風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

2014年10月31日 23時27分06秒 | 風竿日記

車を買い換える時期に来ていた。

でもこの歳になれば、車は走れば良い・・・そんな感覚

それに長く私に付き合ってくれた愛車でもあり、そんなに簡単には買い換える訳にはいかないのが人情

佐世保に通勤した1年9ヶ月をずっと私と付き合ってくれた車

今は製造中止となっているウィンダムというトヨタの車を、こよなく愛している私である。

それでも、いい車に乗って、ハイウェイをぶっ飛ばしたいという、闘争本能はまだ、心の片隅にあるようだ。

   

ということで、セカンドカーにポルシェを思い切って・・・・。

かみさん用のサードカーに国産のOROCHIというスポーツカーを

   

買おうかなあと思ったのだが、・・・・・やっぱり止めた。

そんなスーパーカーよりも大切なものがあることを知っているから。


ノルウェイの森を抜けて

2014年10月30日 23時53分16秒 | 風竿日記

中学2年の時からずっとビートルズと一緒だった。

ビートルズ現役世代なんである。

高校を卒業すると、しばらくしてさっさと解散してしまったものの、それでもずっとビートルズが大好きだった。

ノルウェイの森を、遠くから歩いてくる若者が4人

どんどん私に近づいて、あっという間にすれ違い、通り過ぎて行った。

一番早く去ってしまったのは、ジョンレノン

ビートルズの中で私が一番魅かれる人、生きていれば今年74歳なのだという。

1980年12月にニューヨークの自宅の前で凶弾に倒された。

今年で34年目の祥月命日を迎えようとしている。

   

その日には、毎年「John Lennon's Night」というステキな追悼ライブを行ってきたのも、今年で15回目となる。

因みに今年は12月7日(日)午後7時から武雄のディアジョンで・・・。

  

そして年老いた今でも、ビートルズの遺した213曲の解読をしている。

思えば音楽の趣味もビートルズと加山雄三から洗礼を受けたのだが、ずっと通してとなると、やはりビートルズが残るのである。

彼らの音楽はそれまでの、どのアーチストのそれとは違っていたし、コードワークも実に斬新で、それでいて美しかった。

もし、ノルウェイの森を歩いてくる彼らと出会わなかったら、私の人生は随分と違うものになっていたように思える。

「With The Beatles」 これまでもそうであったように、これからもそうであろう。

その証として、来年は「When I'm Sixtyーfour tour」なるものを企画している。

彼らの楽曲に起因するものであるが、遠い昔に彼らが唄った曲の年齢に達しようとしている今、Now just I'm sixty-fourと洒落てみたいのである。

  

ほぼ60歳を過ぎた仲間でバンドを組んで、土日にかけて九州のライブハウスを回るというもの。

プログラムは勿論ビートルズの楽曲を引っさげてである。

同好の士を募っているところでもある。

趣旨賛同の由は、どうぞ私まで・・・・・。


表敬訪問と樋渡デー

2014年10月29日 00時05分09秒 | 風竿日記

武雄市の公職を少しばかり仰せつかっていて、今日はその大切な委員会で武雄市役所へ。

時同じくして、福岡市からジョンレノン絵画展の名プロデューサー亀山みゆき女史が、市長に絵画展のお礼に表敬訪問

私も繋ぎ役として同席することに。

  

亀山さんは、とても鋭い感性の持ち主でいらして、素晴らしい行動力のお方、ご主人を7年前に亡くされてからは、女手一人で二人の子供さんを立派にお育てになり、会社経営も立派に軌道に乗せられた才女。

