風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

海を見ていた午後

2015年06月30日 23時09分12秒 | 風竿日記

それは、とても静かな午後であった

通りがかりの海がとても綺麗で

思わず車を停めて 

「ホーッ

とばかりに見入ってしまった

海は釣りをするところだと思っていたが

少しばかり歳をとると

遠くの水平線を、ただぼんやりと眺めているだけで

打ち寄せる波が心を洗ってくれるような気がするものだ

コバルトブルゥのグラディエーションは、この世のものかと思うほどの視界一杯の美しさなんである。

自分の忙しい日常も、

疲れた腰も、擦れた声も、63という年齢すらも忘れて

吸い込まれるように海を眺めていた午後

それは至福の時間であった。

教会の帰りは、少しばかりちゃんとお祈りをしたから

その、ご褒美に神様が素晴らしい景色をプレゼントして下さったのかも知れない。

哀しいお葬式の帰りだということを除けば

素晴らしい、心の安らぐ日曜日であった。

そういえば、すっかり忘れていた。

 

慈悲深い神父様の写真も撮っていたのだった。

 


 


平戸二人旅

2015年06月29日 23時59分12秒 | 風竿日記

初めてデートした場所が平戸であった。

生月まで足を伸ばし、塩俵や大バエ灯台を巡り

サムソンホテルに宿泊

どうもこの土地は私達に縁が深いようである。

その平戸に久しぶりの小旅行。

少しは嫁さんの機嫌も直ったようである。

宝亀教会は明治11年に建てられ、その後明治38年に現在の教会が信者の手で建てられたのだと言う。

正面をレンガ造りで、後は全部木造建築なのだそうだ。

明り取りの円形の窓が母校の講堂に似ている。

ステンドグラスは建てられた当時のままだというから、よくぞ風雪に耐えて、今も尚、光と同調して美しい輝きを放っている。

別に私はクリスチャンではないものの、

教会内に入ると、神の存在を意識するほどに敬虔な空気がそこかしこに立ち込めていた。

西洋建築と和風建築が混在した、何とも云えない雰囲気を持った稀有な建物である。

そういえば平戸・生月地方は隠れキリシタンの地でもあり、多くの信者がかって弾圧を受けた所。

生月との間にある、中江ノ島にはキリシタンの処刑場があったと聞いた。

今でも霊を弔う祠があるのだという。

人が人を殺して良いなどということは一切ないし、あってはならないことであるが、平和国家たる我が国もつい400年前には、殺戮の歴史を繰り返してきた。

安保法制の見直しが議論されているが、少子化に向う我が国が辿らざるを得ない道に、徴兵制があろう。

死と直面するリスクを孕むことになる自衛隊に、けして親は出したくはないのが普通のセンスだから、

人が集まらぬのなら、諸外国が敷いている徴兵制に向うのは自明の理であろう。

力は力で抑えるしかなく、憎悪はまた新たなる憎悪を生んでいくばかり。

私達凡夫は、ただジョンレノンが作った「Imagine」の歌を唄うくらいしかないのだろうか。

そんなことを思いながら、曲がりくねった細い道を登った所に宝亀教会はあった。


平戸の茂樹と昌樹

2015年06月28日 23時44分04秒 | 風竿の釣り師烈伝

今日は磯釣りの世界で大変お世話になった柴山茂樹さんと昌樹さんのご母堂さまのご逝去に接し、葬儀に参列するために平戸の津吉へ

かって昌樹君が志々伎に居た頃、五島に釣りに行くはずが、時化で船を出せないとなると、ここまでよく飲みに出てきた町であった。

そんな平戸の南

釣りに通った折には、そう感じなかったものの、久しぶりに行くと

いやー遠い遠い。

長男の茂ちゃんとは、宮の浦の丸銀釣りセンターの経営者

ここでしっかりと磯釣りの修行をさせて頂いた、いわば私の道場のような場所。

亡くなったばあちゃんも、いつも釣り宿の店番をなさっていたものだ。奥さんの満子さんとは久しぶりに再会。

長男の久幸君がいい大人になっていて嬉しかった。

宮の浦は、尾上島、高島、中ノ島、頭ケ島、上下阿値賀島、釣り場は全部制覇したほどに通ったものだ。

磯釣りの島の名前をあげただけでも、なつかしさが込みあげてくる。

一方の弟昌樹君は、あじか磯釣りセンターの社長でサムソンホテルの経営もしている働き者。最近は水産会社も立ち上げて陣頭指揮を執っている。

いつ寝ているのだろうかという働き者。瀬渡し船の船長の頃から眠らない男ではあったが、還暦を過ぎ体は大丈夫かと心配になるくらい働きづくめ。

嫁さんのマリ子さんがまた、これに輪をかけた働き者なのだ。

