風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

クリェイティブな仕事

2015年10月07日 22時59分44秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

法人会の大切な仕事で嬉野温泉のある老舗ホテルへ出向くと、高校の先輩でもある社長が汗だくになってお客様のお相手をされていた。

東京のある信用金庫から12班に分かれて1000人もの年金旅行のお客様が訪れるのだと・・・・・。

その今夜は3班目のお客様で館内は一杯なのだといわれる。

信用金庫時代のことが一瞬にして甦った。

このパッケージの企画は信金中金の福岡支店長のアイデアなのだ。

彼は着任早々、私のところに来て、佐賀長崎の観光資源をツブサに観て回りたいのでとアドバイスを求めてきた。

ハウステンボスはもとより、平戸から嬉野温泉のオススメのお宿を紹介して、小島さんはその観光スポットを連休を利用して奥様と自分の足で一軒一軒嘗め回すように見て周り

独自の観光ルートを作り、それを全国の信用金庫に紹介したのだが、その成果が、私が退職して1年になって実を結んでいるのである。

そして何より彼が足で確かめたルートだから、当然に旅行客も大満足だという。

今まで泊まったホテルの中で一番良かったという評価を何人もの東京のお客様から下されたとも聞いた。

お手伝いした者の一人としてこんなに嬉しいことはない。

それにしても素晴らしい男である。

仕事は無から創り上げるもの。無から有を生むもの。

信金中金では信用情報を蓄積した業界が誇るデータベースの構築から、マルチコーラブルという金融機関向けの新種の金融商品を開発するなど大活躍をして、福岡支店にやってきたのだが、

クリエィティブな男はどこに行っても、どんなセクションに配属されようともいい仕事を創り出すものだ。

さらに私が嬉しかったのは、理事長以下九州ひぜん信用金庫のスタッフが信金の法被を着て、12班のお客様すべてをお出迎えするということである。

仕事には直接は関係の無い東京のお客様に対して、同じ信金のお客様がわざわざ営業エリアにいらっしゃるからという配慮なのである。

手間隙のかかること、地銀が出来ないことを平然と当たり前のようにやれる信金は強い。

私も老骨に鞭打ち、法人会の会員増強キャンペーンで飛び回っているが、小島支店長にいい刺激を頂き、

さらにクリエィティブに、熱くアクティブに頑張らねばと思わされた次第である。

ああ、秋風が心地よい。

 

 

 

 