温泉deビートルズ音楽祭の特別企画として「ジョンレノン絵画展」のプロデュースをして下さったのであった。

その結果、僅か二週間で1万2百人の来場者が押しかけたのだから凄い絵画展であった。

女史は、とても律儀なお方で、武雄市図書館の開催を許して頂いた武雄市の最高責任者にご挨拶をしたいとのご希望から、愉しい対談が実現したもの。

短い時間ではあったが、音楽談義も飛び出し、当初から市長の肝いりで始めた「温泉deビートルズ音楽祭」のご報告も出来て、とてもよい機会でありました。

夜は、その武雄市図書館で花まる学習会の高濱正伸さんと樋渡啓祐武雄市長の対談形式の講演会に亀山さんと出席

お二人は真剣に教育の現場と対峙してこられただけあって、本質を突き、ズバリ切り込むという真理・本質・究極・畢竟の対談でありました。

教育の大切なポイントは自助力をどう刺激して、如何に能動的に人生に取り組む人材を育むかということに尽きるとかねがね思っている私には、何度も快哉を叫ぶような言葉が溢れ出て、愉しいものであった。

   

仰っていることが、いちいち私の心に、グサりと突き刺さり、一緒に拝聴した亀山さんも、二人の母親としても感銘を受けておられました。

この沸騰図書館では、こうして、日本の著名な文化人がとてもフランクにお出でになり、

身近にお話を聴くことができ、それはそのまま私達の豊かな人生に直結するような気がして、とても有難く思っています。

会場には遠く福井県や千葉県からもお見えになった方がいらして、今更ながらこの図書館が全国区であることを思わされました。

ジョンレノン絵画展で、献身的なご協力を賜った芹田さんも来ておられました。

いい意味で樋渡デーの一日でした。

なお、これらの写真は武雄市図書館は撮影禁止なので、市のオフィシャルカメラマン豊永さんの撮影されたものをお借りしたものです。

 

 

 


レオンの日々

2014年10月27日 22時25分26秒 | 風竿日記

精巣癌が見つかって、手術をして1ヶ月

すっかり元気を取り戻していた愛犬レオンであった。

散歩もせがむようになり、リーダーを用意すると喜んで、足の周りをクルクルと回ってはしゃぐまでに回復してくれていた。

郵便配達のサービスまでやってくれていた、名犬レオンであったのだが・・・。

しかし、4日ほど前から食べ物を戻すようになって、夜中の寝室は修羅場に様変わりしたのである。

オエッ、オエッと苦しみながら吐くんである。

さすがにベッドの上では遠慮するのであるが、部屋の隅の床に、所構わずといった風で、その姿を見るに忍びない。

起きている間も、いつもこんな感じで毛布にくるまって寝ていることが多く、さながら重病人の様相を呈している。

昨夜も食べたものが殆ど消化出来ずに戻した。

癌の転移だろうかと思い悩む。

はたまた、老犬の哀しさなのか・・・・。

そういえば、こんな状態になる前は元気を取り戻したこともあって、旺盛な食欲に乗じて、色んな食物を口にしていた。

つい、可愛さ余って分け与えてもいた。

それが原因で消化器に負担が生じてしまったのだろうか・・・・。

何につけても、喋らぬのだから類推する他はない。

しばし眼をみて会話をするのだが、心なしか哀しい眼をしているように見えて仕方が無い。

「おい、レオン、しっかりしてくれよ・・・・。」

まさに祈る想いである。

 

夜中、苦しがって吐いた時に、どうしようもなくなって、ある先生にメールで救いを求めた。

幸いにも起きておられた。たくさんの患者さんの種々の問題を解決するためにまだ仕事をしていらっしゃった。

深夜の2時である。

そして、快くレオンの遠隔治療を施していただく。

すると、あんなに苦しがって元気の無かったレオンが、それまで出なかったオシッコに行くと、勢いよく放尿して、駆け足で戻ってきたのだ。

眼に精気が甦ってきて、上機嫌の時に見せるポーズ・・・・

お腹を天井に向けてゴロリと寝転んだかと思うと、スースーと寝息を立てて寝てしまったのであった。

不思議なこともあるものだ。

前にも手術後の麻酔切れの痛みから救って頂いたのだった。

「癌の転移はないから、心配しなくてよろしい。」との有難いお見立てであった。

その先生は今東京に居て、こんな離れたところの愛犬を守って下さるのである。

もう何回も奇跡的な場面に遭遇したのだが、俄かには信じて貰えないだろうから、ご縁のある人にだけお繋ぎすることにしている。

少しの誇張も、宣伝もしないのだが、健康問題は云うに及ばず、人の悩みすべてを解決して下さる素晴らしいお方。

まさしく、レオンのご縁である。

 お陰で、今日から食べ物を戻さなくなってくれた。

まずは一安心・・・・。I先生、心から感謝申し上げます。

 