彼の瀬渡し船で渡った五島列島・男女群島は私のホームグラウンド。おそらく500回位は行っているだろうか・・・・。

そして、昌樹君は私の切っても切れない親友なんである。

そんなご縁の深いお二人のお母様も旧知の間柄で、これはどんなに遠かろうと、ご葬儀に参列させて頂かねば仁義を損なうというものなんである。

大勢の参列者の中、厳粛な葬儀は終わり、

私達夫婦は、出棺を見送り、

帰路に付くと家内が「宝亀教会を見たい。」と言い出したので、天気も良いことだしということで、ちょっと立ち寄ることに・・・。

 

 

明治時代に建てられた教会はとても素晴らしいものであった。

その昔一度訪れたことがあったが、狭い道を登っていくと、思わず見とれる素晴らしさなんである。

 

この平戸で一番古い教会の話は、また後ほどすることにして、

お腹も空いていたので、田平の昌樹君のサムソンホテルで何か食べようと寄ってみると・・・・

あの超大型バイキングレストランでは、結婚披露宴が賑々しく開かれていた。

ちょっと私が招かれた結婚式場の中では類をみない素晴らしさ。

帝国ホテルもオークラもハイアットも敵わない素晴らしさである。

実はこの超大型レストランを建てる時に、昼間も稼動するようにウエディングをやったらとアドバイスしていたもの。

そんなことで、佐世保の信金のお取引先のブライダル業者も紹介していたのであった。

紹介の一席で呑んでそんな話が盛り上り、ブライダルがやれるものかテストをしようということで、昨年の9月に再婚して1年以上も経っていた私達夫婦が、テスト披露宴をやることになったのだ。

私も取引先を紹介した手前後には引けなくなったのだった。

ということで、ここの披露宴第一号は、何を隠そう私達実年夫婦なんである。まったく申し訳ない気持ちなのだ。

平戸瀬戸を見下ろす抜群のロケーションのレストランだけに、絶対に流行る筈と云った私の進言は見事に的中

11月など結婚式披露宴が目白押しの大盛況だという。

海側の窓を一枚ものの最大級の特注に換えて、レストランの雰囲気は最高レベルになっていた。

ついでに司会の女性も友人を紹介していて、この日はその彼女がMCで活躍していた。

元々は、海のご縁であった昌樹君との友情、その上で

人がこうして繋がっていくのは嬉しく有難い限り。

この日の花嫁さん、窓越しに撮影させて頂いたが、かなりの美人でございました。

いや、素晴らしい結婚式場だけに、まだまだ人気が上がると思うのである。

 

さて、葬儀の後に結婚式の話で恐縮だが、茂樹さんと昌樹君のお母様は95歳の大往生。

そのお顔は幸せで安らかそのものであった。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。

 


ある平戸のおばあさまのこと

2015年06月28日 01時41分12秒 | 風竿の釣り師烈伝

その昔、と云っても二十年までもならないのだが、

私は多少有名な釣り人であった。

狂ったように、月に3度は磯に立っていた。

主戦場は平戸宮の浦、五島列島、果ては男女群島から鹿児島県甑島、大分県の鶴見までも遠征したものだ。

言いようも無い孤独感に苛まれ、磯に逃避行していたのかも知れない。

ターゲットは真鯛・クロ・石鯛・そしてアラ

それなりの大物も仕留めたし、石鯛に至っては軽く300は釣ったであろう。

宮の浦は丸銀釣りセンター、船長の茂ちゃんとは顔馴染みを通り越して友人として今もお付き合いを頂いている。

五島はあじか磯釣りセンター。社長の昌樹ちゃんとは親友付き合いをして頂いている。

昨日、この二人のお母様が亡くなられた。

大正8年のお生まれというから、おん歳95歳の大往生である。

このお母さんは、とても良く出来たお方であった。

釣りに行くと良く声をかけて頂いたものだ。

とても心配性の一面を持っておられたが、普段は腹の据わったまっすぐのお方であった。

お母様から長い手紙を2回ほど貰ったことがある。

内容は個人情報だから遠慮するが、とても神経の細やかな素晴らしい手紙であった。

長男の茂樹、三男の昌樹のことを宜しく頼むとの文面であったが、それだけ私のような者を信頼して頂いていたことが、当時とても嬉しかった。

明日はお葬式に平戸まで行くつもりだ。

津吉の斎場だというから、まだ平戸大橋が架けられる前、フェリーで宮の浦まで初めて行った港のある所である。

そしてドングリウキのような頭をした瀬渡しの親父さんが、旦那さんの銀太郎さんであった。

今頃、早逝されたそのご主人と久しぶりに再会を果たしておられることであろう。

ご冥福をお祈りするばかりである。

 