しんきん役職員コンペ

2015年02月28日 22時52分49秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

信用金庫を去って8ヶ月になった。

私の送別会で・・・・

「{七度生まれ変わろうと信用金庫に働きたい。それも田舎の信用金庫に

と云った私である。

そんな信用金庫バカだから、街で色んなお方とお会いすると、知らず知らずに

「信用金庫を頼んどきます・・・。」

「資金の要る時は信用金庫に云って下さい・・・。」

という営業活動を、後で気付いたらやっている。そんな自分に苦笑することもしばしば・・・。

今日はその昔の仲間の皆さんに会える日。

しんきん役職員コンペの日なのだ。

ゴルフは約2ヶ月ぶりという有様で、一時期からすると激減したものだ。

果たしてちゃんとゴルフらしきことが出来るのだろうかと、一抹の不安を抱えたまま、集合時間の7時半前に武雄カントリークラブへ。

そこには久しぶりに会う50名弱の役職員が

懐かしい顔・顔・顔

苦楽を共にした仲間と再会するのは実に嬉しいものだ。

肝心のゴルフはInからスタートしてワンバーディの「43」

後半のアウトは「44」のグロス87とまずまずの成績であった。

かってハンディキャップ10を誇っていた頃からすれば、何とも不甲斐ないのだが、

冬の寒い時期、二ヶ月クラブを握っていなかったことを考慮すれば、むしろ上出来なんである。

そういえば最近ゴルフに燃えなくなった。

得意のシャンク病は鳴りを潜めていたが、歳の所為であろうか、ドライバーは飛ばないし、アプローチはまるっきりダメ。

そんなことから、自分のイメージしたゴルフがまったく出来ずに嫌気がさしたのもある。

そんな中で復調を思わせるプレーもあった。

春になったら、また友人を誘って少しやってみようか・・・・。

さて、愉しい表彰式、私が提供した豪華商品は、私の大好きな男の手に渡り、嬉しい限りであった。

私は運悪くダブルぺリアに嫌われて、ハンディが12しかつかず、9位であった。

早朝から始まり2時にはすべてが終了する日程であったが、まあ愉しい一日を過ごさせて頂いた。

しんきん役職員コンペにお呼び頂いて感謝の一日でもあった。

さて、明日は夕方から長崎市に出向いて、アンクルハリソンさんという友人が企画されたビートルズライブに出演する。

「BODYⅡSOUL」というライブハウスで夜6時半からスタート

長崎市近郊のご縁ある皆さん

是非遊びにおいで下さい。

 

 

 

 

 

 


送別会

2014年08月02日 22時53分51秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

退任して大小合わせて37回もの送別慰労会にお誘いいただき、勿論その全部に顔を出させて頂いている。

それも8月にはあと7回ほどで終る予定ではあるが、

こんなたいしたこともない男がと・・・恐縮の極みなんである。

とりわけ、この日は凄かった。

信用金庫役職員の送別会

今まで送る方であったのが、送られる方に回ることになるとは・・・・。

私の妻までお呼び頂いて、そのお礼にピアノをご披露することに

職員の前では初お披露目の嫁さんでありました。

この日はずっと立って呑まされっ放しの私

二時間半ほど、ずっと後から後から杯を持って職員が私のテーブルに

それでも酔っぱらう訳にはいかぬ。

みんな信用金庫の仲間であり、同志であり、朋輩なのだ。

「何にも役に立たぬ男ば色々お世話になったね。後を頼むバイ・・・・。」

と何度握手をしたことやら・・・・。

色んな機会を通じて想いは充分に伝えてきたつもりではいるが、お別れとなると、何か言い残したようで・・・・

またぞろ色んな想いが頭の中を駆け回る。

素晴らしき哉信用金庫の仲間

この日は絶対に泣かぬと決めていたのだが、それでもグッと込み上げる時が何回もあった。

呑んでも話しても、想いは尽きない

可愛い後輩達を前にすると、込み上げる熱いものが

たくさんのお客様に支えられ、たくさんの職員さんに助けられ

何とか信用金庫人生をまっとうできた自分

有難い限りである。

これからも信用金庫のサポーターとして恩返しをしていかねばと思わされている。

九州ひぜん信用金庫の堅実な経営を託し、少し口うるさいOBとして今後も見守っていきたいと思う。

第二の人生の選択肢もたくさんにお誘いを頂いている。

まことに有難い限りなのだが、これも信用金庫のお陰だと思っている。

最後を感謝の言葉で締めくくれた私は、何て幸せ者なのだろう。

 


ささやかなる信用金庫論

2014年07月30日 11時27分20秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

「七度(ななたび)生まれ変わろうと信用金庫に働くだろう・・・・。」

そう云ってしばらく絶句した私であった。

先日、役職員の皆様から送別の宴を催して頂いたステージの上で

退任の挨拶を求められた時のひとこま

信用金庫とは

暗い海の上を航行する船の安全を願う灯台に似ている。

周りに何もない海の上で、いつも行き交う船の安全だけを願っている。

そんな、ちっぽけな灯台だけれども・・・・

断じて無くては困る。そういう存在なのだと思う。

リスクのない社会なんてあり得ないのだが、

お客様が暗い海の上で迷わぬように

いつも小さな灯りをともしている日本独自の金融文化を担う機関

それが信用金庫なんである。

雨が降り続こうと、嵐が来ようと、台風に洗われようと

ここで、この場所で、けして逃げずに頑張って灯りをともしていく。

それが信用金庫なんである。

けして大きな光ではないが、それでも全国各地に約270の信用金庫がその土地土地を護っているのだ。

餌場がなくなると、どこかに撤退していったある地銀さんとは違う

彼らは餌場を求めて移動していく動物なのだが、

信用金庫はどんなに土地が痩せていようと、ここで根を張って頑張っていく植物なのだ。

それは、絶海の中に佇む灯台にも似ている。

信用金庫に働いて良かった。

信用金庫で良かった。

七度生まれ変わろうと私は信用金庫で働くだろうと思う所以である。

 


