切っていたのに。

私がまだ27歳の時であった。まさかの急逝に茫然自失した。

母は私が小1のとき、32歳で他界し、自分が母の齢を超えたときは自分なりに、次は父の齢を超えたいと、ひそかに思ったものだった。

父を超えるとは、それほど大きなものの一つでもあったのだ。

人はいつかは線香花火のように、儚くこの世から消えてしまうものではあるが・・・。54歳を大禍なくクリアした時は、実に複雑で妙な気分であった。

そして、それからはまさに「拾い物」の人生みたいに考えたりもしたものだ。

私の残り火があとどれくらいなのかは「神のみぞ知る」であるが、どうせ生かさせて頂くのであれば、これからはせめて「ご恩返しの人生」としたいものである。