交換留学生

2014年10月26日 22時03分27秒 | 風竿日記

ライオンズクラブの会長を仰せつかっている関係で、交換留学生派遣の面接会場へ行かねばならなかった。

Youth Campings Exchange という通称YCEというレッキとしたライオンズの事業なのだ。

今年は珍しくも地元の高校から派遣留学生が応募された。

将来は、東南アジアの恵まれない子供達に勉強を教えたいからとの志望動機に・・・・思わず唸った。

既に高校生にして立志されているのだ。

その想いに応えるべくわが武雄ライオンズクラブも100%の支援をせねばと襟を正したのは云うまでもない。

世の若い諸君も捨てたもんじゃない。

会場に行ったのはいいが、他のクラブの会長は誰も来てないし、会長の出番なんて何もなく、ただ付き添いという感じでいささか拍子抜け。

オマケに会場が狭いので、1時間ほど外をぶらついて下さいと・・・・。

まあ、こんなことはよくある話で、日曜日だから良かったものの、勤め人には会長職は務まらないのかも知れない。

それくらい行事が多く、時間も拘束される。

昼の1時から3時半まで実に退屈な時間を過ごしたのだが、その倦怠を救ってくれたのが、この交歓留学生のJさんの熱い想いであった。

人間はなりたいと想うことが大切

彼女に教えられた昼下がりであった。

朝は雨模様だったけれど、昼からはよく晴れて暑い日中、お陰で外を散歩することも出来た。

うら若き彼女の心のような空が広がっていた。

 


御船山秋色慕情

2014年10月26日 00時58分06秒 | 風竿日記

博多からと長崎からと佐賀からと、ビートルズバンドの仲間が武雄に集まって、お昼から練習をやった。

11月に博多のキャバーンビートさんでライブをやるメンバーのリハ

リハと言ってもリハビリではない。

リハーサルなのだ。リハーサル。

遠くから武雄に来てくれる人は挙って

「武雄はいいね・・・。」

と云ってくれる。

「何処でも住めば都ですよ・・・。」と謙遜しながらも、

そう云われれば、まんざらでもないんである。

温泉deビートルズ音楽祭を開催するようになって、そんなビートルズを通じた音楽の仲間が一杯出来た。

よく遊びにも来てくれるし、その分こちらからも出かけて行く。

 

その規模たるや、何しろ今年も全国から50ものバンドが武雄に来てくれたんである。

 

1バンドはだいたい4人以上、取り巻きの皆さんまでお連れ頂くのでたいていは8人から10人くらいは武雄にお見えになる換算

それだけでもざっと400人くらいが武雄の交流人口となる。

泊りがけで来られるのが約4割、160人くらいだろうか・・・・。

音楽祭の動員は2500人ほどであったが、ジョンレノン絵画展は二週間で何と1万200人。

武雄市の観光力アップには多大なる貢献ができたものと思う。

 

それも普段のお付き合いの積み重ね。

イベントの成功の鍵は企画力はもちろんだが、田舎ゆえに人脈を大切に築き上げることが大切。

暇もお金も使うのだが、その分有難いご縁が生まれてくる。

 

3時間ほど練習して、ディアジョンで珈琲を飲みながら打ち合わせして音楽の友達と別れた。

帰り道は私が一番好きな、橘町の農業用水賂から観た御船山の慕情

車を停めて、携帯のカメラで原風景を切り取ると、朝も昼飯もロクに食べていない胃袋が「グゥーッ」となった。

空腹ではあったが、平和な土曜日の夕暮れであった。

 