去る

2014年07月07日 00時01分14秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

佐世保での挨拶回りもあと一日を残すのみとなった。

41年間の事務道具も片付けて、一応去る体勢は整えた。

  

雨の中を黙って去っていくことになるのだろう。

私の部屋の入り口に掲げていた連絡用ボードには

鬼が棲んでいると書いていたのたが、それもきっぱりと消し去った。

これは事務室に入る前に自分を奮い立たせるつもりで、自分に宛てて書いていたもの。

まあ、結論から云えば、鬼にはなれなかった。

というよりは、現場の辛さや苦しさがよく理解できたからである。

6月一杯の書類に目を通し、回覧のハンコを押す。

長い間お世話になった机にも深々と頭を下げて退室した。

老兵は去り往くのみなんである。

 


坂道

2014年06月29日 23時37分18秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

思えば長い長い坂道を登ってきたものだ。

一言で41年というが、少し歩きつかれた感もある。

佐世保の私の机の上には、この1年9ヶ月でお会いさせて頂いた皆様のお名刺が整理したら2500枚ほど・・・・・。

このご縁が今から花開くぞと思っていたが、退任することになったのは正直、多少残念な思いも残る。

この1年9ヶ月長距離運転をして通ったのは何だったのか・・・・。と自問

それでも、佐世保のお客様は、職員さん達は、とても暖かく私を迎え、そして心から送り出してくれた。

退任が決まって、少しづつその情報が漏れ出してから、こっち・・・・

すでに送別を兼ねた慰労会が既に7回も・・・・。

まあ、よく呑んだものである。

何ともお客様とは有難いもの。

「お前の退職はまだ早い!」

と何度も何度も、そこかしこで云っていただいたのだから、私自身が既に結論を出したいたことで、その励まし、それはとても有難くしかし辛かった。

私の名前を冠にしたゴルフコンペも、年に数回開催していくぞ・・・と言われた。

佐世保から簡単には離さんぞという訳で、こんな名誉なことはない。

たった1年と9ヶ月で、地元地銀の強い地域で、こんなにも気心が通じるなんてと・・・・自分でも驚かされている。

信金人生が最後に花開いたのだろうか。

そんなこともあって、今思えば佐世保は第二の故郷となった気がする。

町名も道も大体頭に入ったし、永田部長の後押しもあって一生涯付き合おうという友達もたくさん出来た。

別れ際には、みなさんからたくさんの心のこもったプレゼントを沢山頂いた。

このお礼をどうして返せばいいのやら・・・・。

花やネクタイやお餞別に混じって、驚いたのは渉外担当者の皆さんからの和手拭である。

何と1年9ヶ月の間に毎月勉強会を開催していたのだが、その間の私の話をちゃんとメモしていて、その抜粋を「尾形塾格言集」として染めこんでくれていたのだ。

しかも、全員が同じものを一生涯大切に持っていくのだという。

思わず絶句して、その瞬間に泪が溢れた。

私は「塾」などと一回も云ったこともなければ、思ったこともないのに。

塾生として全員の名前も書かれていたんである。

百の理論とデータを唱えるだけでは人は動かじ。

現場を彼らと一緒に汗を流したことで、いつしか心が通じていたのだ。

 

 

佐世保七ケ店を七人のサムライと称して僚店間の連携力を高め、お客様に対するサービスの質を高めようと特別の意識改革プロジェクトを提案してきたのだが、

七人の店長達からも、そのことを絶対に忘れないという誓いの暖簾を頂いた。

   

