風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

徳は孤ならず、必ず隣有り

2009年10月31日 23時59分08秒 | 風竿日記

「徳は孤ならず、必ず隣有り」


子曰わく、徳は孤ならず、必ず隣(となり)有り。


(意味)
孔子先生が語られた、「報いを求めず、陰徳を積んでいる者は、決して一人ぼっちではない。必ず思わぬところに、これを知る者がいて、心からの協力をしてくれるものだ。」

先日の秩父方面の小旅行で、秩父鉄道の保養所であった「有隣倶楽部」で、今から80年前の昭和4年に揮毫されたという、あの渋沢栄一先生の書を発見

生前好んで揮毫していたらしい論語の中の言葉

達筆とはまさに、こういう書体をぞ、指して云うのであろう。

この人は超凄い人物であったことは衆目の一致するところであろうが、どれだけ凄いのかを列記しておきましょう。

           

1868年1月商法会所を設立する、10月大蔵省入省度量衝の制定や国立銀行令制定に携わる。

退官後間もなく、第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導。

第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京浜電気鉄道、東京証券取引、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。

若い頃は頑迷なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源。

渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。

「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。

他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。

社会活動

東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長なども歴任。

               

また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ一橋大学、東京経済大学の設立に協力、早稲田大学、二松学舎大学、国士舘大学、同志社大学などの設立取り纏めに関わった。

また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学、東京女子大の設立にも携わった。

また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。

道徳経済合一説

『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また、幕末に栄一と同じ観点から陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中州と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。

私利私欲は一切切り捨て、社会のお役に立つという考え方をベースに置き、八面六臂の大活躍をされた偉人なんですが、現代の「日本の実業界の父」と呼ばれるお方でもあります。江戸末期から明治・大正・昭和という激動の時代に生きた、日本の良心ともいえる大人物なのでありました。

こんなお方が居た日本は明治以来大発展するのが当然でしたよね。


 


招きねこダックさんありがとう

2009年10月30日 23時59分53秒 | 風竿の信用金庫は頑張るのだ

思えば秋の青空みたいにスコーンと抜ける爽快な気分で

人生を生ききりたいものではあるが、世の中とは往々にして

悪い想念から攻撃されるときもある。

・・・・・・・・・・・・・・写真は東京からのナイト・フライト機内より

色んな人が居てコミュニティが成り立っているのであるが、だから面白いと達観できぬ荒凡夫の私

先日の秩父でのスナップなんであるが、「秋霞」とでもいうのであろうか、雄大な秩父連山も私の心情の如く遠く霞んで見える。

日差しが強かったからであろうが、こんな日はやはりサングラスをかけて、直射日光を避けねばならないのであろうか。

 

 

10月中旬、がんに苦しむ友人、孝の一助にでもなればと、某「がんと闘う会社」を標榜する生保会社のがんセミナーに出席した。

その席上、武雄市のがん撲滅市民大会の話をして、何らかの協力と支援を要請したら、なんと当日のご講演をいただく中川恵一先生のがんの本「がんのひみつ」を寄贈いただけることとなった。 撲滅推進啓発活動にうってつけの小冊子なんである。

しかも1200冊もである。

云うのはタダ、云ってみるもんだなぁと舌をペロリ

そしてその間のことはこちらにご紹介してある。

CSRと企業メセナの一環でいろいろと良いことをなさっている。

太っ腹の招きねこダックさん・・・。着メロ№1だけのことはある。

世の中まだまだ捨てたもんじゃないぞ・・・。

ということで11月3日がん撲滅推進市民大会に参加される皆様には、この本がもれなくプレゼントされます。 

当日は武雄発のがん撲滅キャンペーンソングも音楽ドラマ仕立てで発表されます。

皆様ふるってご参加下さいますようお願い申し上げます。

このイベントには武雄のブロガー仲間達もこぞって応援してくれています。

こんな風にオール武雄でやっていければいいですよね。

 

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まだ他にもあると思います・・・・掲載ありがとうございます。


