それはもう今から55年くらい前の話
鹿島市内の目抜き通りである新天町は、当時福岡からお嫁さんに来ていた母が、福岡を懐かしんで町名の公募にこっそり応募した名称
それが見事に審査員の目にとまり、めでたく母は命名者となった。
町名披露の折には命名者として表彰されたらしい。
そして現在は新天町さくら通りという。
実家に帰る度にこの通りを車で通行するのであるが、特に鹿島はこの季節、旭が丘公園の桜が一際美しいのである。
新天町から藤井醤油店の角を右折して大手門を通り、鹿島城址の桜並木の長い坂を上ると、一目二万本といわれる桜の森、旭が丘公園にたどり着く。
その昔は花見はこの季節の最大の娯楽で、市民は挙ってこの公園を訪れ立ち並ぶ露店で、セルロイドのお面や、金魚掬い、トコロテンを楽しんだ。
サーカスもやってきたり、見世物小屋も出現したりして、怪しいヘビ女や、小人のショーがあったりした。
ヘビ使いも登場、露店でこれまた怪しい軟膏を売ったりしていた。
夜は桜の下で酒盛りが始まり、手拍子で高言放歌がそこかしこで繰り広げられたものである。
その頃の鹿島は活気に溢れていて、中川公園では博覧会までもが開催された程であった。
そんな元気な頃の鹿島の中心商店街が新天町さくら通り
当時は森章美堂とか蒲原精肉店、久保天視堂、森永レコード店、新すずや洋品店、レストラン・ライオンなどかあった。
昭和の御世はまあ、とにかく商店街が元気だった。
そしてこの メインストリートは・・・・
私の母が未だに命名者として生きているメモリアル・アベニューなんである。
桜の季節になると不思議にそのことを思い出して、なぜかしら胸が熱くなる。
それは福岡から何にも知らない田舎に嫁いできた母が、
32歳という短い生涯を終えたこの地に遺した、
唯一の足跡であるからに違いないのだと思うのである。
もしかしたら散って仕舞うのではと心配になり
満開の桜を慌てて前日県庁の屋上から愛でに参りました。
遠く金立山にも薄桃色の色が点在し、眼下には御堀の周りの桜や町のあちらこちらにピンク色が点在し春を堪能しました。
幼い頃は本当に花見は大イベントでしたね。
梅、桜、藤、あやめ、菖蒲、芍薬、牡丹と春から初夏にかけて咲く花の中でも、花の下限定での宴は格別。何故でしょうかね・・?
幼い頃旭が丘公園にも連れて行って貰った事がありました。
そうですか、御母堂様が名付けられたのですか。
赤門、公園に向かってお店がひしめいていましたね。
数ある商店の中から親類のお店の名前を書いて頂き
嬉しく、また寂しくもおもいました。
確か初売りの開店時間は5時とか、そんなに早く!!
驚きながらも御客様が多々見えるとの話を思い出しました。 今ではイメージ出来ない程に戦後の昭和は元気でしたね。
樋渡啓祐マンセー爺さんの尾形民生の
母親がどうたらの事情を知ったら、
さらに忌避されるだろうに
そもそも鹿島と福岡天神の関係すら無知で、
こんな恥ずかしい作文を垂れ流すとは(涙)
杵島信用金庫なんて、私の祖父の弟がつくってやった銀行だが、
尾形みたいな老害が、大きな顔をしているのは、本当に困ったものだ