妻がさっそく部屋の入り口に飾ってくれたのがこれ・・・・・。

我が家の一生の家宝となった。

七人の支店長さんたちも何とも云えない素晴らしい仲間なんである。

土曜日の朝には佐世保の女子職員の皆さんから、ラブレター付きの胡蝶蘭が届けられた。

玄関でまた泪・・・・・。

何と気配り心配りの出来た仲間なのだろう。

晴れて部外者となった私に恩返しの機会は限られるだろうが、これからも信用金庫のために、坂道を登ってきて出来た有難い人のご縁を繋げていかねばと思わされた。

主の居ないオフィスはシーンと静まり返ったままだろうが、私の坂道はまだまだ続くのである。

恩返しという頂上に向って・・・・。


極上の花

2014年06月23日 20時27分31秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

41年間の長い信用金庫マンの最後の赴任地は現場であった。

専務理事という立場で、現場行きを命ぜられたときは、今更なんで現場なのだと思ったものだが、

1年10カ月、佐世保に通い続けて、往復2時間の長距離運転はちと辛かったものの、とても素晴らしい夢のような時間であったのだ。

まずは、佐世保地区7ケ店の職員の皆さんの素晴らしかったこと。

佐世保からすれば外様の私。赴任した当時は右も左も判らず、闇夜の三日月そのものであった。

       

コミュニケーションを徹底的に図り、早く気脈を通じさせることから始めた。

そのためには役員の机にかじりついてはいられない。

積極的にお客様を現場のみなさんと同行訪問することにした。

支店長さんとは勿論のこと、最前線の渉外担当者の皆さん全員とお客様のところを訪問した。

これが自分自身にも、とても良い経験となった。

現場で鍛えられてきたつもりであったが、長く本部の指揮官をやっていたら、いつしか観念的に現場を理解しようとしていたことに、現場に出て初めて気づかされたのである。

むろん本部でも現場スタッフとの同行訪問は重視していた。

しかも夏の、一番暑い盛りにこれをやることにしていて、一緒に汗をかくことによって、自分も信金マンとしての原点を忘れぬようにという裏の目的もあったのである。

それがセクションが替わったこともあって、いつしか机上の人と成り下がっていたんである。

佐世保という現場は、浸透度合いも低く、とても机の上では成果の上がらないところ。

打って出るしかない。

この環境が私にとってとてもよかったと思っている。

現場に通じる永田部長という一生涯の友人も助けてくれた。

若い職員の皆さんとの仕事を通じてのコミュニケーションもしっかりとやれた。

私がずっと欲しかった万年筆。退職記念のプレゼントに頂戴した。

お客様に一生涯のお取引をお願いするのが渉外担当者の仕事だと云い続けてきた成果が、この素敵な記念品に表現されていた。

         

 

信金マンとは・・・・という問いかけも浸透しつつある。

七つの店はお互いに連携してお客様にサービスの質を厚くしようという、七人の侍プロジェクトも一応の進展をみた。

その証拠の退職記念品がこれ・・・・・。

送別の宴でこれをプレゼントされた私は、その瞬間に泣きに泣いた。

         

佐世保に赴いて本当によかった。仕事の成績も素晴らしい成果があがる目途も立ってきた。

実に素晴らしい職員の皆さんたちであった。

さて、佐世保では辛抱強く、いろいろと信金マンを教授したつもりが、一番教えられていたのは、何を隠そうこの私。

色んな議論を重ね、若い人が意見を云い始めてくれた。

お客様とも積極的に輪を広げてくれるようになった。

佐世保に美しい人情の機微という花が咲いたのである。

 

この写真はharu-155さんというお方の素敵な紫陽花の写真、私だけに特別に掲載の許可を頂戴しているもの。

アメジストアジサイという名前を付けた。

まさに極上の花である。

佐世保での仕事は、こんなイメージなので、感謝を込めて佐世保の極上の諸君に、この花の写真を贈りたい。

やり残した仕事がないでもないが、覚醒の種は植えたように思う。

あとは5年後くらいに、芽が出て、花が咲き始めるかである。

その時に私の仕事の真価が問われるのだと思う。

佐世保地区の職員の皆さん、短い間ではありましたが、本当にありがとうございました。

                                             佐世保市内のホテルから・・・・・風竿より愛をこめて

 

   


