母校の教室が取り壊されるという。
名残を惜しむならどうぞ・・・・というご案内を頂き、友人と高校時代を懐かしみながら
赤門をくぐり、想い出の校舎へ出向く
そこは、三年間一日も休まず通った高校なんである。
当時は県下第二の進学校であったが、あまり勉強をした記憶が無い。
バンカラ学生を気取ったり、郷土研究部にも在籍し、陸上部で長距離を走ったり、二年の後期には生徒会長などもやったし、伝統のファイヤーストームでは副団長をやった。
また学生運動の洗礼を受けていて、佐世保にデモに行ったりもした。
後で担任の吉富先生から聞いた話では、そういう意味では目を付けられていたらしい・・・。
一緒に母校を訪ねた友人も一緒にである。
文化祭ではPeter Paul & Maryの「Puff」や「Don't think twice」
ブラザーズフォアの「七つの水仙」、キングストントリオの「レモンツリー」などをやった記憶がある。
岡林信康の「チューリップのアップリケ」もやったような・・・。
何せもう45年も前の話なので、記憶回路はとうに錆付いているのだ。
それでも耐震問題で解体されてしまうという教室に行くと、あのガリ版刷りのインクのような、独特の匂いがした。
机も椅子もなく、壊されるのを待っている状態なのだという。
まだ充分使えるような気がした。
この教室は昭和39年に建てられたというから、何とオリンピックの年である。
床はコンクリート剥き出しでザラザラしていて、夏は暑く、冬はもちろん寒かった教室は、
フローリングの床に明るい室内、エアコン完備の快適な空間に生まれ変わっていた。
こんな環境だったら私も東大くらいは行けたかも判らないと思った。
このベランダの手すりの上を歩いていた・・・・。
無鉄砲で尖っていて。諸刃のナイフみたいな高校生だったような気がする。
今と変わらないのは、当時からビートルズが大好きだったことくらいで、社会の洗礼を受けて、人格も協調性を中心に随分と変わったような気がする。
先生たちは四校模試(佐賀西・唐津東・伊万里・鹿島)の成績に気を使っていて、平均点で唐津東に負けでもすると、毎日が特課という授業とは別メニューで鍛えられたものだ。
私が毎日通っていた図書館は既になく、体育館が取って代わっていた。高校図書館の蔵書を在学中に千冊読破すると断言して、兎に角手当たり次第に本を読んだ。
その愛着の図書館が、私に断りも無くと憤慨したが、その横の講堂だけは何とか残されていた。
卓球部の練習場所になっていたが、ここは聖なる場所。
文化祭でフォークソングを唄った場所なのだ。
せめてこの建物なりとも遺してもらいたいものである。
玄関入り口の上には旧制鹿島中の紋章が残されているのだ。
木造モルタル造りではあるが、大正ロマン時代の建築様式を留めていてとても雰囲気のある建物なんである。
これを壊すなどとバカなことを言い出したら、今度は黙っておかぬぞと思っている。
すでにテニスコートの跡に仮校舎が建てられていて、そこで授業が行われていた。
12月から解体が始まるのだという。
小学校も、中学も今にして思えば素晴らしい木造校舎であった。
鉄筋コンクリートの味気ない建物に変わって久しいのだが、その近代的な校舎に生まれ変わってから、名物先生が学校から居なくなってしまったような気がしてならない。