秩父長瀞( ながとろ) にて

2009年10月28日 23時59分01秒 | 風竿日記

長瀞のライン下りに行きました。台風の雨で水かさが増していて、結構面白い川下りでした。携帯からの投稿なので写真の貼りつけが一枚だけなのですが、帰ってから詳しくご紹介致しますね。

 

さてさて無事に帰り着きました。

今回はかねてより日程に組み込まれていた視察研修旅行だったのですが、その合間を縫って秩父長瀞町まで足を伸ばすことに。瀞(とろ)というのは波がおだやかな水がゆったりとしている様をいうのだそうです。

瀞場が長く続くというんで、長瀞と呼ばれるようになったとか・・

でもこんな急流も何箇所かあって、ドッと力水を浴びせられます

しかし腕のたしかなベテラン船頭さんがついています。

しかも話術も巧み・・・・そして男らしく精悍な顔つき

秩父鉄道の有名な赤い鉄橋がお出迎えしてくれます。

紅葉には2週間ほど早かったらしいのですが、それでも絶景哉

今回は傷心旅行となりましたが、いい景色に心も少しは・・・・。

さあ明日から仕事仕事、月末、月末

頑張らねば・・・・・。

 


秩父へ

2009年10月28日 10時05分08秒 | 風竿日記
新宿の京王プラザホテルに宿泊、昨夜は久しぶりにアフラックの井田ちゃんと痛飲。一生付き合う約束をしている素晴らしい男なんである。たまたま宿泊先のホテルの近くに、猫とアヒルが力を合わせての本社オフィスがあったので、夜7時井田ちゃんに電話したら、案の定まだ仕事中だった。我が田舎信用金庫が[招き猫ダック]のアフラックとお付き合いをすることの切っ掛けを作ってくれた井田ちゃんとの再会は、このところ親友の急逝で落ち込んでいた私に、極上の夜をもたらしてくれた。感謝です。

さようなら孝、また会おう。

2009年10月25日 23時59分03秒 | 風竿日記

わが友、孝の告別式

お通夜同様とても多くの会葬者に囲まれ、孝は静かに旅立って往きました。

なんと・・・・あの武雄市長物語にも孝のことが紹介されていました。

昨夜は普通のお通夜とは違い、お参りしても誰一人として帰る人が居ない。

みんな、型通りのお通夜の儀式が終わっても、けして帰ろうとはしないのでした。

そして殆どの人が、再びお葬式にもそのまま出席しているという、孝の「人となり」を顕す、実に心の篭ったお式でありました。

さらに予想通りといっては妙な表現ですが、告別式も多くの参列者が・・・・・。

特に一番の親友、こげちゃんの弔辞は素晴らしかった。

自作の「晩秋の微塵」という詩が素晴らしかった。彼の友情の渾身の一滴。

女性の方は勿論のこと、多くの大の男が肩を震わせて嗚咽しているというお葬式は、滅多にあるものではありません。

そして生花が60鉢も飾られた、「一介のサラリーマン」の葬式も実に珍しいと申せましょう。さすが孝、いや釈孝善居士でありました。

彼の気配りには定評のあるところですが、彼が亡くなるほんの数日前のメールのやりとり・・・・。死のベッドの上、とても苦しい中から、こんな素晴らしい返事をくれたのでした。

 

『孝、今年も12月19日に県内信用金庫対抗のゴルフコンペが決まりました。今年は孝のホームコース武雄カントリークラブだそうです。うちのエースが帰ってこないことには勝負になりません。だから頑張ってくれ。またアウト一番のティーグランドに再びその勇姿を見せて下さいね。それからきつかったら返信は不要ですからね。』

 

『体調はイマイチですが、諦めませんよ。ゴルフの件判りました。多分バーデイ発進でしょう・・・。』

 

この精神力の強さはどうだ・・・・。実に見事であります。

それはさらに彼の旅立ちの間際まで・・・・・。最後まで立派な気配りで、お母様をとても大切にして、旅立って往きました。

何故か、孝が煙となって昇っていったその時の空は、不思議な輝きを放っていました。

杵島山にある葬祭公園からの空は、孝が天国へ旅立ったのを象徴しているような不思議な色合いでした。

 