紫陽花の咲乱れる中で

2014年06月22日 23時50分23秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

いよいよ、信用金庫生活もラスト1週間となってしまいました。

41年という長い年月を過ごした職場と別れるという実感が、まだ全然といっていいほどにありません。

回りから惜しむ声もたくさん寄せていただき、それはそれで有難く、感謝の言葉もありませんが、

自分自身が、まだ、もうこれで辞めるんだという実感が無いので、なんか他人事みたいに

「はあ・・・・。そうなんですよね。」という状態なんです。

時あたかも美しい紫陽花が咲き乱れていて、七変化しているという時期

私にも大きな変化が訪れようとしているのだ。

退職の忙しさを嫌というほど味合わされていて、花を愛でる暇がないのが実情です。

定年まで3年を残しての退任だけに

「何でまた、やめるとやぁ・・・・・。」

そんな電話が何回も何回もかかってきて、その都度、説明に追われることにちょっと神経が疲れてきました。

「パソコンも古くなったらリセットせんばいかんのですよ・・・。」と

すでに送別会や慰労会のスケジュールが目白押しの状態

私のようなつまらない男に・・・・申し訳のないことです。

 

まあ、私が退職しようがすまいが、そんなことに関係なく紫陽花は咲き誇っていますが・・・・。

弱冠62歳、また第二の人生を歩きたいと考えてはおりますが、しばらく充電・放電期間を置いて、妻ともよく相談して

身の置き所をしっかりと考えねばなりません。

6月27日金曜日が退任の日

「紫陽花退職」となりました。

人生の節目としては、私にお似合いの季節なのかも知れません。

 

 


樋渡啓祐武雄市長吼える

2014年06月17日 23時59分16秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

私が佐世保でお世話になっている長崎経済同友会佐世保支部の総会跡の講演会に樋渡啓祐武雄市長にご講演を頂いた。

 

就任前には、武雄という土地柄の知名度が皆無だったのを、今や国内でも有数の良く知られた自治体に導いた男の講演なんである。

しかも私が勤務している佐世保市での講演、これは行かずばなるまいというもの。

というより、この講演のコーディネートをしたのは実は私。

経済同友会の西沢理事の要請で、「お願い、何とかして・・・。」と頼んだものなんである。

即決のOKを貰って本日の講演の日を迎えた。

公演内容は民の力を活かして行政の無駄を排しながら、いかに町の活性化を図っていくかという話。

弱冠36歳にして全国最年少市長の座についた彼を、近くからつぶさに見てきた男としては、彼のこれまでの市政プロセスはよく知っている話。

改革者である彼には、本当に出る杭は必ず打たれるという判で押したような茨の道が待ち構えていたのだが、

それに屈することなく、市民病院改革や、図書館改革など、地方からの行政改革を成し遂げてきたのである。

その技法はあくまで正面突破、あまりに反対派と正面切ってやりあうものだから、思い余って、地域社会は調整型の市長の方がいいよと何度も意見したこともあった。

その都度彼は、「それなら次の選挙で私を落選させて下さい。」と言い切ったのであった。

今日の講演は、いつものように本音が無造作に飛び交う隙だらけのいわば彼らしい型破りの内容であった。

聴衆に息もつかせぬ話でどんどん核心を突いていく話術は、これまでの実体験が彼を突き動かしているのだと思った。

いつも反対勢力をこき下ろす彼の手法にはハラハラさせられたものだ。

しかし、今日のご講演を拝聴するに・・・・

これは確信犯だということを思わされた。

コンセプトは明確、すべて解ってやってるんだということ。

議論を日なたのもとに曝け出すために・・・である。

少なくとも相手を慮る常識人であるというのは、これまでのお付き合いで判ってはいたつもりだったが、

敢えて政治を判りやすくするために、というよりかは、一般市民に政治に対する関心を喚起するために、大上段から大鉈を振り下ろす。

実に面白い男である。しかも常に国の政策の先を行っている。

多種多彩な人脈から瞬時に伝わる情報源がすごいのであろう。

市民病院問題から、図書館問題、今度は教育改革。

紆余曲折はあったし、リコールという洗礼も受けながら、ひるまず負けずにやってきた。

そして形を作ってきたのである。

佐世保のお歴々が200人も集う講演会で、彼は武雄から行政を変えるという話を通じて、みんなに「元気良く頑張れば何とかなるもんです。」という話をしていたんである。

佐世保の皆さんはイチイチ頷きながら彼の無手勝流のようで、確信犯のパワーを貰っていたのである。

 