                      尾形風竿 拝    合掌

 

 

 


日本庭園の美

2015年06月26日 23時13分59秒 | 風竿日記

今日の法人会は佐賀で事務局会議

老舗の旅館曙荘は県知事公舎のまん前なんである。

玄関よこの小庭が雨に濡れて素晴らしかった。

打ち水用の桶がこの写真のポイント

侘び寂びの趣も中々心に染み入るではないか。

苔むした庭には雨だれが良く似合う。

会議を終えて昼食の時間となり face bookを見ると

市役所のオルレ大野君が素晴らしい写真をアップしていたので拝借・拡散・シェア

  

写真を見てすぐ何処か判る人は、相当の武雄通である。

武雄神社の奥の院、同宮のご神木でもある大楠公園へ続く竹林なのだ。

ここを試験的にライトアップしたのだという。

これは素晴らしい限り・・・・・。

宮司さんとも相談して、新しい観光スポットとして整備しなければと思わされた。

楽しいお百笑さん大古場さんからは、花のお便りが・・・・

この写真も拝借・拡散・シェアすることに

何とも美しいアジサイではないか・・・・。

鬱陶しい梅雨の時期に、天は本当にステキな贈り物をくれるものである。

そして四季が巡り来る日本の庭園文化もまた素晴らしいものであることを実感した一日であった。

忙しい一週間がやっと終わり、しばし羽根を休めることとしよう。

 

 


我が心の中川(なっがわ)

2015年06月25日 23時24分57秒 | 風竿日記

法人会の催しで鹿島市の生涯学習センターエイブルほ訪れた。

マイナンバー制度の説明会であった。

受付案内、マイクテストなどを済ませると煙草を一服しようと裏玄関に出た。

曇り空の中、目の前には川が流れている。

かって、今は無き鹿島市立鹿島中学校の校歌にも謡われていた中川である。

 

確か2番の歌詞だった。

夏雲浮かぶ蟻尾山、

流れも清き中川に

鍛えあげなん勇気持て

進め鹿島中学校

 

この中川は夏になると小中学生の水泳場所であった。

大小の石が点在していて、その焼けた石の上を裸足でピョンピョンと飛び跳ねながら水に入ったものだ。

今は河川改修で何の変哲も無い川になっていた。

この橋の袂には「榎屋」という御茶屋さんがあった。

今で言う食堂のようなもので、文字通り大きな榎が生えていた。

昭和37年の大水害で中川橋と共に流れてしまったのだった。

何しろ市内の殆どが床上浸水してしまったのだから、ちょっと経験したことの無い大水害であった。

ある先輩から写真が送られてきたので追加しておきます。


当時の松浦市長さんは自衛隊に救助要請されて、高台にあった今の鹿島実業高校のグランドはヘリの発着所になった。

そんな大水害であったが、子供たちは元気一杯で、大増水した流れの速い川で泳いで遊んでいたものだ。

東亜工機の元の本社沿いに友人、小川の家があり、優しいお母さんが居たことから、学校帰りによく遊びに寄ったものだ。

冷たいラムネなんかを飲ませて頂いたのだが、母のいる小川が無性に羨ましかった。

橋の向こう側には永松の家もあった。泣き虫永松といって囃しては苛めたものだが、大人になったら警察官になった。

今は小川の家も、永松の家も消えうせて無くなっていた。

 

小学生だった、遠いあの頃の中川で泳いで遊んだ少年達は

一体何処に行ってしまったのだろうか。


終った!

2015年06月24日 23時58分43秒 | 風竿日記

武雄ライオンズクラブ、平成26年度の最後の例会が本日無事に終った。

ということで、私の拙い会長の役割も終った。

 