やがて仲間達は、孝がいつも通っていた大町温泉へ集結、そのまま「孝君を偲ぶ会」へと突入。

ここでも不思議なことに、綺麗なあかね雲が私たちを見守っているのでした。

そして、今夜の三日月も・・・・・何故かとても美しいのです。

何か大いなるものの存在と計らいを感じずにはいれません。

にぎやかな仲間達が、大好きだった孝のために次々と、いつのまにか30名ほどが集まりました。孝の話を肴にワイワイガヤガヤと。

ギターも持ち込まれて、孝の好きな吉田拓郎のナンバーが次々と合唱されました。みんな哀しみを忘れようと妙にはしゃいでいたのが、却って哀しみを深く象徴していました。

みんな孝が大好きでした。

その中でもこげちゃんは別格です。大親友なんであります。

僕は三回、こげちゃん本人から、『友人から「親友はこげちゃん」と言われたよ』と怒られました・・・。親友と書いたのが気に障ったみたい。ごめんなさいね。

でもみんな孝が大好きでした。

好きに理由は要りませんよね。

 

改めて孝君、安らかにお眠り下さい。

星のまたたきからすれば、10年、20年はほんの一瞬のこと

僕もそのうちまいります。

そのときは天国カントリークラブでまたお手合わせを、ヨロシクね。

                                   合掌

 

 


孝のお通夜

2009年10月24日 09時17分43秒 | 風竿日記

23日は私の誕生日でした。これでメデタク (めでたくもないか)58歳になりました。私のような不摂生の権化みたいな男が・・・・。

55歳で夭折した孝君になんか悪いような気もしています。

昨夜はその孝君のお通夜でした。

物凄い数の参列者に孝の人生の総決算を見せ付けられました。その数400名余り。

今日のお葬式はもっと多いかもです。

人のために何かをしてあげるのが彼の喜びでしたから、実にもっともな話ではありますが、列席者の哀しみの深さに、これまでの彼の生き様がそのまま投影されているのでした。

「その人の評価はお葬式で決まる」なんて言葉もあるくらいですからね。

              

今日は13時からいよいよその最後のお別れに出席致します。

言葉は要らない。心の込められた弔辞を捧げたいと思わされています。

孝君、色々と有難うございました。

やすらかにお眠り下さい。

 

                                   合掌

 

 

 


ザ・マン・オブ・ザ・マン  男

2009年10月23日 14時13分26秒 | 風竿日記

このところアクセス数が急増しているんである。

昨日1128

一昨日1251

わが刎頚の友人、男の中の男孝君の急逝を受けてのことであろうか・・・。

 

癌と闘ってきた孝は抗がん剤の副作用でスキンヘッドに・・・・

どこかシャイでお洒落な男としては髪が抜け落ちるのはショックだった筈。

でもライブの折、いつもカモフラージュしていた毛糸の帽子を脱ぎ捨て、ありのままの姿で歌を熱唱した。実に男らしい一面を見せてくれた。

 

仕事は万事ソツがなく、丁寧でしかも随所に思いやりが散りばめられていた。

そして何より、税理士の資格を併せ持っていた彼は、田舎信用金庫の経営相談室長として、悩み多きお取引先中小企業の相談役として、日夜奔走するであった。

毎年参加している「東京ビジネスサミット」の名コーディネーターぶりは見事であった。

いつも日陰で全体をちゃんと支えている根っ子のようなだった。

 

いつも仲間を大切にするであった。そのせいか当然に仲間からは好かれていた。

愚痴も言わない、そして人の悪口をけして言わないであった。

趣味は読書とゴルフ、そして彼にとっては適量の酒、大盛りのメシ、ギャンブルは一切しない。呑み屋にいけば結構モテていた。優しい男だったから。

 

豪快な彼のスイング、通称明治の大砲男 千葉で癌治療して100日後に帰ってきた時、満を持して彼の復帰第一戦での豪快なティーショットは生涯忘れられない。

「お前千葉の鴨川で一体何の治療をしていたの・・・?」と思わず口走ったほどの見事なティーショットであった。

彼は悪びれもせず、嬉しそうに「ゴルフの薬を毎日飲み続けていた・・・。」と言った。

 