 


おくんちは流鏑馬だ

2014年10月25日 00時14分20秒 | 風竿日記

10月23日は、勿体無くも畏くも、由緒正しき武雄神社のお供日

このめでたき日に生まれた私は、オメデタイ人間なんである。

武雄領民挙ってお祝いしていただくのだから、こんな喜ばしいことはないんである。

今まで平日は仕事で出向くことができなかったが、只今無職透明の身

お昼から家内と愛犬を連れ出して流鏑馬見物と洒落込んだ。

250mの馬場を一気に駆け抜ける迫力は凄いの一言に尽きる。

全速力で駆け抜ける駿馬の馬上から、こともあろうに三つの的を射抜くと言う離れ業をやってのける三人の射手

その華麗さは源氏絵巻そのものなんである。

私ごときは加齢さそのものなのだが・・・。

鎌倉時代から1000年も続く武雄の伝統行事は、物凄い迫力

あんまり駆け抜けるスピードが速くて、カメラが追いつかないほど。

それにしても鎌倉の世から、連綿と引き継がれている伝統の重みには、ただただひれ伏すのみ

流鏑馬は都合3回、合計9回の射的で終ったのだが、その怒迫力には固唾を呑むほどであった。

的を射抜くと、「お見事}の掛け声が飛ぶ・・・・。

フィナーレは白鷺の舞

両手を広げての鞍上の姿は惚れ惚れするくらいにとても美しかった。

日本文化の美しさ、私達は誇りにすべきである。

そして武雄はつくづくいい街だなあと思わされる私でありました。


ああ、鹿城健児は往く

2014年10月24日 00時53分47秒 | 風竿日記

母校の教室が取り壊されるという。

名残を惜しむならどうぞ・・・・というご案内を頂き、友人と高校時代を懐かしみながら

赤門をくぐり、想い出の校舎へ出向く

そこは、三年間一日も休まず通った高校なんである。

当時は県下第二の進学校であったが、あまり勉強をした記憶が無い。

バンカラ学生を気取ったり、郷土研究部にも在籍し、陸上部で長距離を走ったり、二年の後期には生徒会長などもやったし、伝統のファイヤーストームでは副団長をやった。

また学生運動の洗礼を受けていて、佐世保にデモに行ったりもした。

後で担任の吉富先生から聞いた話では、そういう意味では目を付けられていたらしい・・・。

一緒に母校を訪ねた友人も一緒にである。

文化祭ではPeter Paul & Maryの「Puff」や「Don't think twice」

ブラザーズフォアの「七つの水仙」、キングストントリオの「レモンツリー」などをやった記憶がある。

岡林信康の「チューリップのアップリケ」もやったような・・・。

何せもう45年も前の話なので、記憶回路はとうに錆付いているのだ。

それでも耐震問題で解体されてしまうという教室に行くと、あのガリ版刷りのインクのような、独特の匂いがした。

机も椅子もなく、壊されるのを待っている状態なのだという。

まだ充分使えるような気がした。

この教室は昭和39年に建てられたというから、何とオリンピックの年である。

床はコンクリート剥き出しでザラザラしていて、夏は暑く、冬はもちろん寒かった教室は、

フローリングの床に明るい室内、エアコン完備の快適な空間に生まれ変わっていた。

こんな環境だったら私も東大くらいは行けたかも判らないと思った。

このベランダの手すりの上を歩いていた・・・・。

無鉄砲で尖っていて。諸刃のナイフみたいな高校生だったような気がする。

今と変わらないのは、当時からビートルズが大好きだったことくらいで、社会の洗礼を受けて、人格も協調性を中心に随分と変わったような気がする。

先生たちは四校模試(佐賀西・唐津東・伊万里・鹿島)の成績に気を使っていて、平均点で唐津東に負けでもすると、毎日が特課という授業とは別メニューで鍛えられたものだ。

私が毎日通っていた図書館は既になく、体育館が取って代わっていた。高校図書館の蔵書を在学中に千冊読破すると断言して、兎に角手当たり次第に本を読んだ。