この講演に携わったものとして、心の中で快哉を叫んでいた。

終って皆さんから感謝の言葉を頂戴して、改めて樋渡市長の対外的な評価の大きさを再認識したのである。

それは、市長とともに田舎の地方都市が全国区になった証でもあった。

風は外から武雄に吹いているのを確信した講演会であった。


佐世保北地区信友会ゴルフコンペに参戦す

2014年06月05日 20時36分39秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

昨日のこのブログのアクセス何と4677件、一体どうしてなのだろう。たいした記事でもないのに・・・・。

 

さて、佐世保地区7カ店の統括として着任して、一年9カ月。

佐賀の田舎者に対して佐世保のお客様はとても優しかった。

お客様ともっと親しくなろうを実践すべく、20名の各店の渉外担当者とお客様まわりをやったり、

年金旅行を各店単位でやるなど、顧客倍増対策に力を入れたりで、少しづつではあるが、足がかりの手ごたえを感じている。

佐世保地区のお客様によるゴルフコンペも大幅に会員数が増え、毎回活況を呈するまでに成長した。

1年で会員数が倍になったのは、それまで佐世保全体でやっていたお客様コンペを北地区と南地区に分けたことによるが、

その分お客様に対する心遣いが濃密になったことが一番の要因であり、支店長さんたちのご努力に敬意を表するものである。

26万人の地方都市、佐世保地区の司令塔として多少は元気を出してくれるようになってきたのかと嬉しく思っている。

             

そんな折に、海の向こうでは日本ゴルフ界のホープ、松山英樹選手が見事に日本人4人目となるPGAツアーでの優勝を飾るという素晴らしいニュースが舞い込んできた。

上がり3ホールの攻防は、文字通り一進一退という、まさにハラハラドキドキものであったが、

トラブルから、プレーオフをドライバーなしで勝ち取った時には、何とも言えぬ感動が胸を熱くしたものである。

              

まだ伸び盛りの22際の若者が強豪ひしめく米国で勝利したことは、日本のゴルフ界にとってもまことに喜ばしいかぎりである。

私はといえば、最近ゴルフはからっきしであった。

90が切れないのである。

一時期はハンディキャップ10までいった男が、シャンクに襲われてからというもの、まったく情けない初心者ゴルファーになってしまっていた。

しかし、テレビで松山プロの強烈なスイングを見ていて、ハタと気づかされたことが・・・・。

         

そんな思いを携えて佐世保北地区信友会で武雄嬉野カントリークラブへ・・・

このゴルフ場も全盛期はいつも82から85くらいで回っていたコース。

ところが絶不調に陥って以来、100を切るのがやっとの状態だったのである。

しかし、この日は背中に松山プロを背負って参加していたので、ちょっといつもとは違うゴルフに・・・。

前半を43でまわり、後半も冷静にプレーを進めて最終ホールへ

ここで最悪ダブルボギーを叩いても久しぶりに80台で回れる計算であったが、なんと短いアブローチを二回も失敗して、トリプルボギーを叩くハメに・・・・・。

        

このホールが悪魔の9番ロングホール536ヤード

終わってみれば、またしても90という平凡なスコアであった。(涙)

まあでもゴルフの内容は少しはよくなってきたので、次回頑張る張り合いは出てきたように思う。

スイングを体がぶれないようになるべく大きく振る。

フォローで腕とクラブがLの字のコックを崩さない。

・・・・・という松山プロからの啓示が私を後押ししてくれているんである。

お陰で、少しはハンディ10の頃を思い出したような気がする。

因みにこの日のダブルぺリアのハンディは12であった。

佐世保北地区の懇親会では思わぬハプニングもあって驚いたりもしたが、そこかしこのお客様から身に余るお言葉を頂戴して感涙に咽びながら楽しいお酒を呑んだ。

この歳になってまだまだ未熟者の私であるが、お客様の有難さが身に沁みるこの頃である。