ダンロップ・フェニックス・オープン、パター練習場でのスナップ

背中のボードには34位にアマチュア時代の石川遼君の名前が・・・・。

孝とは都合三回宮崎まで出かけていった。ここには孝と私しか知らないとても凄い思い出が一杯詰め込んである。いゃー楽しかったよねーっ孝君・・・。

居酒屋「川喜」最高だったよね。そして車のトラブルは圧巻・究極・極致でしたね。

今年は再び行こうと約束していたのに・・・・。約束を初めて破ったね。

彼は、約束は絶対に守る男でした。

 

彼には高校以来の友人「焦げちゃん」がいる。おコゲご飯みたいに色が黒いからそう呼ばれているのか・・・良くは判らない。

しかしこの二人はどう考えても他人同士とは思えぬフシがある。大学時代同棲していたとの噂もあるくらいなのだ。

そして孝の急逝を傍でずっと見守り続けた男

元来涙もろい男だった「焦げちゃん」も

今回、人前ではけして涙を見せずに頑張っている。ただし突けばいつ爆発しても可笑しくない風船のように、彼の涙は堤防決壊寸前の筈なんであるが・・・。

孝は呑みに行くと必ず唄うというレパートリーが三曲、歌好きの男でもありました。

まずはこの写真で唄っている「外は白い雪の夜」吉田拓郎はベストセレクションの一曲。

そして坂本九ちゃんの「見上げてごらん空の星を」「上を向いて歩こう」

とっても素直な唄い方は好感のもてるものでした。

 

今日は夜7時から北方町のまごころ斎場でお通夜です。哀しい夜になりそうですが、

今夜、棺の前で「孝こそ男の中の男だったバイ」と褒めてやろうと思っています。

ご冥福をお祈りしつつ・・・・                         

                                       風竿謹んで合掌


孝のいない朝

2009年10月22日 01時08分27秒 | 風竿日記

親友が急逝した朝、そのままボーッとしてベランダに出た。

朝の冷気が頬を打った。

不思議なことに涙は出ないのだが、はらわたが完全に抉れている。

 

遠くの山の稜線を黙って眺める。

この写真を撮ったのは午前5時30分

今からわずか一時間ほど前に、かけがえのない友人、孝は天に召されたんである。

 

漆黒の闇をくぐり抜けて、今日もまた朝日が昇ろうとしているのに、

何事も無かったかのように、家々では朝餉の支度がすすんでいるというのに、

もう孝はこの世にいないのである。

1954年8月4日生まれで、ついこの間55歳になった彼は、人一倍大きな体で、人一倍大食漢であったが、人一倍気配りをする心根の優しい男であった。

しかし56年目の孝の朝はもう永遠に訪れることはないのである。

ゴルフが大好きだった孝は、いつもその季節を肌で感じながらプレーしていた。

美しい花が咲いておれば花を愛でて、春には私が採って来た少しばかりのダラの芽を喜んでテンプラにして食べていたものだ。

今年のダラの芽を食べさせたとき、ふと「来年も食えるのかなあ・・・。」と洩らした彼。

 

今私の家の玄関先には植えて10年になる、秋のハーブが満開、この花も来年見られないとしたら一体どうであろうか・・・・。

諸行無常の人生、常ならず。明日のことすら判らないのだ。

 

当たり前のように訪れる朝を、当たり前のように迎える

こんな当たり前のことがいかに幸せなことなのかを、孝の死が私に啓示してくれた。

我が家の裏手の湖を渡る風が冷たい今日の朝は、湯気を立てながら朝がしずかに降臨してくるという、まるで初冬のような凛とした張り詰めた朝であった。

孝の旅立ちの朝には実に相応しいではないか。

空はあっけら閑とした秋の青空である。

まるで、孝のいない朝であることを、私に悟らせようとするかのように・・・・。ピーンと研ぎ澄まされていた。

心友であり、わが弟であり、ゴルフのライバルでもあった、心優しき男、孝のご冥福を祈るばかりである。

「そのうち俺も行きますから、パターの練習をしながら待っていてね・・・。」

既に主を失っている孝の携帯に、いつものようにメールを打った。