3年前に会長を引き受けねばならない状況になった時は、さすがに辞退したのだったが、クラブ内での事情もあり、引き受けざるを得なかった。

実務上は、会長よりも幹事の方が大変なので、幹事経験をさせて頂いた時よりも気はラクであったが、実際会長の座に着くと、責任の重さを両肩で感じたものだった。

クラブ結成45周年式典を300人規模で武雄で開催、

337ーC地区(佐賀長崎地区)の年次大会を1200人規模で武雄で開催

337複合地区を佐世保市で開催するなど、大会続きの一年であった。

信用金庫代表でライオンズクラブに参加させて頂いており、私の役員任期中でのことだから、大きな組織がバックアップしてくれると思っていたが、

意に反して途中から、法人会の事務局を預かる身となり、転籍した苦労もあり、実に苦しい日々が続いた。

信用金庫代表の看板を背負っており、その名に傷をつけまいと頑張ったのだが、後半の半年はちょっと言葉に出来ない葛藤が続いた。

ライオンズクラブ会長は、一介の勤め人には無理なのだと何度も挫けそうになった。

その都度、ライオンズ精神の 「We Serve」の言葉を噛み締めて、私は試されているのだと思い換えてきた。

クラブ会員糸を強い一本のロープに縒り上げねばならないと、一人一人の会員さんの意見に、謙虚に耳を傾けてきたつもりであるが、45名の想いを纏めきれたのかどうか。

クラブ会員だけは皆さんの協力で6名増えた。

ここ20年の間では最高の新規会員獲得の実績であった。

クラブには色んな人が居る。

独断専行の輩もいて、大いに梃子摺ったものの、何とか乗り切ることができたのは、会員の協力の賜物と感謝するばかりである。

例会終了後は慰労会をして頂いたのだが、三次会で仲良し三人組から

「本当にご苦労さんやった・・・・。」

と心から労って貰ったのが身に沁みた。

終ってみれば一年は早かった・・・・なんてとても云えないほど、ハードで、精根尽き果てた一年であったが、いい人生勉強をさせて頂いた。

7月には熊本市におつかれさん会で1泊の小旅行をして、私の会長職は完全に終るのであるが、本当に私ごときを支えてくれた幹事・事務局員さんに心から感謝したい。

 


大楠の襖絵

2015年06月23日 22時37分50秒 | 武雄法人会頑張る

19日金曜日、武雄センチュリーホテル飛翔の間50名

22日月曜日、武雄市文化会館小ホール160名

23日火曜日、鹿島市生涯学習センターエイブルホール159名

23日火曜日、白石町ふれあい郷セミナーハウス72名

24日水曜日、武雄センチュリーホテル平安の間70名

土日を挟んで5会場で私が出会う人何と511名

青年部の総会・ワインとジャズの嗜みから始まって

武雄税務署と共催したマイナンバー制度研修会

そして明日は法人会主催の「新社会人セミナー」

何ともめまぐるしい日々である。

そんな多忙な中。昨日文化会館小ホールのホワイエから眺めた「大楠」の襖絵は圧巻であった。

疲れきった私に無言で語りかけてくる説得力がある。

雷に打たれ半身不随の身ながら、見事に生きている生命力

武雄市の三大巨木の一つに数えられながらも尚、謙虚に立っている。

木陰に憩う人間達を黙って包み込んでくれる。

 

それに比べて、自分の何とも小さなことか・・・・。

 

 


法人会は結構忙しいのだ

2015年06月22日 23時50分07秒 | 武雄法人会頑張る

19日金曜日は公益社団法人武雄法人会の青年部の定時大会であった。

30人ほどだった部員数が飛躍的に増加して現在52名

数は力なり、勢いが出てきたのである。

「青年が元気な組織は発展する!」の黄金律がある通り、彼らが主体性を持って自由に動ける仕掛けを仕込んできたつもり。

その意味では嬉しいこと、この上ないのである。

 

女性部会の結束力に押されがちだった青年部だが、今年はちょっと違う。

元気がよろしくなってきたのだ。

焚き物は下からしか燃えない。上から新聞紙をいくら燃やしたところで、ガソリンをぶっかけたところで、燃えない。

下から風通しを良くしてやって、枯れた枝を寄せ集めて火を点けると、やがて燃え盛る炎となるものだ。

我らが兄貴分でもある会長は、その辺を良く理解して頂いていて、青年部の活動を目を細めて見守って下さるので、皆が主体性を持って動き易いのである。

今年は定時大会の後、去年に引き続いて「ワインの嗜み」というイベントを仕掛けてくれた。

さらにディナーは勿論、今年は青年部部員にジャズギタープレイヤーが居たこともあって、「JAZZの嗜み」というライブをくっつけたのであった。

結果は大成功。武雄では中々味わえない豪華でジャージーな空間がお目見えすることになった。

彼らの演奏力は素晴らしいものであった。

何より二次会が盛り上った。

殆どの部員が二次会の「ぶらんこ」に集結。

会長もご参加いただき、法人会の将来について熱く語り合ったのであった。

若い彼らとの酒宴はちと応えるものの、愉しい瞬間でもある。

彼らのためにも法人会組織を活性化させねばと思いを新たにしている。

さて、明けて月曜日は武雄市文化会館小ホールで武雄税務署さんとの共催で「マイナンバー制度説明会」であった。

明日も鹿島地区と白石地区で同様に開催せねばならない。

水曜日は「新社会人セミナー」を開催。息つく暇もなく公益事業が続く。

法人会は結構忙しいのである。