Zooey's Diary

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「誓いーチェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語」

2016年01月09日 | 


チェチェン紛争をテーマにした映画「あの日の声を探して」を観た後、
ハッサン・バイエフ著の「誓いーチェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語」を読みました。
米原万理が「チェチェンのブラックジャック」と称しているというバイエフの本、
500ページ余の分厚い単行本なのですが、いや面白い。
夢中で読んでしまいました。

チェチェンが何処にあるのかも私は正しく知らなかった。
黒海とカスピ海の間、ロシアと中東を隔てるコーカサス山脈にある、小さな国なのだそうです。
そこでイスラム教であるが故に、16世紀イワン雷帝の時代からロシアに迫害され続けていた。
ハッサン・バイエフはそこで1963年に生まれました。

彼の数奇な生涯を簡単に表すと
虚弱体質で病気に次ぐ病気→柔道と出合い、ソヴィエトチャンピオンに→医学の道へ→
モスクワで美容整形外科医として大成功→戦時下のチェチェンに戻り、多くの負傷者を治療する→
ロシア人医師の捕虜逃亡を助処刑寸前に→重いPTSDでモスクワの精神病院に入院→
メッカ巡礼→第二次チェチェン戦争で再び砲火の下、負傷者の治療に奔走、ミサイルの直撃もくらう→
ロシア、チェチェン双方から命を狙われ、アメリカに亡命→人権活動家として表彰され、
世界にチェチェンの現状を訴える一方、医学復帰を目指す(←イマココ)

淡々と書いてある自伝なのですが、その内容が凄まじい。
ほんの一部分をご紹介すると
”毎日、何十人もの負傷者がアタギに運ばれてきた。
大腸や小腸をはじめ、肝臓や腎臓や生殖器がまるでひき肉のように潰されていた。
どれもこれも殺傷性の高い破砕性爆弾によるものだった。”
そんな戦火下において彼は
”サワークリームで患部を洗浄し、家庭の縫い糸を消毒して傷口を縫い、
暗がりの中で患者の足を切断し、大工が使う鋸を使って頭蓋骨を開き脳外科手術をし、
27時間飲まず食わずで手術を行って気絶すると、看護婦が病院の外で雪で顔をこすって起こし、
多い時は3日で70数件の手術を行った”というのです。

民家を破壊し、徹底的に略奪し、女を強姦し、男を殺すか連れて行く様は映画でも観た通り。
半死の重症を負った女は、力なく著者に言う。
”「あいつらは私たちの目の前で娘を犯しました。
シャマーノフ将軍が部下の兵士に言っていました、
『やれ、やれ、お前たちの好きなようにやれ』と」”

かの有名なヒポテラクスの誓い通り、兵士も市民も関係なく、チェチェン人とロシア人の区別もなく
治療を施した著者は、チェチェンの急進派からもロシアからも命を狙われ、何度も殺されかけ、
やむなく2000年にアメリカに亡命します。
それにも大変なドラマがあったのですが…

しかしその後も、チェチェンに住む甥のアリがロシア軍が連行される。
随分後になってアリがした話によると
”深さ4メートルの、手足も満足に伸ばせない井戸のような堅穴に放り込まれていた。
連中は毎日、日によっては一日に二度も三度も、アリを穴から引き上げて、散々殴りつけた。
股間を突かれることもあるし、腰を殴られることもあれば、顎をやられることもあった。
アリを「外科医の椅子」に座らせ、両手を背中に廻して手錠をかけ、水を入れたプラスチックの
ボトルで殴った。指や耳、唇や性器に針金をつけて、電気ショックをかけた。
そしてその後は、指の爪の間に針をさしこむのだった”
アリは穴の中に39日入れられて拷問され、著者がアメリカから二千ドルを送ってようやく
釈放されたのだそうです。

いやもう、紹介するにもキリがない。
まだ近年に、こんなことがあったのかと只々驚くばかり。
(そして今も、このようなことが世界の何処かで起り続けている)
そういえば2013年のボストン・マラソンのテロはチェチェン人の兄弟が犯人だった。
あの時はなんて酷いことをと思い、今もその気持ちは変わらないのですが、
こんな複雑な背景があったのだとは…

「誓いーチェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語」 http://tinyurl.com/z8c8nu2
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