その愛着の図書館が、私に断りも無くと憤慨したが、その横の講堂だけは何とか残されていた。

卓球部の練習場所になっていたが、ここは聖なる場所。

文化祭でフォークソングを唄った場所なのだ。

せめてこの建物なりとも遺してもらいたいものである。

玄関入り口の上には旧制鹿島中の紋章が残されているのだ。

木造モルタル造りではあるが、大正ロマン時代の建築様式を留めていてとても雰囲気のある建物なんである。

これを壊すなどとバカなことを言い出したら、今度は黙っておかぬぞと思っている。

すでにテニスコートの跡に仮校舎が建てられていて、そこで授業が行われていた。

12月から解体が始まるのだという。

小学校も、中学も今にして思えば素晴らしい木造校舎であった。

鉄筋コンクリートの味気ない建物に変わって久しいのだが、その近代的な校舎に生まれ変わってから、名物先生が学校から居なくなってしまったような気がしてならない。

 

 


When I'm Sixty-four

2014年10月22日 23時55分08秒 | 風竿日記

まさか自分がこんな歳になるなんて想像もできなかった。

ビートルズの歌を聴きながら、その昔確かにそう思ったのだ。

僕が年老いて、髪の毛が白くなっても

今と変わらぬように、誕生日にはバースデイカードとワインのボトルをプレゼントしてくれるかい・・・。僕が64歳になっても・・・・。

という歌である。

とりあえずたった今、63歳になりました。

武雄はおくんちという目出度い日に私は生まれました。

母親に感謝、父親にも感謝・・・・二人とも現世にはおりませんが。

今日まで生あることに感謝。

とにかく万物に感謝する日でございます。

イエーッ


これで少しは落ち着いて、世のため、人のためにお役に立てる人間にならねばと、思ってはおります。

そして午前零時を待って、ちっちゃなケーキでお祝いしてくれた、奥様にも感謝でありまする。

来年は、その64歳、「When I'm Sixtyーfour Live Tour」やりましょうね。

長崎の井手さん・・・是非、やりましょうね。

ともあれ、感謝の気持ちで誕生日を迎えられ、とても幸せです。

 

 

 

 

 


拝啓・全信協さま

2014年10月21日 11時17分20秒 | 風竿日記

「月刊信用金庫」という全国の信用金庫役職員12万人のバイブルみたいな月刊誌がある。

現役中は常任執筆者とはいかぬまでも、信用金庫新聞と併せて、数多くの出稿をさせて頂いた、私にとっても大切な業界誌なんである。

まだ、顧問としてご縁の席は置かして貰っているのだが、それも責任の無い非常勤としてのもので、現役としての業界をリタイアした私が、

この信金の良心・聖地ともいえる月刊誌に、「これまでの信金魂を書き遺して・・・。」という条件で執筆を依頼されているのだ。

信金バカを自認する私が、この話をありがたく思わぬ訳が無い。

という訳で、この10月号から短いコラムを連載することに・・・・。

題して「HOTなしんきんマンは往く」

これまで42年間もお世話になった信用金庫業界へのご恩返しの意味から、次代を担っていかれる若い信金マンの皆様への熱いエールとメッセージを発信することになった。

しんきんブランドの究極は、即ち人間力を磨くことをテーマに、死ぬまで書き続けていきたいと願っている。

この橋渡しをしてくれたのが全信協広報部のM女史

私のような拙い無頼漢の老兵のために、頭の固い(?)上司に掛け合ってくれて、投稿の道が開けたのである。

その彼女の期待にも的確にミートしなくてはならない。

少しでも若い信金マンのハートをくすぐることが出来たら本望。

本日その11月号の原稿をしたためた。

書きたいことは山ほどにもあり、それはあたかもイノシシが鼻から熱い息を吐くような状態である。

 

老兵は中々死なないんである。